今かいつかの話
これの続き


 つい先日、松川が“同級生”“男友達”から“恋人”へ昇格し、約十年越しの私の片思いが思いがけなく実ることとなった。
 二十代も半ば、もちろん過去に男性経験はある。男女のお付き合いを始めたのなら、そう時間もかけずに身体の関係に発展するものだ。少なくともこれまでの恋人はそうであったし、松川の場合も例外ではないと思っていた。――しかし、私は松川と付き合い始めてから、どうしたものかあの頃に逆戻りしてしまったかのように松川との接し方にどぎまぎしていた。高校時代、彼は私の王子様だったのだ。その彼と付き合えることになって平静を装えるわけがなかった。友人がその様子を聞いたのなら、いい大人が何をしてるんだと呆れる姿が容易に想像できる。
 高校の卒業式を最後に松川とは会わないでいたが、松川も高校を卒業後には地元を出て東京で勤めていたらしく、私が同じく都内で勤めているらしいということは知っていたという。連絡をしてくれればよかったのにと言えば「こっちにもいろいろあるんだよ」と苦笑をこぼされてしまった。
 数年ごしに再会して想いが叶ったのなら、それはまさに夢のような話だった。



 ある日、松川が一人暮らしをしている部屋に初めて訪れた。必要最低限の落ち着いた家具で統一されたその部屋はシンプルで松川らしく、清潔感が漂っていた。
 その日は週末のデートの帰りで松川の部屋で二人、他愛のない話をしてのんびりと過ごしていた。間接照明がぼんやりと部屋を照らす薄暗い空間に男女がふたりきり。もしかしたら、という期待と緊張はもちろん感じていた。気づけば触れ合うほどの距離、まさに『いい雰囲気』というやつだった。明らかに先ほどの軽口を叩いていた時とは雰囲気が違う。
――あ、キスされる。
 そう思ったときにはすでにお互いのそれが触れ合っていた。松川とのキスは嫌いではない。むしろ、こんなキスどこで覚えてきたんですかと問い詰めてやりたいほど松川がキスが上手い。後ろに倒された私の背に回った方と逆の空いた手がブラウスの裾を手繰り、肌へ触れた。
「ちょ、ちょっとまって」
「ん?」
「……す、するの?」
「しないの?」
 腰部をなぞるようにして侵入してきた松川の腕を掴んで静止させる。口籠った私に眉を寄せた彼の瞳には欲情の色がみてとれたが、先に進むわけにはいかないと身体を起こす。
「……ごめん、松川」
「イヤ、悪い。嫌だった?」
「嫌じゃない……けど、」
「けど?」
「……」
「え、未経験?」
「ではない、です」
「……まあ、そうだろうな」
 キスは早い段階でできたし、もう何度も交わしているがその先に進む覚悟がどうしてもできない。松川は少しの間何も言わない私を見ていたが、ひとつ小さく息をこぼし、手を引いて身体を起こすのを手伝ってくれた。
 ふたりでソファーに座りなおし、先日松川が借りたという映画のDVDをふたりで見て過ごした。間に流れる気まずい雰囲気を察して帰ろうかとも考えたが、まるでそうはさせないとうように松川に繋がれた手にその考えは宙に消えた。
 優しく触れる彼の手が温かくて、胸が詰まる。松川のことは好きなのに、なぜだろう。一線を越えるのがこわかった。



 今更またこんな気持ちに悩ませられるなんて思いもしなかった。松川のことは高校生の頃からずっと片思いをしてきた相手だし、数年越しにまさか恋人として一緒にいられるなんて思いもしなかった。友達と過ごしてきた間も彼のことを異性として意識しない日はない。
「純情ぶらずにさっさとヤっちゃいなさいよ」
 高校時代の友人に相談して返ってきた言葉がこれだ。私だって今更純情ぶる気はない。しかしどうしても、松川を前に事を始めようとなると緊張や不安でどうしようもなくなるのだ。
「だって今までの彼氏はできたんでしょ? キスまでしといてその先は無理って、松川もかわいそう〜」
「松川のことはすごく好きだよ。だからこそ緊張するというか……」
「まあ、わかんなくもないけどさ。松川はそれ知らないでしょ? に拒否されっぱなしでショック受けてるよきっと」
「えっ」
「いやなに初めて気づきましたみたいな顏してるの。そりゃあそうでしょうよ」
 呆れた顔を隠さず言った友人の言葉にはっとする。確かに、松川とそのことに対してしっかりと話したことはない。
はあんま表に出さないからね、もっと甘えていいんだよ」
「……うん」
 バシバシと景気づけに叩かれた肩は少し痛かったが、暗い雰囲気にならないよう冗談めく話してくれる友人に感謝した。とりあえず、1度松川とちゃんと話さなければいけない。このまま何も言わずに拒み続けていた方が彼もいい気はしないだろう。元より今日は夕方から会う約束をしていたため、友人と別れその足で待ち合わせ場所へ向かった。



 週末の夜の繁華街は大変に込み合っていた。よくある待ち合わせの定番場所も同じく誰かを待っているのだろうかたくさんの人でひどく混雑している。その中で平均より身長の高い松川を見つけるのは簡単だった。他より頭ひとつ抜きん出た彼はやはり目立つのかまわりの人々、特に女の子から視線を集めていた。人をかき分けて松川のもとへ向かうと、彼もわたしを見つけたのかちょうど視線が合う。
「ごめん、待った?」
「全然」
 はい、と差し出された手を見つけてハテナを浮かべる私に松川が苦笑をもらす。何か言うよりも先に彼に腕を掴まれてお互いの指を絡ませた。いっきに繋がれた手に熱が集中した気がする。学生ならともかく社会人になって外で手を繋ぐということはほとんどない。それはお互いにいい歳して、と 衆目を意識した羞恥心からくるものが大きかった。
 松川があまりこういうのを気にしないということが意外だった。これまでの彼女にもこうしてきたのだろうか、普段から外でも手を繋いだりしていたのだろうか。”友達”としての彼しか知らない私は、松川と付き合い初めてから彼のイメージが変わってきていた。
「松川ってこういうことするんだ」
「こういうって?」
「外で手繋いだりとか、あんまりしないから」
「……まあ」
 正直に伝えてみれば、握られる手に少し力が入った気がした。汗ばんだ手を気付かれるのがこわくてさりげなく手を引くが、すぐにそれに気付いた松川に手を引かれて余計に距離が近づいた。
「松川って彼女にはすごく甘いんだね」
「……そうか?」
「うん、」
 高校時代、松川の所属している松川のバレー部はとにかく目立っていた。中でも部長であった及川徹はいわゆる優男というやつで、女の子からの圧倒的支持を得ていた記憶がある。その彼の人気が凄まじいせいで目立った噂はなかったが、強豪であるバレー部の面々は密かに人気があった。松川も例外ではなくて、たびたび女の子の噂を人づてに聞いていた。普段他の男の子が何組の誰が可愛いだとかグラビアの雑誌をみては騒ぎたてていたのを、一歩引いたところで笑ってみていた印象がある。
 彼は淡白であるように見えたが、意外にも甘やかすタイプなのかもしれない。
さ、」
「うん?」
「俺と付き合ってるっていう自覚ある?」
「う、うん。思ってるよ」
 自分よりも少し上にある松川の横顔を見上げながら思考を巡らせていたら突然の松川の言葉に、人波を逆らうように歩いていた足を止めた。振り返った松川は口元は笑っているようだったが切なげに寄せられた眉に私は自分で思っているよりも多く松川を悩ませてしまっていたのかもしれないと申し訳なく思った。「そっか」と手を引いてそのまま歩き出そうとする松川の手を引いた。顔を覗き見るように腰を落とした松川に「どうした?」と声をかけられる。握りしめる手に力を込めて言葉を発しようとした時、それを静止すると彼は周りを見渡して比較的人の少ない道辺へと移動した。
「どうした?」
「あのさ!」
「ん?」
「松川のことは好きだけど、その、突然再会して、これでしょ? ちょっと心の準備ができていないというか……」
「うん、知ってる」
「う……。その、松川のこと好きじゃないわけじゃない、から」
「うん」
 はっきりと、本人を目の前にして自分の胸のうちを打ち明けるのは初めてだった。突然、しかもこんな道端で話す私にイラついた様子も見せず相槌を打ってくれた。繋がれた手を強く握ると返事をするように同じようにしてくれるのがとても安心した。
「なんか、松川が好きすぎてダメ」
 思わず出た言葉だった。自分で言った言葉に顔が熱くなる。それに、松川は何も言わない。反応を見るのがこわくて、恥ずかしくて、少し緩んだ手を外して両手で顔を覆う。そのまま何も言わない松川に不安に思って顔をあげようとすると、ガシっと頭を掴むように止められた。
「い゛っ!?」
「……ちょっとこっち見ないで」
「えっ?」
「……」
 押さえられている手に力が緩まって顔を上げると片手で顔を覆った松川うなだれていて、まずいことを言ってしまったのかと思って焦っていたら「違うから」と息を吐かれた。指の隙間から覗く松川の顔が赤くて目を丸くした。
「え、照れてる?」
「……言わなくていいから、そういうのは」
「びっくりした」
「……お互い友達のが長かったし、俺らのペースでいけばいいんじゃない」
 離れていた手がまた繋がれる。さきほどの自分と同じくらい熱く感じた体温に嬉しくなる。いつも飄々としている松川が照れている姿なんてとても貴重だ。
「松川くんの新しい一面が見られました」
「よかったね」
「うん、うれしい」
「……あのなあ、そういうことあんまり言うんじゃないよ」
 あの頃は友達だったが、高校生の頃に戻ったような感覚にむず痒いような気持ちになる。それが今は恋人として隣にいられるのだ。隠しきれずに口元を緩めているとぎゅう、と手が強められる。強く握り返したときに細められた目に、夢のような夢ではない現実を噛み締めた。
「……やっぱりあんま我慢はできないかも」
「えっ」
「なんでもない」
 大の大人が頬を染めて街を歩く姿はきっと滑稽なんだろう。
 
20151013
加筆修正20201118