これの続き
一段と冷えた朝。
小鳥の声が庭に響いて、朝日が昇ったことに気がついた。温もりから離れがたくて、顔まで布団を引き上げる。
「おい」
「………」
障子の向こうからの声に聞こえないふりをして、静かに寝息を立てる。しばらく沈黙が続いて、その後に呆れ混じりの小さなため息が聞こえた。障子が開かれる音にハッとして布団から顔を出すと、そこにはこちらを見下ろす大倶利伽羅の姿があった。
「……えーと、おはようございます」
私が布団から出る気のないことを悟ったのか、彼の目が静かに細められた。
「朝餉だ」
朝食の香りは本殿の端にある審神者の部屋まで届いていた。鍛刀してからほとんどの間を歌仙か燭台切が台所の番を勤めている。現世の良いレストランも負けず劣らずの食事が楽しめるのだ。今日もきっと美味しい朝食が用意されているのだろう。一晩で空になった胃袋がキュウ、と小さく音を鳴らした。
のそりと起き上がってようやく布団から這い出る。お迎えに来た大倶利伽羅はまだ障子の前に立ってこちらを見下ろしている。
「準備してすぐに行くから」
大丈夫だからお先にどうぞ、という意味を込めて言ったのだが、彼はこちらを見据えたままだった。
「二度寝なんてしないよ」
過去に何度かやらかして、彼らを困らせた経験がある。その失態を思い出して大倶利伽羅に言えば、彼は訝し気に目を細めた。
足を進めて近づいた大倶利伽羅は私の前に出る。
ゆっくりと腰を下ろした彼の手が頬に触れた。革の手袋から伝わるひんやりとした冷気に、思わず肩が揺れた。
なんてことない、いつも通りの行為だというように大倶利伽羅はごく自然に私の唇に触れる。
これをするとき、私はいつも大倶利伽羅の羽織を握りしめる。じわりと内側から身体を温めるように広がるのは、彼の霊気だ。
「早く来い。皆待ってる」
「…………はーい」
かろうじて絞り出した返事を確認してから、大倶利伽羅は部屋を出て行った。
布団からの温もりが逃げて冷えつつあった身体に熱がこもる。うう、と声にならない声をあげて、布団に顔を埋めた。頬が熱い。霊気を受け取ったことだけが原因ではないのは明白だった。
「ころす気か……?」
誰もいない部屋で独りごちる。毎日のお勤めと化してしまった霊力供給行為に、毎度心臓が持っていかれそうになる。肺にある空気をすべて吐き出すくらいの大きく呼吸を繰り返して、身支度を整えるためいよいよ本格的に起き上がる。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、到底見せられたものじゃない。いつもより小さな歩幅で時間を稼ぎながら、空気に冷えた手で熱を払いながら広間に向かった。
広間に着くと、もうほとんどの男士たちが集まっていた。その中にもちろん大倶利伽羅の姿もある。周りの刀剣たちと雑談を交わすその姿を見るに、先ほどの行為に関しては全く何とも思っていないんだろう。
半割の沢庵をポリポリと軽快な音を立てて咀嚼していると、ふと向かいからの視線に気がついた。
すでに茶碗の中身を空にした鶴丸が、頬杖をついてじっとこちらを見つめていた。沢庵の塩っ気を堪能して飲み込んだ後、どうかしたのかと問うと彼は肩を竦めて言った。
「なに、わかりやすいと思ってな」
鶴丸の言葉に、ハッと手を頬に当てる。
まだ余熱が残っていただろうか。そんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。先の事を思い出して、余計に熱が沸いてくる。考えれば考えるほど逆効果だった。
今すぐ庭の雪に飛び込みたい気持ちで慌てて取り繕うと、その様子に鶴丸は目を丸めた。
「私、そんなに変な顔してる!?」
「は? いや、君じゃなくて――」
「か、顔洗ってくる……!」
鶴丸の言葉に被せるようにして、勢いよく立ち上がる。その拍子にぶつかった机が大きく音を立てた。
「な、なんだ。まだ途中だろう」
「部屋で食べる!」
まだご飯の残る膳を持ち上げ、背を向ける。
なんだなんだと男士たちの意識がこちらを向く。視界の端で大倶利伽羅も驚いたようにこちらを見ているのが見えた。それを振り払うようにして、広間から飛び出した。
バレないように。なんてことのないように。ちゃんとしなきゃと思うのに、どうも余計なことしかしていない気がする。
彼は本丸のために協力してくれているだけなのに、私の気持ちばかり勝手に膨らんでいく。
部屋に戻って、羞恥心に頭を抱える。少し冷めてしまった朝食をかき込んで、雑念を払拭するようにそのまま執務に取り掛かった。
ノルマ分の書類を読んだり書いたりしている間にも、過去に犯した失態がたまに頭をよぎって羞恥心に身悶えた。
己の粗相に、庭に飛び込みたくなる数秒前。
「……おい」
廊下からの呼びかけに顔を上げると、いつのまにか私を見下げる大倶利伽羅がいた。朝の映像とリンクして、ここでも私は一人勝手に頬を染める。
大倶利伽羅は私と机に散らばった書類を交互に見つめる。朝食の場での行動を不審に思っているのかもしれない。もしかすると、近侍の大倶利伽羅に何も言わずに部屋に篭ったことを怒っているのかもしれない。
彼の山吹色の瞳にじっと見つめられると、ぎゅっと胸が掴まれたように縮こまる。
無意識に視線を逸らしてしまう。
「……話がある」
「あ、えーと……。今日の仕事の話……?」
絞り出した声が僅かに震えた。慌てて机に手を伸ばし、書類の山を掻き分ける。
部隊の調整や育成、資材の管理、そういえば、今度政府で行われる審神者会議の準備もしなければいけないのだった。
取り繕いながら書類に視線を向けて大倶利伽羅の話を待ち、数十秒。恐る恐る彼に視線を向けると、大倶利伽羅の射抜くような視線が刺さった。
「……萬屋に行きたい」
「へ?」
話、というのがあまりにも拍子抜けするもので、私は呆けた顔で大倶利伽羅を見つめた。
「あの、外に出るのは自由なので、好きに行ってもらって……」
審神者の許可など取らずとも、彼らには外の出入りを自由にさせていた。渡してあるお小遣いの範囲で好きな時に出かけ、好きに買い物をしてもらって良いというのがこの本丸のルールだった。
もしかしたら知らなかったのかもしれない、と申し訳なく思って謝罪を口にしようとした。
「一緒に行ってほしい」
「え?」
「あんたに同伴を頼みたい」
「……私と萬屋行きたいってこと?」
「ああ」
なんと。
大倶利伽羅と一緒に買い物なんて、それはまるで――。いやいや、勝手に浮かれてはいけないと、緩みかけた口をしっかり引き結んだ。
「あ、うん。それは大丈夫……」
「好いた奴に贈りたいものがある」
「…………え?」
大倶利伽羅の言葉に、一気に地下の奥深くまで突き落とされた心地になる。
好いた奴?
彼には、好いた人がいたのか……。驚きが隠せなかった。数秒、息をするのも忘れたように止まってしまった思考をなんとか再開させる。
「あ、あ〜! 贈り物ね! 良いアドバイスができるかわからないけど、私で良ければ!」
口早に答える私に、大倶利伽羅は怪訝な顔をする。それを気にしないふりをして、ごくりと飲み込んだのは唾液なのか空気なのか、喉から身体の奥までどろどろと重く沈み込んでいった。
*
「……おしゃれする意味なんてないのにな」
鏡の前で一人で頬を膨らませる。
大倶利伽羅との約束の日。身支度を整えて最後に鏡で全身を隈なく確認する。お気に入りの服も髪留めも、メイクだって、気合いをいれてする意味なんてないのに。
あの後、燭台切が「伽羅ちゃんとなんかあった!?」と全く小声になっていない声で聞いてくるものだから、買い物に誘われたと言えばまるで女子のような声をあげたので、他の男士たちに変に注目されてしまって困った。
ついでだとばかりに燭台切から合わせる帯や髪飾りをあれやこれやとアドバイスを受けることになった。ここ最近では一等出来のいい仕上がりだというのに、目の前に写った自分はなんとも浮かない顔をしている。
本日何度目かのため息を吐き出しつつ、手のひらで頬を叩く。
大倶利伽羅との外出だというのに、せっかくのお出かけなんだから楽しまなきゃ! そう自分に言い聞かせて、無理やり引き攣った笑顔を浮かべてみる。個人的な感情は捨てて、彼の目的のために頑張らないと。
そうしていると、少しずつ部屋に近づく大倶利伽羅の気配を感じた。わざわざ部屋まで迎えに来てくれたらしい。
声をかけられるより先に障子を開けると、彼ははっと息を呑む。
無言のまま、じっと見据えられて気恥ずかしくなる。もしかして、変なところがあったのだろうか。彼好みの装いではなかったのかもしれない。そんなことを考えるけれど、どちらにせよ彼には他に好きな人がいる。落ち込んでも落ち込むだけ無駄だった。
「早く行こ! 時間なくなっちゃうし!」
大倶利伽羅の裾を引っ張って、私たちは町へと繰り出した。
すっきりとした青空が広がる町は、商人町としてたくさんの人で賑わいを見せていた。先日、政府に出向いたところだったが、こうして町に出るのは久しぶりだった。
他本丸の見慣れた面々が、審神者に連れられて楽しそうに歩いている。男士たちだけで出かけているグループもあった。
他のとこほの大倶利伽羅も見かけたが、何故だか自分のところの大倶利伽羅の方が一際かっこよく見えてしまうのは、私が盲目的になっているせいかもしれない。
「――あ! 大倶利伽羅さん、こんにちは」
目的の店に近づいたところ、店先で声をかけられる。柔らかな笑顔を浮かべて、彼女は大倶利伽羅を呼んだ。綺麗にまとめた艶やかな髪に飾られたリボンが揺れる。
ああ、なんとなくわかってしまった。多分この人だ。
きっと彼は以前からここに通っていたのだろうと思わせる親密さだった。
口数の多くない大倶利伽羅と雑談をかわす仲睦まじそうな二人の様子を見ていられなくて、意識を並べられた商品たちへ向けた。
目についたひとつを手に取って、宙に透かしてみると細かな光を取り込んでキラキラと輝いた。その繊細な造りにほうっと感嘆の息をつく。
「……それが気に入ったのか?」
「えっ! いや、綺麗だなーと見てただけ……」
突然声をかけられて、慌てて宙にかざしていた品を置く。
大倶利伽羅は私のほしいものを探してるんじゃないんだから。いかんいかんと頭を振って、彼女に似合いそうな品を探すことに集中する。
接客する彼女は、笑顔が可愛くてくるくると表情が変わる。今日初めて会う相手だったが、明るくて素直なところが好印象だ。目鼻立ちも整っていてどちらかと言うと綺麗系な彼女には落ち着いた色味でも似合うだろう。
こっそりと大倶利伽羅と見比べてみる。この二人なら、並んで歩いてもきっと絵になる。想像の上だけでもお似合いだった。自分と、彼女を比べて勝手に虚しくなった。
ため息が出そうになるのを押し殺して、そんな邪心を頭の隅に追いやりながら商品を見て回る。
「……ていうか、大倶利伽羅にもらうなら何でも嬉しいんじゃない?」
早くこの場を離れたいと言う気持ちと、諦めと偏屈が出て、てきとうな返事になってしまった。
「……そういうものか?」
頬に大倶利伽羅の視線が刺さるのに気がついたが、商品棚から目を離さずに答えた。
「だから、大倶利伽羅が決めた方がいいと思う」
私の言葉に大倶利伽羅はそのまま辺りを見渡して、先程の私が見ていたひとつを手に取った。
「これにする」
細かな彩色が綺麗だった。きっと彼女に似合うだろう。
「よかったね。いいのが見つかって」
よかった、なんてこれっぽっちも思っていないのに、私は曖昧な笑顔を浮かべるしかできなかった。早く帰りたい。頭にはそればかりだった。
それは専用の木箱に綺麗に収まり、外にはリボンまで結ばれていた。
「ありがとうございました」満面の笑みで私たちを送り出す彼女を見て思う。ああ、自分ったらなんて意地の悪い女なんだろうか。
*
大倶利伽羅と本丸に帰ると、ちょうど出迎えてくれた乱に可愛い可愛いと褒められた。照れ臭くて変な笑い方になってしまったの私を、乱は揶揄うこともせず「大倶利伽羅さんが羨ましいなあ」なんて言うからぎょっとして大倶利伽羅を見上げた。しかし、大倶利伽羅は乱の言葉なんか聞いていなかったみたいに平然としたままだった。
そのあとも、顔を合わせる他の男士たちに「今日の主は可愛らしいな」と言われて照れた。燭台切が「僕の見立てに間違いはなかったよね!」と、誇らしげにしていたのを大倶利伽羅が睨みつけていたのには、見なかったふりを決め込んだ。
褒められるのは素直に嬉しかった。えへへ、と締まりのない笑顔で「ありがとう」を繰り返していると、それまで何も言わずにいた大倶利伽羅に突然腕を引かれた。
ほとんど引きずられるようにして、自室までやってきた。
「早く着替えろ。夕餉の時間になる」
そう言われて気がついた。本丸中に良い香りが漂っている。くんくんと鼻を鳴らすようにして嗅ぐと、どうやら今日のメインは焼いたお魚らしい。
「着替えたらすぐ行くね」
障子を開けて中へ入ると、同じように大倶利伽羅も一歩足を踏み入れる。
「……大倶利伽羅?」
見上げると、彼の両の手が頬に触れた。
あ、と思った時には柔らかなそれが触れていた。
反射的に目を瞑って、ぎゅっと彼の服を握る。鼻から漏れた声に大倶利伽羅が笑った気がした。それが恥ずかしくて胸を押してみるが、いつのまにか後頭部に回っていた大きな手のひらに引き寄せられて、離れることができない。
下唇を遊ぶように啄んだあと、隙間から熱いものが入り込む。自然と絡み合う熱がいきもののように口腔内を這う。
「んっ、」
空いた唇の隙間をぬって無意識に声が出ると、その場所を狙ったみたいに舌を探られた。どうにかなってしまいそうだと、服を握る手に力が篭る。
火が灯るように身体の奥がじわじわと熱くなっていく。彼から与えられた霊気が自分の中で広がっていくのは別に、生温かく燻っていた欲がふつ、と腹の奥に湧いた。
頭の中で警報が鳴る。今日見た萬屋の彼女を思い出して、かっと身体が熱くなった。
「ぁ、やだ……っ!」
ぐっと大倶利伽羅の身体を押すと、わざとらしいリップ音を鳴らしてようやく唇が離れた。
大きく肩で息をしながら、なんとか元通りになろうと呼吸を整える。大倶利伽羅を見られない。彼の腰布の赤とパンツの黒がチカチカと視界に入って、口からは熱い息だけが吐き出される。
「……先に行く」
遠ざかる足音を聞きながら、へたりと床にしゃがみ込む。
好きな人がいるのに、どうしてこんなキスをするの。
なんの意味もなく、手のひらを握ったり開いたりする。すると、十分に霊力が全身に行き渡ったのが確認できた。朝とは比べものにならないほど火照った身体と混乱した頭を鎮めるのに、着替える間だけでは足りずにたっぷりと時間をおいてから部屋を出た。
ほとんど食事を終えた男士たちが散らばる広間にようやく辿り着くと、頬をついた鶴丸が「やれやれ」と息をついた。
「何も言わないで……!」
「別に、俺はなにも口出しするつもりはないが」
揶揄われるとばかり思って先に牽制したのに、鶴丸は困ったように肩を竦めた。
「人になるってのも、難しいもんだよなあ」
「……どういう意味?」
ぼやいた鶴丸の言葉がよくわからなくて聞き返すと、「なーに、こっちの話さ」とはぐらかされてしまった。
鶴丸の今日あった面白い話を聞きながら、夕食を無理やり喉に流し込んでいるとだんだんと熱も落ち着いてきた。
騒がしかった心臓の音も、やっと平常の音に戻ってきた。心臓は一生のうちに拍動する数が決まっていると聞いたことがあるが、もしそれが本当なら私は早々に天に召されてしまうんだろう。
食べ終えた膳を持って台所へ行くと、洗い物をしている燭台切の姿があった。
ご馳走様、と食器を流しに置くと「お粗末さまでした」と完璧な笑顔が返ってくる。お粗末なもんか、と毎回言いたくなるほどに美味しいのに、彼はいつもそう言って謙遜する。
燭台切が洗い上げた皿を、布巾で拭いていく。食べ終えたのが最後の方だったから、少し手伝えば洗い物はすぐに終わった。
「――よかったらどうぞ」
片付けを終えた燭台切は、温かいお茶を出してくれた。
湯呑みから伝わる温かさがちょうど良い。歌仙が用意した茶葉だ、きっと美味しいに違いない。口をつけると茶葉の香りがざわざわとした気持ちが鎮まっていくのを感じた。味ももちろん文句なしだ。ほどよく熱いお茶が喉を通って食道、胃へと伝って流れていく。その熱の道筋は、いつも生を実感させてくれる。私はふう、と息をついた。
向かいに座ってお茶を啜る燭台切の伏せたまつ毛が長くて、思わずじっと見つめてしまう。
ぱちっと視線が合って、にっこりと燭台切が笑顔を向けた。
「……そういえば。主、最近伽羅ちゃんと仲良いね?」
突然切り出された大倶利伽羅の話題に、あわや茶を噴き出しかけたところをなんとか耐えて飲み込んだ。
「そ、そうかな!?」
「よく一緒にいるところを見かけるしね。主がこんなに長く近侍を固定にするのって珍しいなって」
燭台切は何やらそわそわとした様子でこちらの様子を伺っている。
交代制だった近侍を固定にしているのは、大倶利伽羅による霊力供給のためだった。それは、他の男士たちには伝えていないため色恋沙汰を勘繰るのも無理はない。
「ほら、伽羅ちゃんって馴れ合わない、なんて言って主とも距離取ってるところがあったでしょ? なのに、最近君と仲良くしてるみたいだから……」
「まあ、仲は悪くはないけど……」
大倶利伽羅との密事を思い出して、審神者の頬が紅く染まる。無意識のその反応に、燭台切はぱあと顔を綻ばせた。
「嬉しいな。伽羅ちゃんってああ見えて本当は優しいんだよ」
燭台切は自慢げにそう言った。
大倶利伽羅が優しい刀だというのは知っている。それに気づいた時、私は彼を好きにならずにはいられなかった。
「最近の伽羅ちゃん、すごく楽しそうでさ、」
大倶利伽羅が近頃どれほど浮かれているかという話を燭台切に聞かされたが、彼の話す大倶利伽羅というのは違う次元にいる大倶利伽羅なんじゃないかと考えてしまった。私の知る大倶利伽羅は、本丸のためと身を捧げこの秘密の任務に応じてくれてはいるが、結局は私のひとりよがりで、彼が浮かれる要素なんてどこにもなかった。
普段の態度を見てみてほしい。私のことなんて全くなんとも思っていないんだから。
ペラペラと話し続ける燭台切の言葉を右に左に受け流しながら、ふと考え込む。
たしかに、あの時偶然にこんのすけとのやりとりを聞いていた大倶利伽羅に特別任務――霊力を供給するアレを請け負ってもらったが、正直なところ、どの男士でも良いのだ。
お医者様もこんのすけも、男士なら誰でもいいと言っていた。
たまたま、あの時に話を聞いてしまった大倶利伽羅がいたから、彼がが選ばれただけで。
定期的に霊力を供給しないといけないのならばと、近侍を固定していつでもそうできるようにと考えたわけだが、惚れている相手とよく顔を合わせる上に、あの行為までされるとあってはこちらの心臓がもたないのも当然のことだった。
それに、大倶利伽羅には好きな相手がいる。彼が浮かれて見えるのも、きっと恋をしているからに違いない。
当初、大倶利伽羅との密事がはじまった時、私は自分の気持ちをずっと隠していこうと決めた。それは今でも変わらない。ただ、あの行為で大倶利伽羅への気持ちが身勝手に膨らんでいく事実が恐かった。いつか気づかれてしまうのではないかと不安で、だけれど、もしかしたら気づいてほしいという気持ちもどこかにあったのかもしれない。それが私の片思いにしかならないのなら、これ以上はいけない。
やはり、近侍を変えよう。それに、霊力供給も感情がなければただの行為であり、作業である。わざわざ、無理に大倶利伽羅に頼む必要もないのだ。相手に選ばれてしまう他の男士には申し訳ないが、そこは任務と割り切ってもらおう。
「それに、えっと、言いにくいんだけど最近主から伽羅ちゃんの気を感じるような……それって僕の邪推かな……?」
薄く頬を染めて少しばかり色のついた燭台切の言葉は、正直ほとんど聞いていなかった。
「――決めた」
「え、なにを?」
「近侍を交替します!」
「エッ!」
先程とか打って変わって、燭台切は顔を青くして慌てた。
「今の話でなんでそうなったんだい!?」
そうと決まれば話は早い。
近侍もとい霊力供給してもらう男士は誰が適任か。毎回あんな風に心臓が破裂するような思いをするくらいなら、正直なところ、大倶利伽羅以外なら誰でもいいという思いだった。
「……燭台切、近侍どう?」
「え゛っ! いや、僕は……」
言い淀んで、燭台切はわざとらしく私から視線を外した。泳ぐ視線を追いかけてみるも、どうやっても合わない視線に、追いかけっこは諦めて残ったお茶を飲み干した。
「あの、主。近侍の件、伽羅ちゃんに相談……」
「大倶利伽羅はもう飽き飽きしてるんじゃないかな」
「そんなことないと思うけど……」
近侍交代を言い渡したら、どんな反応をするだろうか。
近侍となれば仕事量は圧倒的に多くなるため、ゆっくりと町に行く時間も取れていないだろう。近侍を外れたら、彼女に会える時間は増えて大倶利伽羅も喜ぶかもしれない。
そこまで考えて、胸の奥がずっしりと重くなる。彼を近侍を外そうとしているのは私なのに、ようやくか、と喜ばれてしまったらきっとダメージを受けるに決まってる。
「……ね、お願い。明日から近侍は燭台切にして。ちゃんと定期的に交代にするから!」
ほとんど一方的に燭台切に告げる。
命令したつもりはないのだが、私の言葉には効力があるらしい。「お茶もご馳走様」と力のなく立ち上がった私に燭台切は何かを言いかけたが、結局そのまま彼から言葉が紡がれることはなかった。
*
部屋に戻ってすぐに寝支度を終える。
今日はなんだかいろんなことがあった。久々に町に出て、疲れもあったのかもしれない。思い切り息を吸い込むと、柔らかな布団からは太陽の香りがした。いろんな思いが込み上げてきて、布団の中で枕を濡らすなんてことは生まれてから初めてだった。
町での二人の姿が浮かぶ。あの二人ならきっと上手くいくだろう。
そうなったら、一刻も早く近侍を代えなければ。霊力供給の行為だって、他の男士にお願いしなければいけない。
悶々と思考が巡り、なかなか寝付けなかった。きゅっと心臓が縮むように胸が痛み、どくどくと拍動するそれを無理やり抑え込むように、大きく呼吸を繰り返す。
何か別のことを考えて気でも紛らわさないと。とりあえず羊を数えていたら数百匹までいったところでいつのまにか眠ってしまっていた。
翌朝、見覚えのある箱が机の上にあるのを見つけた。
今日もいつも通り寒い朝だった。庭にはうっすらと雪が積もっている。日本で一番寒いと言われている大寒はとっくに過ぎたのに、まるで春の兆しは見えなかった。
離れ難いはずの布団から這い出て、その箱を手にする。見覚えのあるそれは、大倶利伽羅が彼女に贈るために買った品だった。
昨日、忘れて行ったのだろうか。こんな大事なものを、と呆れ混じりの息を吐いた。本当は目にも入れたくないのに、大倶利伽羅がせっかく選んだものだからとそっと箱を撫でる。朝食の時にでも渡したらいいだろうと考えて身支度を始めようとすれば、廊下から荒々しい足音が響いて障子の前に大倶利伽羅の気配があった。
「おはよう。今日はちゃんと起きてるよ」
不自然にならないように、努めて笑顔で彼を出迎える。
大倶利伽羅に起こされるよりも先に起きている私が珍しかったのか、彼は目を瞠る。
大倶利伽羅の視線は、私へ、そして例の箱に移る。
「あ。これ、忘れていったでしょ。ダメだよ、こんな大事なもの」
大倶利伽羅は私とそれを見比べて、薄い唇を開く。
「……忘れてない」
「は?」
「あんたにやろうと思った品だ」
私は手に収まった箱に視線を落とす。
「……私に?」
思わず眉を顰める。萬屋の彼女のための贈り物のはずなのに、なぜ私なんかに。
「え。だってこれ、萬屋の店員さんへのプレゼントでしょう?」
「……何故そうなる」
「だって大倶利伽羅が……」
――あれ、大倶利伽羅はなんと言っていたんだっけ。起き抜けでうまく頭が回らない。
「……それよりも、近侍を変えるとはどういう意味だ」
先程から大倶利伽羅の気がどことなく不穏なのはこのせいか。大方、燭台切にでも近侍交代の話を聞いたのだろう。
ええと、と言い淀んでいると、彼の足が強く一歩を踏み出した。びくりと肩が跳ねる。大倶利伽羅からの視線が突き刺さるようにこちらに向かっていた。
ひどく不機嫌な様子の彼に、思わず一歩後退する。
「……別に、そのままの意味だよ。大倶利伽羅ばっかりに悪いし……」
目を伏せて告げると、大倶利伽羅は眉間の皺を深くした。
「……だから、大倶利伽羅は好きにしてきていいんだよ。鍛錬に時間使ってもいいし、町に出かけてもいいし。今まで近侍ばかりで大変だったでしょう?」
あの診断からそう長い時間は経ってはいないが、一振りの男士をこんなに長いこと近侍におくことは初めてだった。不自由だったでしょう。気に入らない任務もあっただろうに、よくやってくれた。そう言って労ると、大倶利伽羅はぐっと奥歯を噛み締めた。
「……別にそんなことはどうでもいい」
「どうでもよくはないでしょ」
ぴりぴりと肌を刺すような張り詰めた空気の中で、大倶利伽羅と視線を交じわらせる。
「……霊力のこと? それなら他の刀に頼むから、大丈夫だよ」
「は、」
心配しないで、と震える唇の端を引き上げた。
「……本気で言ってるのか」
「大倶利伽羅じゃなくても大丈夫なの」
自分にも言い聞かせるような声だった。はっと目を瞠ってこちらを見つめる大倶利伽羅から目を背けたくて、私の視線は下の方を滑っていく。
ぐっと手首を捕まえられて、もう片方は顎を掴んで半ば無理やり視線を交わらせる形になった。戸惑いを隠しきれていない山吹色の瞳が鈍く光る。一度目を合わせるとその瞳から目が離せなくて、思わず本音が口を滑って出そうになる。
――大倶利伽羅が好き。彼女じゃなくて、私のことを好きになってくれたらいいのに。
喉の奥で小さく空気が引っ掛かって、ぐっと唇を引き結んだ。瞼の裏に熱い物がこみ上げて、止められなかった。ぎりぎりで縁で留まっていた涙が静かに零れ落ちた時、大倶利伽羅の瞳が僅かに揺れた。
「……近侍は別の方に頼みます」
は、と息を呑む声がした。
“私”ではなく、審神者の言葉で彼を拒絶した。
ゆっくりと、自然に離れた大倶利伽羅の手に縋りつきたくなった私はなんて自分本意なんだろうか。静かに零れる続ける涙を止められなくて、そんな顏も見せたくなくて手のひらで顔を覆った。
「……勝手にしろ」
普段よりも低く冷たい声にぎゅっと目を瞑ると、溜まった涙が指の隙間からぼろぼろと床に染みを作った。遠ざかる足音に、ふつふつと後悔の念が湧き上がる。でも、きっと、これでよかったんだ。
さすがに泣き腫らした目で朝食の場に行くことはできなかった。あれのあとで大倶利伽羅に会うことも憚られて、空腹なんかもどっかにいってしまった。
皆がそれぞれ動き出し、本丸内が賑やかになってきたところで燭台切がやってきた。様子見を見に来たんだけど、と顔を覗かせた彼は、私の赤くなった目元を見て「やっぱり」と呆れたように眉を下げた。
20220526