眠れない夜×触れる/宮侑

 布団に潜り込んでからいくばくかの時間が過ぎた。
 身体は気怠さを感じているのに、どうしてかぱちりと目が開いてしまう。ベッドに入る前に垂らしたアロマオイルが微かに香る。よく眠れると評判だったはずのそれは、私には効果はなかったようだ。
「……ねえ、起きてる?」
 隣で眠る大きな背中に問いかけてみる。同じ頃、おやすみと声をかけた恋人はもう夢の中なのかもしれない。
 返事のない背中にそそそと近づいてみると、自分以外の温もりを感じる。ゆっくりと上下する背中に触れると、小さく一定のリズムを刻む心臓の鼓動が心地よく響いた。その温もりが欲しくて、もう少しだけ、とそっと身を寄せた。
「……何してんねん」
「あ、起きた?」
「起きるわ」
「侑の心臓の音聴いてた」
 背中越しに声をかけると彼はごろっと勢いよくこちらに寝返った。
「ごめん、起こしちゃって」
「別に、まだ眠っとらんかったし」
 そうは言うが、本当は眠っていたか、おそらく眠りに入る途中だったのだろう。欠伸を噛み殺して、彼は重そうな瞼を持ち上げた。
 私が眠れない、と言うと彼の大きな手が子どもを落ち着かせるときのように、私の背中にゆっくりポンポンと触れた。
「なにこれ?」
「寝かしつけや」
「子どもにやるやつじゃん」
「大人にも効果あるらしいで」
 彼の言う通り、この一定のリズムが意外と催眠効果があるらしい。このまま瞼を閉じれば眠れそうだと思った。
「……おーい。変なところ触ってますけど?」
「ん〜〜」
「寝かしつけてくれるんじゃなかったの?」
 パジャマの裾を探すように動く彼の手をぺちんとはたくと冗談やんか、と彼は笑った。
 私は彼の胸の中に潜り込んで、ぴたりと彼の胸に耳を当てた。とくん、とくんと流れる血液の音が響いた。
「私これで眠れそう」
「変なやつやな……」
 呆れたようにそう言った彼の心臓の音がさっきよりも少しだけ速く聴こえたのは、私の胸の中にしまっておく。

20200930




パンとコーヒー/赤井秀一

 浮上した意識とともに朝の冷たい空気を肌に感じる。窓の外を見上げると、微かな陽の光が濃紺を薄っすらと照らしていた。
 まだ起きるには早い、とそう思って毛布を手繰り寄せる。
「おい、君」
 寝室の扉が開かれて、起き抜けにも心地の良い低音が耳に響いた。
「……あと少し」
「君のアラームが鳴ったときもそう言っていたが。遅れるぞ」
 かけられた声に重い瞼を開けて時計を見れば、確かにいつも起きる時間を少し遅れている。なぜ…と目を細めれば彼は「もう冬だと言っていたのは君だろう」と言って部屋を出ていった。
 ああ、そうか。日が短くなったのか。
 同じ朝なのに、どうしてか身体が重いように感じる。時間の概念がない時代は陽が昇るとともに活動を始めたというのに。暗闇の中、釈然としない気持ちであたたかな毛布を抜け出してベッドを降りると、床を伝って足の先から這い上がってくる寒さに思わず身震いした。
 扉を開けると、くんと鼻を擽ったのは淹れ立てのコーヒーの香りだった。
 地元の新聞に目を通す赤井さんの前と向かいの席にコーヒーカップとパンが数切れ。席についてカップから伝わる熱で暖を取る。
「……珍しい。赤井さんがご飯食べてる」
「食べるさ」人間だからな、とおどけて彼は肩を竦めた。
 赤井さんと一緒に暮らすようになってそれなりの時間は過ぎたが、朝食を共にするのは珍しいことだった。特にコーヒー以外のものが彼の前に並ぶのを見るのは久しぶりだ。
 テーブルの上のものを一つ取って、口にする。
「日本のパンが恋しいです……」
 寒さのせいもあってガチガチに固まったパンに思わず眉を寄せた。
「君だけ先に日本に帰っても構わないが」
 お互いが離れることを、彼は至極簡単なことのように言う。
「赤井さんって遠距離恋愛には向いてなさそうなんですけど……」
「“君との愛に不可能はないさ”」
「あら、赤井さんの口からそんなセリフが聞けるだなんて。昨日観た映画の中で聞いた気がするのは気のせいですか」
「君はあれが好みだろう」
「まあ、そうですけど」
 ご機嫌とりは結構ですよ。そう言って、私は相変わらず皮の固いパンにかじりつく。図星だったらしい彼は「そうか」と笑ってカップに口をつけた。
「存外、君と過ごすこういう時間も悪くないとは思っている」
「でしょう? 絶対に私をそばにおいておいた方がいいですよ」
 私は少し強気に鼻を鳴らす。
「君ひとりの朝も気がかりだしな」
 そう言われるとぐうの音も出ない。咳払いを一つして、残って温くなったコーヒーを飲み干した。

20201010




あなたの好きなところ/宮侑

「ねえ、私のどこが好きなん?」  特に面白みもないテレビ番組を見ながら、突然に彼女がそう尋ねるものだから思わず眉を寄せた。
「なんや急に」
「いや、聞いたことなかったなーって」
 付き合いたてのべたべたなカップルでもあるまいし急に何を言い出すのかと思えば、突拍子もない思いつきらしい。
 何がどう好きで一緒にいるようになったのか、きっかけを思い出すには長い年月が過ぎていた。大それた運命的な出会いというやつではなく、ほんの些細な事だったように思う。
 そんなことをしばらく考えて込んでいると、彼女はついにテレビから視線を外してこちらに向き直る。
「なになに〜。そんな言い切られんくらいいっぱいあるん?」
 彼女はそう語尾を上げた。くるっと自然に上がったまつ毛に縁どられて期待に濡れた瞳がこちらを見上げている。
「なんやろなって考えとった」
「嘘やん。そんな悩む?」
 わかりやすく眉を下げて裾を引く彼女に目を細める。
「……そういうお前はどこが好きなん」
 質問を質問で返されたことに彼女は目を丸くし、ややあって口を開いた。
「え、顏」
「はあ〜〜?」
 期待していた言葉とは別の思わぬ彼女の返答に不機嫌な態度を隠さずにいると、そんな様子に焦ったように彼女が慌てて口を開く。
「ごめんごめん。いっぱいある」
「何わろてんねん」
 こちらの気も知らずに変わらず彼女はおかしそうに笑う。しばらく黙りこくっていると、侑の好きなところはね、といくつか指折り答え出した。
「ほら、いっぱいあって言い切れへんねん」
「ほんで顏かい」
 一般的に顔が良いというのは多少のステータスになる得るが、ほとんど顔が同じ片割れがいる自分に対しては褒められても素直に喜びづらい心境である。不機嫌な態度を意に介さず、彼女は笑顔でそっちも教えてやと肩をくっつけてすり寄ってくる。
「なにこういうときだけ甘えてんねん」
「好きやろこういうの」
「好きちゃうわ。もう絶対言うたらん」
「え〜。言ってよ」
「言わん」
「ケチ!」
 捨て台詞を吐いてむくれた彼女の背を見つめる。
 まあ、なんだかんだ言いながらこういうのが二人で長い日々を過ごす理由なんだろう。

20201012




指先/宮侑

 ソファーの端に置いた雑誌を取ろうと目の前を通った腕を掴む。その持ち主は行動を妨げられた事と突然捕まえられた腕に「なんやねん」と怪訝な顔をする。
「感心してたんです」
「何を感心するんや」
 彼の手を取ってまじまじと見つめる。骨張ってゴツゴツしているのに、すらりと伸びた指先に綺麗に整えられている爪が収まっている。
「これ自分でやってるんですよね?」
「そやな」
 はあ〜、と思わず感嘆の声が漏れる。バレー選手は爪の手入れが大切だと知ったのは、侑くんと付き合うようになってからだった。
「私より綺麗」
 そう言うと、侑くんは見してみと逆に私の手を取った。
「なんや、自分も綺麗にしとるやん」
「侑くんと比べたら全然……」
 彼の指が私の爪や指の間をなぞると、彼の指先の温味を感じる。短く切り揃えられた爪先と甘皮もきちんと処理されているところを見ると、その辺の女子より女子力が高いように思う。一体誰に教わったのかと得にもならないことを考えてそれを払拭するように首を振る。それでも治らず、むむむと眉を寄せて顔を険しくした私に勘の良い侑くんは何か察したらしい。
「おい、またしょーもないこと考えとるやろ」
「考えてないです」
「ほお〜?」
「…………考えました」
 有無を言わさない侑くんの圧に、私は簡単に口を割った。会ったことも見たこともない昔の女の影が気になるなんて、それを言えばきっとくだらないと鼻で笑われてしまうんだろう。
「すみません。ヤキモチを妬きました……」
 正直に白状すれば、侑くんは予想した通りの反応を見せた。「アホやなあ」と呆れたように笑われて、繋がれた手に熱がこもる。その熱を孕んだまま肌を這う彼の指に心臓が揺れた。
「ねえ、触り方」
「ふつーに触っとるだけやけど?」
「指先から伝わってきます。下心的なものが」
「バレとるか」
「バレてますね……」
 絡めた指先の熱が私の手から心臓まで伝わってくるのを感じた。私の反応を可笑しそうに笑う彼に釣られて、へらりと笑う。
 そのままソファーへ沈み、その綺麗な指先で翻弄されるのだった。

20201018




ひみつの逢引/大倶利伽羅

 日が暮れて人々の寝静まる頃合いに、ひたひたと廊下を歩く人影がある。近づくその音に比例して、審神者の心臓も早鐘を打つ。
「主、いいか」
 ごくりと唾を飲み込んだ。月の光を背に受けた影が問う。微かに震えた声でそれを許すと、その影は静かに障子を開く。その隙間から見える月は、いつの間にか西の空に傾いていた。
 大倶利伽羅は部屋に入ると、ごく当たり前のように同じ布団に腰を下ろす。彼の着流しが敷布に擦れる音すら艶めかしく耳につき、緊張から手に汗が滲んだ。
 この訪問も彼の気分次第のようで、来ない日もあれば連日の時もある。もともと布団に入って何分もしないうちに眠れる体質だったというのに、これが始まってからはおちおち寝てもいられなくなった。
「あの、大倶利伽羅……」
「なんだ」
 月明かりに照らされるだけの薄暗い部屋で、黄金色の瞳が真っ直ぐに私を射止める。
「今日はそういう気分だったの?」
 彼は表情は変えずに何のことだと首を傾げる。
「いや、昨夜は来なかったのになーって……」
「なんだ、来て欲しかったのか」
 彼は私の反応を以外やとその金色を丸くした。
「来てほしいというか、来るのかな、来ないのかなーとか思うじゃん……。その、心の準備とか……」
 私ばかりが彼に夢中のようで、これでは、私だけが彼の来訪を待ち焦がれているみたいだ。どうにも大倶利伽羅を直視できなくて、部屋の至る所を視線を泳がせた。
 それを聞いて、ふっと大倶利伽羅の唇が弧を描く。
「そうすれば、いつも俺のことを考えるだろう」
「な、なにそれずるい……」
 私の胸の内など、この神様にはお見通しだったようだ。
「毎夜でも訪ねようか。あんたが望むならな」
 普段見ないような、妖艶な笑みを向けた大倶利伽羅に思わずごくりと唾を呑んだ。
「ま、毎夜はちょっと……」
 慣れた手つきでするりと敷布を捲られる。外を歩いてきた大倶利伽羅の肌はひんやりと冷たく、布団の中で温まった素肌にはいくらか刺激的だった。
 何度目だってこれに慣れずに胸を突く心臓に、思わずこぼれたため息を大倶利伽羅がまた笑うものだから余計に頬が熱くなる。
――来ない貴方を待ちながら一人で寝る夜が明けるまでの間、どれほど長いものなのか、貴方は知らないのでしょうね。

20201109




深夜のコンビニ/花巻貴大

 吐き出した息が白くはっきりと夜空に溶けていく。少し前までは薄っぺらいTシャツでもまだ過ごせたというのに、本格的な冬の到来を感じた。
 私には大きめの彼のマウンテンパーカーで口元まで隠しても隙間から肌を冷やす夜風に肩を縮こませる。それに気づいて、隣に並んだ彼がわざとらしく身体を寄せた。
「さみ〜」
「貴大がコンビニ行きたいって言ったんじゃん」
 こんな夜更けに小腹が空いたと、コンビニに行きたいと言った彼に付き合って寒空を少し歩いてきたが、こんなに冷えるなら家で待っていた方がマシだったかもしれない。東北出身の彼はある程度寒さには強いらしい。まだこんなのは序の口、なんていうものだから冷えた手を彼の首元に突っ込んでやる。
「うお!」
 ひゅっと首を縮めて私の手を取った貴大にしてやったりと笑みを向けるも、その手が冷たくて思わず距離をとった。
「え、つめた!」
「心が温ったけえのよ」
「へえ〜」
 彼の言葉は聞き流し、そのまま握った手を一緒にパーカーのポケットに突っ込むといくらか温かくなる。たわいもない話をしながら、コンビニまでの歩き慣れた道を進む。目的地が見えると、そこはこの寒さの中では砂漠で見つけたオアシスのように思えた。
「あ、アイス食べよー」
「おーい、さっきまで寒さに震えてた人ー?」
「暖房つけて暖かい部屋で食べるのが美味しいじゃん」
 コンビニでは少し高価なアイスの新作が目についた。お財布は彼に期待していたが、そういえば転職活動中であったことを思い出してふと手が止まる。
「……ねえ、貴大くんお金ある?」
「舐めんな? 転職したら余裕で一本いくから」
「へえ〜、ふ〜〜ん」
「思ってない顔しないでくださーい」
 眉を寄せた彼に笑って、ぽいぽいとアイスをカゴに入れた。
「貴大くんの将来に期待しちゃうなー」
「馬鹿にしすぎだろ。腹壊しても知らねーからな」
 冷えたアイスをいくつも抱えた帰り道は、行きよりも何故か温かく感じた。

20201110




ねこ/孤爪研磨

 にゃう、とひと鳴きした猫は黄金色の二つの目をキラキラと光らせた。その短い毛並みに沿って撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「しっ! 研磨の匂わせみたいになっちゃうから静かに!」
「なに。匂わせって」
 パソコンの画面から離した視線をこちらに向けて、研磨が呆れたような声を出した。
「だって、研磨に女の影がって噂になっちゃうじゃん」
「……猫はよくない?」
 逆に配信者の家に猫がいるということはその業界では割と好感的らしい。
「誰が猫かまってるのってならない?」
 深読みしすぎ。呆れたように研磨はそう言うと、再び画面に向き直った。いつだか研磨と買った猫用のおもちゃを追いかけて飛び跳ねる猫と遊びながら、研磨の現状を考えるに深読みのしすぎということはないのではと思う。これだけ名の通った人となればファンだの信者だのガチ恋だのと周りが騒ぐのだ。そういういきすぎた人たちはちょっとした物音だったり、SNSの写真も見逃すはずがない。研磨のことを思って言ってるのに、とそう言えば研磨はいよいよ画面から離れて身体ごとこちらを向いた。
「**のいる時に録ってないから。声は聞こえないし、ましてや見えるわけない」
「え。あ、そうか」
 研磨のの言葉に安心すると同時に、研磨のファンたちが全く自分を認識しないというのも、それはそれで彼女としては複雑な気分だった。本当は、こんなにすごくて人気者の研磨の彼女は私です!と叫んで回りたいくらいなのに。
「……私の代わりにこの子で匂わせて」
「意味わかんない」
 ぴょんぴょんしていた猫を抱き抱えて、研磨と向き合わせる。一人と一匹は互いに視線を交えると、猫はするりと私の腕から抜け出して遠くの方でにゃあと鳴いた。
「ねえ、かまって欲しいの?」
 研磨に腕を取られて、薄い唇が小さく弧を描いた。
「な、なんでそうなるの」
「かまって欲しそうにしてたから」
「してない! 猫と遊んでるもん!」
「もういないけど?」
 ごろんと身体が後ろに倒れて、い草の香りが強くなる。ブリーチされた髪が頬を撫で、黄金色の瞳に捕らえられる。
 私だけが知っている、人気者の彼の姿だった。

20201111




怒られる/宮侑

 最初にグラスを空けたのは、日が沈んで間もない頃だった。
 あれよあれよと瓶が空き、気づけばほどよく回ったアルコールが脳を気持ち良くさせる。最初は人影がちらほらと見えた程度の店内だったが、今はほぼ満席の状態でだいぶ賑やかになっていた。そういう雰囲気にも流されて美味しいおつまみもたくさんあるとなれば、どんどんグラスが進んでしまうのだが、そろそろ止めようという思考は頭の中に存在しない。
「……おい、その辺にしときや」
「まだ飲める!」
「ちゃうわ、アホ」
 接客の合間にカウンターから顏を覗かせた治に声をかけられて、まだまだ余裕であると空のグラスを挙げてアピールする。治は違うと眉を寄せたが酒に溶けた頭ではその意図を汲み取るのは難しい。
 ガラッと店の扉を開けて、暖簾を潜ってきたのは店主と同じ顏。その人は店内を見回してすぐにこちらに足を進める。
「何しとん」
 にっこりと笑みを浮かべた侑の顔に、瞬時にアルコールが抜けていく。
「何って、治のご飯食べに……」
「ほぉ〜。どこにメシがあんねん」
 目の前に並んだ酒のグラスと肴、そして私の様子を見れば察しのいい彼はすぐに状況を把握しただろう。
「この前約束せえへんかった?」
「……しました」
「飲み過ぎんな言うたよな?」
 相変わらず笑顔の侑が逆に怖い。
 治は奥でほら見たことかとこちらに呆れた視線を向ける。
「治! 侑が来るなら早く言ってよ!」
「全然懲りてへんなこの口は」
 治に当たると侑に頬を摘まれる。熱の籠った肌に、外からきて冷えた侑の手が心地いいなと、怒られているのにそんな呑気なことを考えた。
 まだまだ飲めるのに、勝手に勘定を済ませた侑が私の手を引く。人の多い店内を侑の追って歩き、地面に突っかかったヒールによろけて侑の腕が私を支えた。そのまま腕を捕まえて身を寄せると、しゃあないなと言う顔で見下ろす侑に甘えてみる。
「おんぶ!」
「せえへん」
「ええ〜」
 ふわふわな気分で歩きながら空を見上げてみると、寒く乾燥した空気を通して見る夜空は、こんな街灯の明るい所でもいくつか星がはっきりと見えた。

20201112




××しないと出られない部屋/宮侑

「……なんでお前がおんねん」
 眉間の皺を深くして、侑が不満気な声を出した。
 わけがわからないのはこちらも同じ。一方的にイライラをぶつけられて、思わず声が荒くなる。
「はあ? こっちのセリフですけど」
 舌打ちをひとつこぼした彼は、落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り返す。
 気がついたらここにいて、何故か昔馴染みの侑がいる。鍵のかかったドアが一つあるだけで、どんと中央に置かれたベッドが存在感を放っていた。
「こんなんに閉じ込められるんなら治の方がマシやったわ」
 双子の片割れの名前を出すと、侑はじろりと私を睨み付けた。
 二人きりで閉じ込められたこの部屋から出られる方法はただ一つ。
『真実の愛のキスをすること』
 ぐしゃぐしゃに丸めた紙の中に書かれた文字はこうだった。
 先程二人でそれを見つけて、頭の中でどこかのプリンセスが伸びやかに愛の歌を歌う光景が流れた。
「侑とキスするくらいならカエル食べた方がマシやん」
「ほーん? ほんなら食ってみい」
「こんなん一生開かへんやん。無理」
 その紙をまたポイと投げて転がした。閉じ込められたままここで、愛を育むまで侑と二人で過ごせというのだろうか。
 見通しの立たない今後に絶望して、唇を噛む。身一つでここへ来て、愛用のリップクリームもなければ、お金も食べ物も着替えもない。もちろんカエルだっていなかった。
「このままうちらここで死ぬん?」
「……なに縁起でもない事言うとるんや」
「……だって、真実の愛なんて知らんし」
 人生の三分の一も生きていないのに、真実の愛なんてわかるか。
 これがもし治なら、まだ希望はあったかもしれない。昔からの腐れ縁の双子が私に愛を感じるかはさておき、こんな調子の侑よりはまだ可能性があると思ったのに。
 ぶつぶつと溢す私に、ついに侑が痺れを切らしたように声を出した。
「あー! もううっさいねん!」
「なに、なんで急に大声出すん……」
「治治治治うっさいねん」
「そんな治言うとらんわ」
 途端、侑は私の襟首を引っ掴んで、グッとお互いの身が近づいた。
 突然のことに文句が口から出るより先に彼の顔が視界を埋めた。それは映画でよく見るロマンチックなものとは程遠く、ほんの短い時間だったが、たしかに唇に柔らかい感触を残した。
「えっ……」
 カチリ、と遠くで何かの開く音がした。

 いや、なんで開いてんの?

20201130




忘れない匂い/煉獄杏寿郎

 雪がいくらか積もる頃になり、陽の出る時間も短くなった。この頃になると屋内の家事をするのにも寒さが堪える。
 付けたばかりの火鉢で、パチパチと炭がはねた。
 やっと一息ついて誰もいないことを良いことに、広い御屋敷の一室に転がって身を休めていると、音もなく襖が開いて、一瞬心臓が飛び出るかと思った。完全に気を抜かしていたから、誰かが近づいてきているなんて全く気づかなかった。焔を模した羽織が流れるように視界に入る。
 大慌てで髪や着物を整えて、身を正す。そんな私の様子を、彼はきょとんと目を丸くして見つめていた。
「ああ、すまん。驚かせたな」
「あの、いえ! こちらこそ、お見苦しいところを……!」
「いや、気にするな」
 どかっと豪快に目の前に座る彼は気持ちのいい笑顔を浮かべた。私はハッとして慌てて火鉢で沸かしていた湯で茶を淹れる。
「君の好きなやつだ」
 そう言った杏寿郎さんの手には小ぶりの蜜柑が数個。思わず、わあと声をあげると彼はそれを火鉢の網に転がした。
 焼かれた蜜柑の皮が褐色に色づき、蜜柑の爽やかな香りと香ばしい芋のような香りが胸に広がる。空いた腹が鳴くのを隠しきれず、杏寿郎さんと視線が合うと誤魔化すように笑顔を向けた。
「何故、蜜柑は焼くと甘くなるんでしょう」
「知らん。しかし、美味いなこれは!」
 炙ったそれを冷ますため手で転がしているうちに、彼はうまいうまいともうすでに何個か口に運んでいた。
「杏寿郎さん! 半分こですよ!」
「む、そうだったな! すまん!」
 火箸で自分の分の蜜柑を寄せて死守する。焼いた蜜柑は、酸味をどこかに飛ばして甘味だけを残したホクホクの焼き蜜柑は、それはそれは美味しいのだ。
 杏寿郎さんに食べられてしまわないようにと私がまだ熱のある蜜柑を頬張っていると、彼の紅蓮の瞳が柔く細められた。
「次はもっと多く持ってこよう」
 日々鍛錬に勤しみ、柱の任務で各地に赴く杏寿郎さんとこんな風にゆっくりと話せる時間は多くはない。合間のその貴重な時間に、いつも彼の持ち帰ってきてくれた蜜柑などの菓子をこうして二人で食べるのだった。

 届くかもわからない赴任先の彼に宛てた文にはいつも蜜柑の香を焚く。
 どうか、危険な地へと赴く彼が安穏な日を思い出せますように。

20201202




意地悪しないで/ヒュース

 本格的な冬の到来をアナウンサーが伝えた今日、天気予報の通り、街中を吹く風が冷たくて思わず肩を竦めた。
 今日は絶対鍋にしよう。寒い冬はどうしても鍋が多くなるが、簡単・温かい・たくさん食べられるの三拍子揃った最高の冬のごはんである。文句は言わせない。これは食事当番の特権である。
 支部で暇そうにしているヒュースを連れ出して支部を出る。嫌そうな顔を隠しもしなかった彼だったが、謝礼にたい焼きをと提案すれば、何も言わずに立ち上がった。
 少し前まで色づいていた木々たちが、今はでは地面に敷物のように落ちている。一歩を踏み込むたびに乾いた音を立てる。
「うわ、やっぱ寒い!」
 覚悟して出てきたつもりではあったが、温度の調整された室内では外の寒さなんてわからないものだ。寒さに身を縮こまらせながら、スーパーまでの道を歩く。
「ね、ヒュースのそれ貸して」
 角隠しのフードに加え、陽太郎に授けられたもこもことボリュームのあるマフラーに巻かれたヒュースは、ちらりとこちらを一瞥した。
「嫌だ」
「風邪引いちゃう」
「別にお前が風邪を引こうがオレには関係ない」
「意地悪。ヒュースのお鍋だけ激辛にするからね」
「どっちが意地悪だ」
 じゃんけんで決めようと提案すると、何だそれはと彼は眉を顰めた。アフトクラトルにはじゃんけんはないらしい。
「わ、わかった。たい焼き二つでどうだ!」
「三つだ」
 今月のお小遣いも残り少ないがやむ無し。全ては防寒のためである。
 ヒュースはマフラーを外して、私はそれを受け取ろうと彼に手を差し出した。
「ぎゃあ!」
 首筋に冷たい感触。外気に晒されて冷えたヒュースの手だった。
「手冷た!」
「寒いからな」
 ふん、と彼は得意げに笑う。
「早く、早くマフラーを!」
 半ば奪い取る形でヒュースから受け取ったそれをぐるぐると首に巻きつける。
「なんでそんな意地悪するの」
「なんとなくだ」
 人肌に温まったそれに顔を埋めて、恨めしそうに彼を見る。
「今のでたい焼き一個マイナスですよ」
「ならばそれも返すんだな」
 ほら、と出された手がなんとも恨めしい。その手をぺしっと退ける。
 結局新作のたい焼きが出たとかで五個買わされた。

20201212




全部お酒のせい/爆豪勝己

 いつもより、ちょっとだけ羽目を外した飲みの席で、周りが止めるのも聞かずにグラスを飲み進めようとしたところだった。
 人の目はこんなに吊り上がるものなのだろうか、というくらいの形相で仁王立つ彼を見つけてしまった。いい感じに酔いの回った身体からアルコールがさっと抜けていく。半ば無理やり、彼の手に強く腕を引かれて、夜の街を二人で歩き出す。
 コンクリートの道にヒールの音がやけに大きく響いていた。掴まれていた腕をするりと移動させてみる。先程の怒り具合から、解かれてしまうかもしれないと思ったけれど、意外にも大人しく手を握られている勝己くんにしめしめと私はさりげなく指を絡める。
 勝己くんは今や名の通ったルーキーヒーローで。世のカップルが当たり前にしていることが、私たちにはなかなかできなかったりする。
 ニヤニヤと緩んでしまう口元を、勝己くんは「キモい」と一喝する。彼女にそんなこと言うかな、ふつう。怪訝な顔を彼に向ければ、彼も負けじと眉を寄せた。
「勝己くん、そんなに怖い顔ばっかりしてるとそのうち愛想尽かされちゃうんだからね!」
「愛想尽かされんのはてめェだろ」
 ハッと笑って、勝己くんが言う。それを言われると、思い当たる節が多すぎた。
「やだ! 愛想尽かさないで!」
「うるせーわ。近所迷惑」
 慌てて縋り付いたのに塩対応で躱される。
「そりゃあ、勝己くんの方が家事もできるし料理も美味しいし個性も強いけど……」
「あたりめーだ」
 勝己くんに愛想を尽かされるなんて、あってもおかしくないから不安になる。何でもできる勝己くんが、私なんかいらないと言えばそこで終わりなのだ。
「酔い覚めそう……」
「そりゃよかった」
「泣きそう」
「は? 情緒不安定かよ」
 さっきまでへらへらしてたのに縋ったり泣きそうになったり。まさに情緒不安定のそれだ。勝己くんと手を繋げて幸せ絶頂みたいな気持ちだったのに、今ではそれもすっかり萎んでしまっている。
「つーか今更かよ。**に愛想尽かすんならもうとっくに愛想尽かせとるわ」
 そう言って、勝己くんは呆れたような顔で私を見下ろした。
「……それは私ラブってこと?」
「うるせー、酔っ払い」
 都合の良いように受け取って緩む口元を隠し切れないでいた。

20201219




あたたかい缶コーヒー/影山飛雄

 試合後の体育館は熱気を帯びていた。重い扉を開けて一歩外に出ると、冷たい外気の差に肩を震わせた。手にしていたマフラーをきつく首に巻いた。
 さあさあ、今日も良い試合だった。観ていて面白い試合は、プレーする選手たちも同じく満足度が高いと聞く。この試合、彼も楽しんでプレーできただろうか。きっとミーティングがあるだろうから後で連絡を入れることにして、体育館を後にしようとした時だった。
「**さん!」
「あれ、どうしたの? 飛雄くん」
 お疲れ様、と今回の試合でもよく活躍した彼を労る。わざわざ試合後に声をかけてくるなんて珍しいなと飛雄くんを見上げると、何やら焦りを含んだ顔。しかしそれよりも気になるのは、彼の額にまだ薄らと残る汗だ。
「風邪引いちゃうよ」
 肩にかけられたタオルを取り、彼の汗を拭う。
「あざっス……」
 少しだけ背伸びをして近づいた距離に、彼は目を伏せた。
「……あの、」
「うん」
 何か言いたげにして私の手を掴んだ彼の手は、試合の名残かこもった熱がちょうど良く温かかった。
「……手ぇ冷たいっすね」
 つい先ほどまで身体を動かしていた彼と比べたら体温は低く感じるだろうに、彼はすぐにハッとして呼び止めた自分が悪いのだと謝罪を口にする。
「いや、飛雄くんのせいじゃないよ。寒いもんね〜、最近」
 そう言って笑うと、彼は何か考え込むようにしてからそのまま私の手を引いた。自販機の並ぶ休憩スペースだった。飛雄くんはちらりと私を見てから《あったか〜い》の中の一つを押す。
「これ」そう言って、手の中の缶コーヒーを差し出した。
「ん?」
「あったかいんで」
 カイロ代わりに、ということらしい。合点が行って笑顔でそれを受け取った。手の中でじんわりと広がる熱に彼の優しさを感じて、胸の奥までぽかぽかと温まる。
「**さん」
 不意に呼ばれて顏を上げる。
「あとで連絡します」
 屈んだ彼と近づいた距離に反応する間もなく、唇に触れた熱。
 驚いて声にならずに立ち尽くす私に、彼は目を細める。気を付けて帰ってくださいね、それだけ言ってホールの奥に戻っていく彼の背中を見て、缶を持つ手に汗が滲む。
 逆に熱が上がりすぎてしまったみたい。マフラーを取っ払って、それを団扇代わりに扇ぐので精一杯だった。

20201222




楽しいクリスマス/白布賢二郎

 カンファレンスが長引いて、帰宅時間が予想外に延びた。疲れた身体に鞭打ってスーパーに寄ると、こんな時間にも関わらずいつもより人出が多く見えた。簡単に食べられるものをとカゴに放り込んでいく。疲労した男性が一人、場違いの様だった。仕方がない。今宵は聖夜、クリスマスだ。街や人々が賑わい浮かれるのも納得がいった。

「じゃじゃーん!」
 買い物袋をぶら下げて家に着くと、いないはずの姿に盛大に迎えられた。すぐに風呂に入ってレポートを仕上げて少しでも睡眠時間を確保してやろうと思っていたのに、目の前の彼女はきっとそうはさせてくれない。
「なんでいんの」
「白布くんとクリスマスのお祝いしたかったから」
「俺は別にお祝いしたくない」
「クリスマスなのに!?」
 心底驚いたように彼女は目を丸めた。クリスマスだからなんだ。今日も明日も明後日も教授の元で実習、研究のコンボが続くのに、クリスマスを祝う余裕などなかった。
「プレゼント交換しよ」
「用意してない」
「うそでしょ!?」
 繰り返しの問答に嘆息する。別の学部に通っていた彼女がこちらの苦労を知る由もないことは仕方のないこと。
 テーブルに並べられた料理を前に得意気になる彼女の髪を撫でる。
「……ねえ、今のプレゼントでもいい」
「安すぎねえ?」アホみたいな彼女の言葉に思わず笑う。
「あ、ケーキもあるよ!」
「こんな時間に食って太るぞ」
「今日は特別! クリスマスは食べ物全部カロリーゼロだから」
 謎の理論を並べ立てる彼女に、訳が分からないと頭を振って温かい料理を胃に収めていく。自炊をしないわけではないが、忙しい学生の身でこんな風に凝った料理を作ることは多くない。シンプルに揃えていた自室に謎のツリーやサンタのオブジェが置かれガーランドでさりげなくイルミネーションが施されているのは解せないが、誰かが家にいて部屋が暖まっているのは悪くないと思えた。
 シャンパンを開けて、程よく酔いの回った彼女のケラケラとした笑い声が部屋に響いた。風呂に入るのもレポートもきっとおそらく深夜になるだろう。
 半ば自棄になって、ソファーに転がる彼女に影を作る。
 ああ、楽しいクリスマスだな。(ヤケ)

20201223




今日はやけに積極的/奈良坂透

「奈良坂くん」
「はい」
「君、告白されてたよね……?」
 意を決した私の質問に、彼はいつも通りの冷静な態度で「はあ、まあそうですね」と一言だけ返した。
「え、で、あの。なんて……?」
 私は恐る恐る尋ねた。
「断りましたけど」
「あ、よかった!」
「先輩がいるのに付き合うわけないでしょう」
「そ、そうだよね」
 放課後、校舎裏への呼び出しなんて漫画かドラマの中だけの話だと思っていた。そんな非日常な出来事にあまりにも慣れた対応だったから、私が知らないだけで奈良坂くんがこうして呼び出しされるのなんてよくあることなのかもしれない。彼が私を理由に断ってくれたと聞いて、ほっとした。
 彼の同級生らしき女の子と並んで歩く姿があまりにもお似合いだったから。もしかしたら、と思ってしまったのだ。
「**さん、まさか……」
 眉に顰めて私を見下ろす奈良坂君にしまったと舌を噛む。
「だって、奈良坂くんわかんないじゃん……!」
「何がですか」
「いや、その、いろいろと」
 奈良坂くんと付き合っているとは言っても、目に見えて恋人らしい雰囲気があるかと言われると微妙なところだ。ボーダーの面々にも、お前らそうだったのかと驚かれることもしばしば。
「別に、好きで好かれてるわけじゃない」
 そうでしょうとも。羨ましい話だった。
 相変わらず怪訝な顔を浮かべる奈良坂くんに、そろそろ話題を変えなければと最近読んだ本の話を投げてみるが、彼はあまりそれに興味を引かれなかったらしい。
 何か言いたげにじっと見下ろされて、慌ててくるくると回していた口を噤んだ。
「奈良坂くん、怒ってる……?」
「怒ってない」
 そうは言うものの、いつものポーカーフェイスでわかりづらいが、どちらかというと不機嫌な方に入る気がする。そんな彼の機嫌をどう取ったら良いものかと唸っていると、不意に巻いていたマフラーを引っ張られて、思わず潰れた蛙のような声が出た。
 気づけば奈良坂くんの整った綺麗な顏が目の前にあった。
「……!」驚いて声にならない声をあげる。
「……アンタがわからないからだろう」
「なっ、ずるい! こんな、急に……!」
「別に急じゃない。いつも考えてる」
 彼の爆弾発言に、唇を震わせる。胸の奥から上がる熱のせいで、このまま干からびて皺々に縮んでしまいそうだった。彼のさらさらした髪の隙間から覗いた耳も同じくらいに染まっていて、こっそりほくそ笑むのだった。

20201224




仕事納め/赤葦京治

「ごめん! 今日会えない!」
「は?」
 カレンダー通りに仕事を終えて、三ヶ日までの大連休!と思っていたのに、何故かこんな時期の納品ミスが発覚し、クリスマス前から現場は大修羅場。上が出るのに下っ端の私が早々に正月休みに入るわけにもいかず、ただひたすら戦場の駒となる。
 例年通り慌ただしい年の瀬ではあるが、予定外の出来事に予約していた美容院やネイルはキャンセルせざるを得ない。一段と身を整えて新年を迎える予定だったのに。
 彼からの着信の知らせをいつもならうきうきで受け取るのに、今回ばかりはボタンをタップする指が重い。
「約束してましたよね?」
「し、仕事納まらなかった……」
 ボロボロの状態で彼と会うわけにはいかない。会いたくない。会いたいのに、会えない。クリスマスだって、お互い忙しくて大した時間も取れなかった。
「明日も出勤なんですか?」
「ううん、休み」
「じゃあ、会えますよね?」
「いいえ」
「は?」
「だ、だって! こんなんで京治くんに会えないんだもん!」
 本音をぶち撒けると、機器から流れるは無。きっと電話の向こうで呆れてるんだろう。想像に容易かった。彼のそういう態度は何度も目にしている。
「……行きますから」
「えっ」
「今から行くから」
「あ、はい……」
 電話越しでも伝わる迫るような低い声に、思わず肯定を返す。彼の到着まで数十分もない。

  複雑な心境の中、インターホンが鳴ってまもなく、恐る恐る少しだけ開けたドアをチンピラよろしく足でこじ開けて、笑顔の彼が顔を出した。
「何か言うことは?」
「……こんばんは?」
「へえ?」
 探るような目つきで見下ろされて、ハッと気づく。これはハズレ。
 慌てて彼に手を伸ばす。
「会いたかった」
「ん」
 正解らしい。外の冷気に冷やされたコートに身を寄せて、彼の馴染みの香りを思い切り吸い込んだ。
 とっくに仕事を納めた彼はいつもと変わらずこんなにかっこいいのに、私ときたら髪は乾燥でパサついてるし、ネイルも伸びて甘皮処理はも甘い。クリスマスも満足に過ごせなかったのだから、せめて次会うときは少しでも綺麗な私で彼を迎えようと思っていたのに全く予定がパーだ。
 恋人に会う時はいつだって万全の態勢で臨みたいのよ、と言えば彼は怪訝な顏を見せた。
「訳がわからない理由で変なこと言わないでください」
「ええ……」
「別に見た目で付き合ってないんだけど」
「そんなこと言ってくれるの京治くんだけなんだけど!」
「他に誰か言われる予定でも?」
 彼の物言いたげな目に思わず視線を逸らす。
「ないです」
「ふーん?」
「本当にないから!」
 必死に否定する私を笑いながら、冷えた指先が頬を撫でた。

20201228




最終電車/唐沢克己

 はっと目が覚めたとき、見慣れない場所にいた。電車の揺れが心地よくて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。口の端から涎が垂れそうになって、慌ててそれを拭った。
「よく眠れたかな」
 すぐ隣で聞き慣れた声がする。その人は穏やかにこちらを覗き込んでいた。
「か、唐沢さん……?」
「ん? よく眠れたかい?」
 彼の愛煙するタバコの香りがする。私はハッとして姿勢を正す。いつの間にか眠り込んで、さらには彼にもたれ掛かってしまったようだ。
「あの、すみません……。私寝ちゃってて……」
「いいさ、疲れたんだろう」
 ゆっくりと電車が停まる。さて、と腰を上げた唐沢さんを見上げると、車内アナウンスが聞き慣れない駅名を告げた。
「え?」
「終点まで来てしまっていたようだね」
 まさか……と凝視すると、彼は意味ありげな笑顔を浮かべながら電車を降りる。慌ててその背中を追いかけて、続けて私もホームへ降りた。
 人もまばらに改札口へ向かって歩く。外はすっかり闇に包まれていて、藍色の空にぼんやりと星が浮かんで見えた。
「あの! 唐沢さん、もしかして……」
「あんまりにも君が気持ち良さそうに寝ているものだから」
「起こしてくださいよ……!」
「次からはそうしよう」
 普段車で移動の唐沢さんが電車になんて滅多に乗らないのに。きっと、次なんてないのを分かって言っているのだ。
「さて、」
 改札を出て立ち止まった唐沢さんに倣い彼の隣に立つ。腰に手を当ててわざとらしくううむと唸る彼の真意を測りかねて、次の言葉を待つことにした。
「どうしようか」
 投げかけられた問いに、首を傾げる。
「三門に戻る電車はもうないようだな。歩いて帰るにはだいぶ遠い、んだが……」
 こちらを見据えながら話す彼の言葉をようやく察して、ぼうっと顔に火がついたように熱くなる。
「あ、歩いて帰ります!」
「そうきたか」
 慌てて口を挟む私に、唐沢さんは苦笑を漏らす。防寒具などいらないほど熱を持って、冷たい風を扇いだ。
「まあ、あらかた予想はできた反応だな」
「え?」
「わざとだと言ったら君は怒ってしまうかな」
 唐沢さんの言葉を反芻し、はっと彼を見上げる。
 ゆっくりと、頬に触れた指先は冷たいはずなのに、そこからどんどんと熱が生まれる。火照る頬も逸る心臓も唐沢さんにはきっとお見通しなのだろう。

20210122




早朝のベッド/白布賢二郎

 意識の浮上に薄らと目を開けると、まだ闇も深く布団の隙間から入り込む冷気に身震いした。ぐるっと寝返りして、ベッドサイドに置かれたスマホを見ると、アラームを設定した予定時刻よりもまだいくらか早いようだった。
 隣の彼の様子を伺ってみると、静かに寝息を立ててまだ夢の中のようだった。上下する彼の胸に顏を埋める。あまり起きている時には恥ずかしくできないので、こういう時がチャンスだとばかりにこっそりと、だけど思い切り息を吸い込んだ。同じシャンプーの香りがして、思わず頬が緩んだ。そのまましばらく彼に寄り添って過ごしていると、思いのほか時間は過ぎていたらしい。
 いつの間にか腰に回っていた腕にぐっと引き寄せられて、彼の胸板に鼻をぶつけた。
「いたい……!」
「へんたい」
「いつから起きてたの」
「ついさっき」
 いつもより低い掠れがかった声が、寝起きを思わせた。彼は私のつむじに顏を埋めてわざとらしく息を吸う。早起きの特権だとばかりにした私の所業は、彼にはバレていたらしい。同じことをしていたと思うと途端に恥ずかしくなった。
「賢二郎もへんたいじゃん……」
「**よりはマシ」
 からかうように鼻で笑う彼の鳩尾を小突く。カーテンの隙間から覗く外は、まだほんのりと薄暗かった。あと数分程でアラームが鳴り出す頃だろう。
「ねえ、起きなくていいの」
「まだ時間じゃない」
 お互いの体温と合わさってぬかるみのような意識の中で、腰の辺りで怪しげに動く彼の腕を掴んだ。
「朝!」
「まだ5時」
「5時に起きるって言ってたの誰?」
 んー、と誤魔化すように唸ったまま、彼の不穏な動きは止まなかった。
 その時、けたたましくスマホのアラームが起床時間を知らせる。
「アラーム! アラーム鳴ってるから!」
 ビービーとけたたましく騒ぐ鳴り続けるスマホに慌てて起き上がってみるけれど、腕を伸ばした彼がそれをタップすると、それはすぐにピタリと止まる。
「うるさ……」
 それは、どちらに対しての文句なのか。静かに呟いた彼に腕を引かれて、そのぬるま湯のような布団の再び沈み込んだ。

20210202




目が離せない/角名倫太郎

 翌日がゴミの日だと気づいたのは、深夜0時を回った頃だった。部屋の整理をしていたおかけで大きなゴミ袋のかたまりが二つもできていた。
 こんな夜更けに外に出るのは気が引けるが、翌朝収集車が来る時間に間に合う自信もなかった。
 部屋着として使っている上下揃いのジャージに、サンダルをつっかけて部屋を出た。
 春に突入した四月の夜の風は、まだ少しだけひんやりとしていた。目の前の大きな道路は日中は車がひっきりなしだというのに、この時間はまばらだった。
 マンションのエントランスの前に設置してあるゴミ置き場にゴミを置いて任務完了。エントランスの前に戻って気がついた。
「鍵忘れた……」
 絶望した。マンションを見上げるとちらほらと灯りの付いている部屋が見受けられた。こんな時間にオートロックを開けてくれとインターホンを押すのはどうなのだろうか。不審者と間違われそうな気がする……。
 悩みに悩んだ末、知った番号を呼び出してみる。
「…………何やってんの」
「あ、よかった! 起きてた!」
「は?」
「鍵、忘れちゃった」
 努めて明るく伝えてみると、インターホン越しで彼は呆れたようにため息を吐き出した。
 「開けるから」という彼の言葉のあと、すぐに自動ドアが開く。
 エレベーターに乗り込んで、自宅の階についた。その廊下に立つのは、私の窮地を救ってくれた角名くんその人だった。心なしか不機嫌そうに見える。
「ありがとう。助かりました」駆け寄って彼を見上げる。
「ばかなの?」
「うっかりしました」
「俺がいなかったらどうしてたの」
「適当に灯がついてる部屋番号押してたかも」
「ばかなの」
 二度目は先ほどよりも強かった。へらりと笑って誤魔化す私をじっと見据えて、そうして最後にはどこか諦めたような、呆れを含んだため息。
「こういう時は呼んで」
「え、ゴミ捨てるのにわざわざ角名くんを呼ぶの?」
「あんたがこんな夜中に外出なきゃ済む話なんだけど」
「すぐ目の前なのに?」
「この辺あんまり治安良くないって知らないの」
「えっ! 知らない!」
 衝撃の新事実だった。私より先にこの地に暮らす彼が言うならきっとそうなのだろう。
「わかった?」
「わ、わかった!」
 半ば強制的に約束させられたものだけれど、また一つ、角名くんと私の間に新しいルールができるのだった。

※このあとお風呂上がりだったことがバレて何故かまた怒られる
※同じマンションの角名くん
※付き合ってない
※言うほど治安悪くない

20210421




忘れない匂い/鶴丸国永

※死ネタ

「わたし、鶴丸のにおいすき」
 それは遠い昔、自分の半分ほどの背丈しかない幼い審神者が彼にかけた言葉だった。
 はて、自分の匂いとな。
 鶴丸は衣に鼻を寄せてくんくんとそれを確かめるが、自身のものはどうにもわかりづらい。
「お花のにおいだよ」
 くるくるとよく動く大きな瞳を嬉しそうに輝かせて審神者が言うので、鶴丸も自然と笑みが溢れる。
 それはどうやら驚きを求めて本丸を駆け回った鶴丸に春の木々からの移り香が残ったものだったらしい。外を駆け回ったままの身で審神者の部屋を訪れるのはまずかったかもしれない。
 それでも、自分の主に好ましいと言われて嬉しくない男士はいないだろう。
 二人がそんな話をしたのは、もう随分と昔のことだ。

 春の景趣は、この本丸では一番馴染みのあるものだった。
 温かく柔らかな風に乗って舞う花びらはどこか儚く、開けた縁側を通り越して、一つ、ひらりと畳の上に滑り込んだ。
 その昔、まるで自分の子どものように可愛がっていた審神者ももうすっかり老いた。随分と痩せ、手の甲の皺も目立つようになった。
 歴史修正主義者との戦いも落ち着き、ようやっと役目を終えようというところだった。審神者にとっては長く、刀剣の神である彼らにとっては短いほんの一瞬のような時であった。
「気分はどうだい、主。何か食べるかい?」
「……ううん、大丈夫」
 ころころと鈴が鳴るように彼らを呼んだ声も、今はもう掠れて小さくなった。
 異能の力は、使うほどに彼女の命を短くした。
 床に臥した審神者はほとんど見えなくなった視界から白を見つけて、力なく手を伸ばす。
「鶴丸の匂いがする」
「そうかい?」
「うん、落ち着くの」
「……君がいなくなると寂しくなるな」
 鶴丸の言葉に、審神者の瞼がゆっくりと、そして穏やかに閉じられる。
「私がいなくても、貴方には変わらずにいて欲しいのだけれど」
「君が望むならそうするさ」
 鶴丸は、すっかり骨だけの軽くなった審神者の手を力強く握り込んだ。
 沈丁花はまだ開ききっていなかったが、しっかりと濃い芳香を立てている。彼女の今際の時、審神者の部屋はもうすっかりと春の匂いに包まれていた。

20210425




キスで許して/赤井秀一

 ある日の夜。インターホンを覗けば、久しぶりに見る顏がモニターに映る。
「久しぶりだな……」
「勧誘はお断りです」
 もちろん見知った間柄なのだが、わざとそういうとモニター越しに男は面くらったように目を丸めた。
 彼の返事も待たずにモニターをオフすると、しばらくして玄関の扉が開かれ、聴き慣れた足音が響いた。
「あのね、普通に入って来てくれます!?」
「君が開けないからだろう」
 彼は煙草を燻らせて、さも私が悪いかのように平静と言ってのけた。
「普通だったら警察を呼ぶところだわ」
「それは困るな」彼はわざとらしく肩を竦めると、すたすたと我が物顔でリビングを歩く。
「……こんな時間に何の用ですか?」
「ひどいな。恋人の顔を忘れたのか」
「長いこと会ってない恋人の顔なんて忘れました〜」
 ふい、と顔を背けて最大限嫌味ったらしくなるように言った台詞に、彼は瞬いだ。
 思うように二人の時間が取れなくて、それが仕事だから仕方がないと理解しているつもりでも、同じように気持ちも追いついているかと言われればそれは難しい話だった。
「そうつれないことを言ってくれるなよ……」
 それでも当然のように彼の声には余裕がある。
 それが悔しくて、私は彼の手にある煙草を奪い取った。慣れないそれを吸い込むと、うまく肺に行き届かなかった煙に少しだけむせ込んだ。
 二人の間に吐き出した紫煙の壁が広がった。
「悪かった」彼が頬に触れる。私よりも幾分か体温の低い手だった。
 不意に近づく距離に「待った」をかける。止められるとは思ってなかったのだろう。「おい……」とやや不機嫌気に彼が唸った。
 私の制止に眉を寄せる彼の口に煙草を押し戻す。
「そうやって、キスで流される女と思わないでちょうだい」
「ホォー……」
「な、何よ……」鋭く見定めるような視線に、強気な態度も鳴りを潜めてしまいそうになる。
 その隙をついて、後頭部に回った手に引き寄せられる。ぐっと距離が縮まった。
「ちょっと!」
「許しを請うキスじゃない」
「……なに?」
「久しぶりに会った恋人にキスのひとつでも贈りたくなるのは当然だろう」
 彼からの煙草葉の青臭さが胸をいっぱいにする。煙草の灰がフローリングの床に落ちるのも構わず、そのまま二人してソファーになだれ込んだ。
 結局、毎度こうして許してしまうのだから、私も大概彼に甘いのだ。

20210501




晴れた休日/赤井秀一

 ここしばらく大きな事件もなく、穏やかな時間を過ごしていた。
 珍しくオフが重なった日、気分転換に外出に誘えば、二つ返事で了承してくれたので舞い上がって喜んだ。
 当日はよく晴れて絶好のお出かけ日和だった。独特の重く転がすようなエンジン音が響いて、運転席の窓から覗いた姿に私は慌てて駆け寄った。
「……待たせたな」
「赤井さんが先に来てなくて良かった!」
 誰か今すぐ車の窓という窓をスモークガラスに変えてくれ!
 周りからの視線が身体中を刺すような気がした。今、この場ですっかり注目を浴びているのは、この男――赤井秀一であった。
「や、やっぱりやめましょう! 今日はおうちデイです!」
 私の必死な様子に、赤井さんは不思議そうに目を開いた。それから声を押し殺したように笑うと、私を助手席に促した。
「出かけたいと言ったのは君じゃなかったか」
 赤井さんは吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「やっぱりおうちが良くなりました!」
「ホォー……。俺も君と出かけるのを楽しみにしていたんだが……。残念だな……」
「ウッ……! でも、でも……!」
 初夏の晴天。海でも山でも、都会から少し離れたショッピング施設でも、行きたいところはたくさんあったけれど、人手の多いこんな休日に赤井さんを無防備に歩かせていいのか? 否!
「赤井さんを狙う世の女性は数知れず……! あまりにも危険すぎます!」
「……そんなことはないと思うが」
 赤井さんは新しい煙草に火をつけた。その姿を狙うハイエナがどこにいるとも限らないのに、私は気が気ではない。
 毎度、私のこういった心配事は「君の杞憂だな」と笑われてしまうのだけど、赤井さんは世の女性の恐さをご存知ないのですか、と問いたくなる。
 うだうだと言い訳を考えているうちに、停車していた車のエンジンが一段と重く響いた。
「まあ……。とにかく、おうちデイとやらは帰ってから楽しむとしよう……」
「あっ!」
 アクセルが踏み込まれ、赤い車は滑るように真昼の道路を駆けていく。
 私の願いはどうやら聞き入れられないらしかった。
「……赤井さんは死んでも私が守りますからね!」
「それは頼もしい」
「期待してませんね!?」
 私の声に赤井さんは声を上げて笑った。
 結局、行った先々で女性の頬を染めさせてしまう赤井さんを目の当たりにして、休日のデートは危険だと実感せざるを得なかったのだった。

20210505




お化け/ライ

 上より任された命であれば任務遂行のために身を尽くす限りではある。多少の血生臭さにも慣れている。しかし、気が乗らない任務というものはあった。
 今回は組織内でもトップクラスに苦手な彼とボロの廃墟に同行せねばならないと聞いて、まだ始まってもないうちからため息が繰り返し溢れた。
「……おい。いちいちため息を吐くな。辛気臭くなる」
 先を歩くライからの鋭い視線を受け流し「はいはい」と不服感を露わに答えれば、小さく舌打ちが零された。
 彼の髪が揺れるたび、いつも口に咥えている煙草の残り香が空を泳ぐ。
 今回の現場は、数年――いや、それ以上の年月の間、人の出入りがないような雰囲気があった。
「――わっ!」
 突然、足が抜けたような感覚がして、身体が大きく傾いた。老朽化して脆くなった床を踏み抜いたらしい。
 顔だけで後ろを振り向いたライの眼光が光った。
「…………」
 その無言に、「足手纏いになるな」と圧をかけられているようだ。私は黙って服についた細かな木片や汚れを払う。
「……それより、本当にこんなところに標的がいるの? ガセネタじゃないでしょうね?」
「知るか。あの魔女が持ち込んだ情報だろう」
「ベルモット? それなら確かだと思うけど……」
 暗闇の中、足元に細心の注意を払い、一歩ずつ慎重に歩を進める。先方を歩く彼は、いつの間にか煙草を燻らせていた。
「あいつの言ってた幽霊とやらも本当に出るかもな……」
「は? ユーレイ?」
 鼻で笑いながらとんでもないことを口にする彼に、私は思わず足を止めた。
「……なに? 幽霊が出るわけ? ここに?」
「なんだ、怖いのか」
 心なしか彼の口角が持ち上がっているような気がした。
「……馬鹿言わないで。いくつだと思ってるの」
「ホー……。意外だな……」
 私の虚勢などお見通しというような目をして、彼は静かに紫煙を吐き出した。
「そこにいるやつをいくつか連れて帰るか」
「は?! 何!? 見えるの!? やめてよ!」
「冗談だ」
 真面目な顔つきで冗談など言うな。
 暗く、自分たち以外人のいない空間であるはずなのに、見えない何かの気配があるよう思えてくる。彼の口から細く吐き出された紫煙がぼんやりと形取ったものさえ、何か意味のあるものに見えてしまう。
「これ以上その話をしたら、いつか貴方の墓の上でタップダンスを踊ってやるわ」
 私は憤慨して、肩をいからせて大股で先を歩いていく。
「おい、そこに……」何かに気づいたらしいライが声を上げた。
「あのねえ、騙されるわけないでしょう!」
 ふん、と鼻を鳴らして足取り荒く先を進む。
「ギャッ!!」
 地面が抜けた。
 一瞬何が起こったのかよくわからなかった。勢いよく踏み込んだ場所にあるはずの床はなく、下半身を丸ごと飲み込まれたように下に沈み込んでしまった。
 呆気に取られながら、上から此方を見下ろすライを見ると、今まで見たこともないほど声を上げて笑っていた。
 それこそ、まるでお化けでも見たかのように驚愕してしまった。
 初めて見たのだ、そんな彼の姿は。
「……お前が先に墓に入る方が早そうだな」
 やや乱暴に引き上げられて、彼はすたすたと先を進んでいく。
「不気味だわ……」未だに肩を揺らす彼の背を追って独り言ちた。

20210516




閉じ込め(られ)る/赤井秀一

「……え?」
 目が覚めたら、見慣れない部屋にいた。
 視界に広がるのは真っ白な天井。横を見れば、煙草を咥えたニット帽の男性――赤井秀一がいる。
「あか、……赤井さん!?」
 赤井秀一といえば、上司が毛嫌いしているFBI捜査官である。彼とは何かしらの因縁があるらしいのだが、とにかく悪評を聞かされていた。その赤井さんと今、二人きり、知らない場所にいる。
「あの、状況は……?」
 彼は何も言わず、視線だけで壁を見るように促した。
「え!?」
 そこに書かれていたのはここ出るための条件だった。
「……そういうことだ」
「そういうことだと言われましても……」
 起き抜けのぼやけた思考が状況に追いつけない。そもそもここに来る前は何をしていたんだっけ。うんうんと頭を捻ってみても、ここへ来た理由も手段も何も思い出せなかった。
 ポケットに入っていたスマホはバッテリー切れ。窓一つない空間には時計もなく、今が何時なのかもわからない。連絡もできない状態で、怒り心頭の上司の姿がありありと思い浮かぶ。戻ったら無事ではいられなさそうな予感に、背筋が震えた。
「どうする?」
 赤井さんは呑気に紫煙を燻らせながらいつもと変わらない口調で言った。どうすると言われてもここを出るためには指示の通りにするしかないのだが、素直に「はい、そうしましょう」というのも憚られた。
「どうしましょうね? あはは……」
 返答を誤魔化すための私の愛想笑いにも彼は全く動じない。細い紙筒を咥えた薄い唇が視界に入るたびに、変に胸がざわついた。
「君の同意がないと手が出せない」
「……私に言わせるんですか?」
 彼はわざとらしく肩をすくめて言った。
「君の上司が許さないだろう?」
 思わぬ言葉に目を丸める。
 自身の部下が仕事にも行かずこのような状況にいることを知ればきっとそうだろう。雷神の如く憤然とする上司の姿を思い浮かべて、背筋に嫌な汗が流れた。そんな私の心情を知ってか知らずか赤井さんの指が、額にかかった髪をすいた。その手があまりにも優しくて、おかしな錯覚をしそうになる。
「降谷くんにはフォローを入れておこう」
「それ、火に油だと思いますけど」
 ふっと息吐くように笑って、赤井さんの目が細められた。奥から覗くオリーブの瞳に見惚れている間に彼の煙草の香りが近づいて、自然と瞼を落とした。
 なるようになれ。

20220912




人生相談/赤葦京治

 結婚を前提に付き合っていた彼に振られた。こ れで三人目だ。いよいよもう一歩というところで 毎度なぜか別れ話が出る。そんなに私は結婚に向いてないですか、そうですか。
 半ばヤケになって駅染みの店に馴染みの後輩を 呼びつけた。ぐいぐいとアルコールを流し込んで いく私に、後輩の冷ややかな視線が刺さる。
「あかあし! 全然飲んでないじゃん!」
「誰かさんが飲みすぎるから、控えてるんですよ」
 彼の呆れた声は、昔からよく聞いたものだった。はあ、と隠しもせずにため息を吐いて、赤葦は刺身を一切れ口に放り込んだ。
「今日はヤケ酒なの。付き合ってよ」
「二人とも潰れたら意味ないでしょう.......」
 こっちは明日も仕事なんですよ、と赤葦はまだ一杯目のグラスに口をつける。
「赤葦が潰れたら連れて帰ってあげるからさ」
「どの口が言ってんすか」
 この後輩とは学生時代からの長い付き合いだけれど、私が赤葦よりも先に潰れなかったことなんてなかったかもしれない。一度、面白がって潰されそうになっているのを見たことがあるけれど、結局私も記憶がないのでその時の彼がどうなったのかはわからない。
「とにかくさ、もう人生諦めたわけよ」
「早くないですか」
「だってもう無理だもん、結婚とか」
 勢い余ってグラスを置いたら、思いの外大きな 音が響いた。
「毎回いいタイミングで別れてますもんね」
「ねえ、赤葦。私呪われてるのかな」
 赤葦からの返事はなく、彼はパクパクと並べられた刺身を口に運んでいた。
「ねえ聞いてる?」
「別にいいじゃないですか」
「良くないって。適齢期ももうとっくに過ぎたんですけど」
 そう言うと、赤葦はああ、と無責任に納得したような声を漏らす。
「潰れる前に言っときますけど、」
「なになに? 後輩からのありがたいアドバイ ス?」
「まあそんなところです」
 続きを前にすみません、と赤葦は遠くにいた店員を呼んだ。
「手頃なところで手を打っておかないからですよ」
「手頃なところってどこ? 木兎とか?」
「木兎さんが手頃...…?」
 思い当たる手頃そうな友人の名前をあげると、赤葦は眉を顰めた。
「えー。じゃあ誰?」
「俺とか」
 ゴトン。
 分厚いジョッキの底がテーブルに落ちた。思考がぐるぐると脳内を回っている間、気づけば二人分の会計は済み、バッグを持たされて私たちは店の外にいた。
「......ねえ、もう一回言って」
 涼しい秋風を肌にうけても、アルコールの沁みた思考はうまく働かない。
「俺にしときませんか」
「赤葦と結婚ってこと?」
「それはさん次第ですけど」
 急速に回ったアルコールのせいなのか、肌の表面から内側までじんじんと熱が巡る。上手いこと機嫌良く回った酔いが口元を緩ませた。
「......赤革も手頃じゃないよ」
「そうですか」
 どちらからともなく繋がれた手は人肌以上に温かかった。
「ねえ、いつから私のこと好きだったの?」
「教えません」
「なんで!? 教えてよ!」
「黙秘します」
「ケチ!」
「置いて帰りますよ」
「ヤダ」
 いつもの調子でそんなことを言われても繋がれた手は離されず、私は余計に顔をニヤつかせてし まうだけだった。
 人生、決まりました。

20221003




二人の秘密/赤井秀一

 何度目かわからないため息を吐き出しながら、鏡の中の自分と向き合う。鎖骨をなぞるように散らばった痕を見て、出勤前からは憂鬱だった。
「そう何度もため息を吐くな……」
「誰のせいですか! 誰の!」
 元凶を睨みあげると、シラを切ったようにわざとらしく両肩を竦めた。その左手にはのお気に入りのカップがあり、可愛らしく並んだイチゴ柄が彼には不釣り合いでなんだかおかしかった。
「つけたのは俺だが、そう仕向けたのは君だ」
「責任転嫁やめてくださーい」
 言いながら、ポンポンとコンシーラーを叩きこむ。その途中、一瞬コーヒーの香りを強く嗅いだと思ったら彼の鼻先が耳元を掠めた。
「は!?」
 身を捩って、は触れた軽い刺激に熱が上がるのを誤魔化した。
「ここなら髪で隠れるだろう」
 だから大丈夫だとでも言いたげに彼はコーヒーを口に含んだ。
「見えなきゃいいなんて言ってないです……!」
 鏡越しに頬を染めたを見て、彼は口角を上げる。
 バスルームを出て行く彼の背中にこっそりベッと舌を出してやると、彼は後ろ手にカップを持たない手をひらひらと振った。恐ろしい。後ろに目でもついているのかもしれない。
「……のんびりするのもいいが、そろそろ出る時間じゃないか?」
「あ!」
 が慌てて時計を見れば、いつも家を出る時間が迫っていた。粗雑にメイク道具をポーチに突っ込んで、いつもと同じように髪を束ねようとしたがチラつく鬱血痕がいやでも目に入る。
「髪アップにできないんですけど!」
 から思わずこぼれた舌打ちにも、彼はくつくつと面白がって笑うだけだった。
 バスルームを飛び出して、テーブルに用意されていた温くなったコーヒーを一気飲みする。トーストは紙に包んで職場で食べることにした。
「遅れたら赤井さんのせいですよ」
「それはすまなかった」
 全く悪びれる風もない。同じ職場であるはずなのに、この余裕が余計に癪に触る。
「まったく、みんなにバレたらどうするんですか」
「…………」
 読んでいた雑誌から顔を上げて、こちらを見た彼は瞬きを繰り返す。
「なんですか?」
「……いや……、」
「まさか……」
 二人の関係は、同僚たちの誰にも伝えていないはずだった。仕事に支障が出てはいけないとが提案したのだった。
「…………」
 何も言わない彼に、はわなわなと肩を震わせる。
「み、みんな知って……!?」
「皆、察しはいいからな」
 今日はデートなのね、なんて言われたあの時も、恋人と良いことでもあったんですか、なんて揶揄われたあの時も、みんなには相手が誰なのか気づかれていたということだ。
 今日のように一夜を共にした朝でも、家を出る時間には差をつけていたのに全く意味がなかったらしい。
「は、恥ずかしすぎる!」
の様子で気づいてない奴はいなかったと思うが……」
 なんてことだ。は頭を抱えた。
「……時間はいいのか?」
「行きたくなくなりました……」
 もちろんそんなわけにはいかないのだが、とんでもない事実を知ったの足は重かった。思考を落ち着かせる十分な時間を置いた後、特大のため息を吐き出しながら腰を上げると、彼も読んでいた雑誌を閉じて立ち上がる。
「もう知られてるんだからいいだろう」
「……まあ、そうですけど」
 しぶしぶと、車のキーを掴んで先を歩く彼の背を追う。玄関の扉を開ける前に急に立ち止まった背中にぶつかりかけた。
「ちょっと、」
 文句の言葉が出るより先に、くるりと振り返った彼の腕が腰に回り、その腕に引き寄せられた。
「……見送りのキスは?」
「一緒に出るのに?」
 彼は何も言わずに目を細めて、の顔に影を落とした。
 見上げた先の引き上げられた薄い唇は、まるでお揃いのルージュでもつけたように色づいていて、はぼっと?を熱くさせた。
「それ! 絶対落としてくださいよ!?」
「…………」
「ねえ! なんで無視するんですか!」
 肩を震わせながらスタスタと歩き出す彼を早足で追いかけた。

20221009




初めての夜/赤葦京治

「もしかして、緊張してます?」
 はい、その通り。その返事は、私の様子から容易に察せられたと思う。
 自分の家だというのに、変にかしこまって先程から手元は覚束ないし、吃りは止まらないしで様子がおかしいのは明らかだった。
「だって、赤葦が家にいる……」
「ああ、まあ。そうですね」
 見慣れた部屋のあちこちに視線を流す私とは反対に、赤葦は落ち着いた様子でコーヒーを口に含んだ。

 高校卒業後も変わらずただの先輩後輩だった私たちは、数年を経て男女の仲へ進展した。先日、久しぶりに集まった部活の仲間たちに報告したところ、とても驚かれた。昔馴染みだからか妙に照れ臭い。そんな中でも赤葦は極々普通にしていたけれど、まさか赤葦とこんなふうになるなんて想像もしていなかった私は終始しどろもどろで、ほろ酔い気分のみんなへ経緯などを話す羽目になった。
 出版社で働く彼は打ち合わせや締切があったりと忙しく、二人で会うのに十分な時間を取れずにいた。そうして、健全なお付き合いのまま早数ヶ月が経っていた。
 金曜日。仕事終わりの赤葦を誘ったのは私だった。今週で仕事も落ち着くと聞いていたから、疲れている彼を労わるため手料理でも振る舞おうと思ったのだ。リクエスト通りの料理を並べて、ちょっと良いワインも開けちゃったりして、それはそれは楽しい時間だった。久しぶりに二人で会えたことも嬉しかった。
 食事を終えて、二人で食器の片付けをしていた。
「コーヒー飲む?」
「はい、いただきます」
 背伸びをして吊り戸棚からカップとコーヒーを取り出そうとすると、赤葦が背後から腕を伸ばす。
「これでいいですか?」
「あ、ありがとう」
 その時、突然その存在を強く意識した。恋人と家に二人きりでいることを自覚したのだった。
 時計は、まもなく夜の十時を示そうとしていた。これからコーヒーを淹れようとしているのに「いつ帰るの?」なんて空気が読めていなさすぎる。けれど、「泊まってく?」なんて誘う勇気もなかった。
 そこから様子のおかしくなった私に何を言うでもなく(きっと気づかれてはいたと思う)、二人でソファーに並んでコーヒーを飲んでいた。
 友人関係だった時でも、こんな距離感であったはず。隣にいるのが恋人である異性と思うと、途端に恥ずかしくなってしまう。気づかれないようにちらりと横を見ると、赤葦はいたっていつも通り。学生の頃から彼はいつだって冷静で余裕があった。もともと大人っぽいところはあったけれど、数年が経過してより大人びた。きっとモテてきただろう。それが、いつの間にか私のことが好きだと言うのだから驚いた。
 そこまで考えて、顔が熱を持った。カップに半分ほどになったコーヒーを一気飲みして、頭を振る。
 一人きりなら一番落ち着いていられるはずの我が家でこんなにも緊張している。何をするでもないのに、心臓はうるさく打ち続けて息が詰まる。
さん」さすがにしびれを切らしたのか、赤葦が口を開いた。
「もしかして、緊張してます?」
 冒頭に戻るわけである。

 いつ間にかコーヒーを飲み終えた赤葦は、カップをテーブルに置いてこちらに顔を向けた。
 その距離が思いの外近くて、心臓がまた一段とうるさくなる。
「……ごめん。なんか変で」
「いえ」
「俺のこと意識してくれてるってことですよね?」
 見透かされたような言葉に顔を赤くすると、赤葦はわずかに目を細めた。
「もっと意識してもらってもいいんですけど」
「え?」
さん、俺のこと未だにただの後輩って思ってるでしょう」
「そんなことは……」
 好きと言われて、付き合い始めてからただの後輩なんて思ったことはない。けれど、もともとが後輩だったからその名残はあったかもしれない。長い付き合いのせいでこの関係がくすぐったくてわざと意識しないようにしていた時期もあったかもしれない。振り返ってみると、赤葦の言うことにも納得できた。
「ご、ごめん。彼氏だとは思ってるよ」
「でも、俺のこと終電で帰そうとしてましたよね?」
 ぎくり、と肩が揺れた。
「いや、あの。だって、泊まっていってって言うのもなんか……」
「おかしくないですよ」
 視線をあっちこっちにやった後に恐る恐る赤葦を見上げると、真剣な眼差しが私を見返した。
「……と、泊まっていきますか?」
さんがいいなら」
「赤葦が言わせたのに!」
「でもさんが誘ったんですよ」
 しれっと赤葦はそう言って、一気に距離を縮めた。
「ち、近くない?」
「近くしてんですよ」
 咄嗟に赤葦の胸の前に当てた手を取られて、自分とは別の体温が包み込んだ。
「……赤葦のこともう一生後輩として見られないんだけど」
「一生見なくていいですよ」
 顔どころが全てを真っ赤にした私を見て、赤葦は口角を引き上げた。
 名前を呼びかけて口を噤む。
 口から飛び出してきそうな心臓の音が脳まで響いてきて、赤葦の耳にまで届いてしまいそうだった。

20221011




いつもよりかわいい

 貴重な赤井さんとのデートの日。
 それはもう楽しみにしていた。家でのんびりと過ごすのも良かったけれど、以前私がグルメ情報番組を見ながら「美味しそう」とぼやいたことを覚えていてくれたらしい赤井さんが、今日は外出デートを提案してくれたのだった。
 一等お気に入りのワンピースに身を包み、渾身のメイクを施して、いつか赤井さんに贈ってもらったアクセサリーをつけて、完璧なデートコーディネート。出かける前からすでに気分は最高潮だった。
 赤井さんの運転でやってきたお店でランチを食べ終えた後は、こちらも気になっていたカフェで期間限定のフルーツタルトを食べる。ほんわかした雰囲気の店内でクールにコーヒーを飲む赤井さんはそれはもう人目を引いた。彼が極々平凡な男性ならば、いくら女性客の多いこの場所でもこんなに目立ちはしなかっただろう。
 四方八方から寄せられる色のある視線を心のライフルで撃ち落としながら、早くこの場を離れなければと慌ててケーキを口に運ぶ。すると、赤井さんが「そんなに慌てて食べるとせっかくの味がわからなくなってしまうだろう」なんて優しく笑うものだから、私は余計に急いで口を動かした。普段のクールな赤井さんであれば、かっこいいけど近寄りがたい……なんていう雰囲気でなんとかハイエナたちが懐に入るのを防いでいるというのに、そんな柔らかい表情を公共の場で披露しないでほしい。
 半ばかき込むようにして食べたケーキはそれでもやっぱり美味しくて、本当ならもう2個も3個も食べたいほどだったのだけど、こんな危険な場所に赤井さんを座らせておくわけにはいかないと、ごくりと唾を飲み込んで耐えた。
「どうしたんだ。そんなに慌てて……」
 店を出てすぐに足早に車に向かう私を、君らしくないと赤井さんが不思議そうに言った。
「だって赤井さん、すっごく狙われてた」
 タルトもコーヒーもとても美味しかったけれど、終始サバンナで肉食動物に囲まれた気分だった。
「ホー」
「なんで笑ってるの」
 私の言葉に相槌を打つ赤井さんの声に、嘲笑の色が見えた気がした。それにムッとすると、赤井さんは笑いながら私の頭を撫でた。
「そんなこと気にも止めてなかったよ。おめかしして可愛い君とのデートに集中してたんでね……」
 赤井さんの手が頰におりて、耳朶に光る石に触れた。赤井さんにもらったものだ。
 そう言われて、久しぶりのデートだというのに周りの視線ばかり気にしていた自分が恥ずかしくなる。でも尋常じゃなくかっこいい赤井さんもいけない。
「せっかく赤井さんとデートだから気合い入れたんです! いつもより可愛くできた?」
 見上げれば、カフェで見た柔らかな笑みがこちらを見つめていた。
 たまらず勢いをつけて赤井さんにしがみつくように抱きつくと、そのまま持ち上げられるようにして抱えられた。
「……さて、次は何をご所望かな。可愛いお嬢さん」
 いとも簡単に助手席まで運ばれて、運転席に乗り込んだ赤井さんが車のエンジンをかける。シート越しに重く響く振動を感じながら赤井さんを見やる。
 やはり米花町というサバンナから赤井さんを守るのは私しかいないとしみじみと考えるのだった。

20230410




ソファーの上で

 正座をの姿勢で、カーペットの模様の一点をただ見つめていた。つむじをつき刺すような視線から逃れるためである。有無を言わさない空気に、私は何も言えず彼からの言葉を待つのみだった。
 しばらく長い沈黙が流れた後、肺の空気を全て吐き出したくらいの大きな溜息が落とされた。
「…………で?」
「で、とは……」
 私は恐る恐る顔を上げて、目の前の降谷さんを見上げた。降谷さんの冷ややかな視線がさらに細められて、再び視線を逸らす。
「僕たち、付き合ってなかったんだって?」
「いやだって……」
「だって?」
「なんでもないです」
 しおしおと肩を落として、降谷さんからの刺々しい視線を受け止める。湿ったらしい声で、明らかに不機嫌だとわかる。降谷さんの機嫌は声を出やすい。美形に凄まれると怖いことを知ったのも、彼と知り合ってからだ。
「君は付き合ってもいない男と寝ると……?」
「えっ!? ちがっ、あの……!」
 棘のある声に、私はたじろいで崖っぷちに追い込まれたような声しか出なかった。
 こっそりと腕を組んでこちらを見下ろす降谷さんを見れば、彼は再び小さく溜息を吐き出した。溜息を吐きたいのはこちらだと言ってやりたいが、それを言うと確実に雷が落ちるので喉の手前で飲み込んでおく。
 降谷さんは忙しい人だった。月に一度顔を合わせたら良い方。電話やメールなんか滅多にないし、急に予定が空いたと連絡が来て慌てて支度をして出かけたことが何度あったことだろう。
 そんなふうにたまにしか会えないから、触れ合う時間も限られる。大人だから、会うたびにそういう行為に及んでいても決しておかしいことではないが、あまりに会えないものだから疑ってしまうのも仕方がないのだと弁明したい。
 都合の良い女でもいい。他に恋人がいたとしても、たまにしか会えなくてもそばにいたい、とそう思っていたのだ。
 休みが取れたと降谷さんが言ったのは夕食を終えてコーヒーを飲んでいる時だった。「どこか行こうか」なんて珍しくそんなことを言うものだから、思わず口をついて出たのは「そんなデートみたいなことしていいんですか?」という言葉だった。外出なんかして、本命にバレたらまずいだろう。余計な気遣いだった。穏やかだった空気が一変したのはこの時だ。
 こうして冒頭に戻る。
「だって、好きって言われてないです」
「……は?」
「降谷さんに告白なんてされてないですもん」
 不機嫌な声に怯みながら、これまでの記憶を辿る。はっきり好きと言われたこともなければ、関係が進展するような言葉を受けた記憶もない。そうなると、そもそもはっきりしない降谷さんが悪いのでは、と思い始める。
「……言ってなかったか?」
 降谷さんは目を瞬かせて、自分で信じられないとばかりに口元を覆った。
「聞いた覚えがないです」
 ここぞとばかりに言い詰めると降谷さんはバツの悪そうに眉根を寄せた。降谷さんは息をついて、私の隣に腰を下ろした。
 いよいよ限界だと、組んでいた足を崩すと末端まで血液が流れる感覚がした。あともう少し長ければ痺れて立てなかっただろう。
 肩が触れる位置に座った降谷さんから、ふんわり爽やかな香りがする。どこの香水かと尋ねても使ってないの一点張り。こっそり同じ柔軟剤を買ってみたけれど、同じ香りにはならなかった。
「……もう怒ってないですか?」
「怒ってない……。そもそもこれに関しては僕が悪かった」
「……好きですか? 私のこと」
 恐る恐る尋ねると、降谷さんは少しだけ困ったような顔をして言う。
「好きだよ」
「……本当に?」
「本当」
「いやでも、他に女がいても簡単に言える人はいるしな……」
「……疑り深いな、君は」
 ため息混じりに言われて、不満げに唇を尖らせる。
「そうしたのは降谷さんです」
「…………」
 誤魔化すように降谷さんの手が頬に伸びて、骨をなぞるように触れた。それがくすぐったくて思わず目を細める。
「君にしか会う暇がない」
 降谷さんが本当に忙しい人なのは、久しぶりに会う彼がクマを作っている姿やコーヒーの匂いの染みついたキスをされる時とかいつもピシッと決めたシャツにシワが作られていることとか、そういうところからわかってはいた。それでもやっぱり言葉で欲しがってしまうのは、私の我儘なのかもしれない。
「もし降谷さんに他の女がいたら、」
「いたら?」
「呪います」
 はっきりと言い切ると、降谷さんはきょとんと目を丸めたあと可笑しそうに声をあげて笑った。
「本気ですよ! 言っておきますけど、降谷さんも一緒に呪いますからね!」
「へえ」
 もう私の言葉なんて聞いてないみたいに、指で髪先を遊んでいた。さっきまでの不機嫌そうな様子はどこへやら、反対に鼻歌でも聞こえそうな声色で「君に呪われるなら楽しそうだな」なんて言う。絶対本気にしていない。
「で、ご希望のデート先は?」
「みなとみらいのパンケーキ!」
「了解」
 

20230516




寄り道

 二月に入って随分日が延びたように思う。空気の冷たさは未だ冬のままで隙間を閉じるようにマフラーを巻き直す。
 公園で遊んでいた子どもたちはいつの間にかまばらになり、残って遊んでいた小学生たちも帰り支度を始めていた。どこかの家から夕飯支度をしているであろういい香り鼻をかすめる。やはりどこかのお店に入って時間を潰そうかな。そう思って立ち上がろうとすると、ベンチの下に素肌に触れる柔らかな感触があった。
「あ、」
 そっと覗くと、黒い固まりの中に二つの眼光が見えた。見た目よりも高く可愛らしい鳴き声に、思わず手を伸ばす。
 逃げられてしまうと思ったのに、意外にもそれはこちらに興味を示してくれたようだった。指の先を嗅ぎ、ベンチの下からぬっと姿を見せる。タグ付きの赤い首輪がある。外で見かける猫にしては人懐っこさがあるのは、飼い猫だからかと納得する。
 艶のある黒毛に指を埋める。撫でる感触が心地いいのか、気持ちよさそうに喉を鳴らした。タグには名前は記されていなかった。
 暗闇に飲まれてしまいそうな真っ黒な毛に覆われたその子にピッタリな名を呼ぶ。本当の名前はわからないけれど、呼ばれて嫌な気はしないらしい。相変わらず無防備に薄目を開けたまま、私の手の動きに身を任せていた。
 ベンチの傍にしゃがみ込んでクロとの逢瀬を楽しんでいると、見知った足元が視界に入り込む。
「あ、人間のクロだ」
「なーにしてんの」
 ていうか本物のクロってなんだよ。
 彼はそう言って私の隣に同じようにしゃがみ込む。制汗剤の香りがふわりと周りの空気に溶け込んだ。いつの間にか部活を終えるような時間になっていたらしい。沈む太陽の光を残して明るく見えた空も、気づけば薄闇に変わり浮かんだ星が輝き出していた。
「この子、クロって名前」
「本当に?」
「今つけた」
 へえ、と黒尾は同じように猫の毛に触れた。新たに現れた人間にも特に警戒を見せず、クロは相変わらずゴロゴロと喉を鳴らす。そのうち本当にだれかに連れ去られてしまわないか心配になる。
 しばらく二人で猫を撫でて過ごしていると、ふと思い出したように黒尾が顔を上げた。
「もしかしてずっとここにいた?」
「うん」
「あぶねえし寒いだろ」
 咎めるような視線が向いているのに気づいたけれど、クロがいたから大丈夫と言えば、そういう問題じゃないのとさらに渋い顏をされた。
 彼氏の部活が終わるのを待つ時間は嫌いじゃない。クラスメイトとカフェや買い物に行って過ごす時もあれば、こうして一人で図書館や公園で過ごすのも苦ではなかった。人気のないところで一人ぼっちはさすがに軽率だったかと反省したけれど、今日はクロも一緒にいた。
 この短時間ですっかり懐いてくれたクロは、無邪気に手を挙げて早く撫でてくれと催促する。
「可愛い。連れて帰りたい」
「飼い猫ですよ?」
「知ってますよ、それくらい可愛いって話。私も部活入ろうかな」
「今から?」
「猫部」
「なんだそれ」
 そんなくだらない話をしていると、突如公園脇の道路を走る車がクラクションを鳴らす。クロははっと顏を上げて耳を立てた。黄昏のような眼光が暗闇で際立った。
 あ、と別れを惜しむ間もなく、クロは素早い動きで走り去っていった。そこには手のひらに残る柔らかさと温かさだけがあった。おかげで気にならなかったけれど、何気なく吹く風がクロの余韻を簡単に奪っていく。
「……猫部活動終了しました」
「お疲れ様でした」
 黒尾は立ち上がり、ほら帰るぞと手を伸ばして私を促した。日が沈む前に見た小学生のお母さんみたいだ。
「いやお母さんて」
「さっき同じ感じで連れて帰らされてる小学生いた」
「はいはい、帰りますよー」
 伸びた手が私の手を摑まえる。部活で身体を動かしていたせいなのか、私よりもずっと体温の高い肌に包まれる。当たり前のように絡んだ指にぎゅっと力を入れて彼を見上げると、同じように力が入れられる。
   他愛のない話をしながら、冷たい風にさらわれた熱を取り戻すように二人で分け合うのが嬉しくて自然と口元が緩んだ。
「またクロに会えるかな」
「人間の方のクロも可愛がってくださーい」
「黒尾のこと? 可愛がってるよ、十分」
「おねだりが足りなかったか」
「もっとってこと?」
 見上げると、黒尾はニヤニヤと口元に笑みを浮かべる。
 ううんと考えて、繋がれていない反対の手で屈むように促した。
 手の届くところまできた黒尾の頭をさっきクロにしたようによーしよし、と撫でてやる。
「……なんか違う気がする」
「これしてほしいのかと思った」
 どこかの動物好きなおじいさんの真似事みたいによしよしと頭を撫でつける私に黒尾は拗ねたように口を尖らせる。暗がりの道端でふざけ合っている自分たちがおかしくて二人で噴き出した。

20240217