玄関を開けると奥の方からいい匂いが漂ってくる。珍しく景光くんの方が帰宅が早かったようだ。
今日はわたしも早くに仕事を終えた方だと思っていたのに、嬉しい誤算だ。お互い仕事が忙しい身なので、こうして夜の時間を過ごせる日は多くない。スキップまじりの足取りでダイニングに直行する。
「おかえり」
「ただいま! 景光くんのごはん楽しみ!」
「いつも作ってもらうことが多いからね。楽しみにしてて」
料理の手を止めて、彼はふわりと笑みを浮かべる。久しぶりに景光くんの顔を直視した気がする。その顔を良さに胸を押さえて、この何気ない幸せを嚙みしめた。
「何してるの?」
「神に感謝してる……」
「何言ってるの……。ほら、手洗ってきて」
「はーい」
洗面所で手を洗って部屋に戻ると、食事の準備はほとんど終えるところだった。慌ててキッチンに合流して、お皿を運ぶのを手伝う。座ってていいよ、と景光くんは言ってくれるが、それはちょっと申し訳ない。働かざる者食うべからず。皿洗いはわたしがやりますからね、とアピールしておく。
テーブルに着いて、いただきますと二人で手を合わせる。二人で夕食をとるのはどのくらいぶりだろうか。仕事から帰ってすぐにごはんのある生活――しかも好きな人が作ったごはん! 神さまありがとう。
「また神に感謝してる?」
「うん。あと景光くんに」
「オレ? ありがとう。素直に受け取っておくよ」
きれいな所作で料理を口に運ぶ景光くんと美味しいごはんを堪能しながら、少し前の案件が大変だっただの最近発売されたアイスが美味しかっただのとお互いの近況報告をする。
「あ、」
「どうしたの?」
ちょうど良いタイミングで知らされた出張の話を思い出し、スマートフォンを操作する。
「景光くんって長野の人だったっけ? 今度長野に出張なんだ」
「へえ! いいね。いつ行くの?」
「来週。お土産買ってくるね」
地図アプリで出張先の位置を調べていると、観光名所もそこそこありそうだった。長野は行ったことがないから仕事の合間に観光もできたらいい。ただの仕事で終わらせるのはもったいない。出張を終えたら有休をくっつけて休みを得る算段だ。観光地にも行って、名物も食べて、満喫しなければ。
「俺も行こうかな」
景光くんが呟いて、わたしはパッと顔を上げる。
「えっ」
「ダメ?」
「えっ! 最高!」
「来週なら……。最近働き詰めだったから、休み調整してみるよ」
社会人になってから一緒にどこかに出かけるなんて両手で数え切れるほどだった。部署によるらしいが、土日休みではないし、出かけるにも場所によっては上司に申請が必要らしい。詳しくはよく知らないが、以前そういう実状を知った時、警察官と付き合う大変さを実感した覚えがある。
「多分、俺は日帰りだけどね」
「やったー!」
出張に加えて、景光くんとの遠出デートの予定まで立ってしまった。神大感謝。
「あ、そういえば。景光くんのお兄さんは長野にいるんだっけ?」
「そうだね。兄さんは長野県警だね」
「兄弟ですごいよねえ」
兄弟で警察官なんて、すごいことだ。特に夢もやりたいこともなく大学に進学して働けるところで働いているわたしと比べたら、ちゃんとやりたいことがあって夢を叶えている景光くんはすごい。尊敬すべき人だ。
「お兄さんもきっと景光くんに似てイケメンだね」
「…………」
何気なく口にした言葉に、景光くんははっとしたように目を丸めた。
「あ、ごめん。人間顔という話ではなくて、景光くんがかっこいいからお兄さんもきっとかっこいいんだろうなって……。失礼しました」
「あ、いや、そうじゃなくて」
少しだけ考え込むようにして、景光くんは眉を顰めた。
「好きなタイプは?」
「景光くん」
「……嬉しいけど、そういうことじゃなくて、一般的なやつ」
「えーと。そう言われるとすぐ出てこないんだけど……シュッとしてて、落ち着いてる感じ? どっちかというと歳上好き、だったかも……?」
過去に好みだった有名人や知人を思い浮かべる。景光くんと出会ってからは、わたしの好きなタイプは景光くんである。そこは揺るがない。
わたしの返答を聞いてなおも、景光くんは神妙な面持ちでじっとこちらを見やっている。
「多分……、いや。絶対に兄さんは君の好みだ」
「え?」
景光くんは断言する。どうやら景光くんのお兄さんは先に挙げたわたしの好みにドンピシャらしい。景光くんに似てて、なおかつ大人っぽく、東都大法学部主席で卒業と頭も良いらしい。
「……そうかも」
「ほら」
「お兄さんの写真とかないの? 見たい」
「……あるにはあるけど」
若干の渋りを見せながら、景光くんはスマートフォンを取り出す。一枚の写真が向けられて、思わず閉口した。似ている、景光くんに。まさに彼を大人っぽく、シュッとした感じだった。
「…………」
「ほら、好きだろ」
景光くんは早々に画面を暗転させ、唇を尖らせて拗ねたような表情を浮かべている。ええ、なにそれかわいい。そんな景光くんの様子にわたしが何も言えずにいると、彼は食べ終えた皿を持って立ち上がった。
「あ、片付け! わたしがやる!」
自分の分の皿を持ち上げて、慌てて彼を追いかける。わたしがやると言っているのに、シンクの立ち位置を譲らない景光くんの身体をぐいぐいと押しやって、なんとか彼をテーブルに戻すことに成功した。
景光くんは、せっせと皿洗いに勤しむわたしをカウンター越しに見つめている。兄弟揃って顔もいいんだなあ、なんて呑気に考えた。
「兄さんの方が好み?」
「え!? いや、わたし的きゅんポイントは景光くんに似ているところであって!」
「ふーん」
「信じて!」
泡立った洗剤の柑橘系の香りが広がっていく。シンクの中で皿同士がぶつかり軽快な音を立てた。
急いで、でも汚れや泡はしっかりと洗い落として、片付けを終える。早く景光くんのご機嫌を戻さなければ。
二人でソファーに移動して、景光くんの手を取った。掌を持ち上げて、自分の指を絡ませる。先ほどまで水に浸けていた分、人肌よりも体温の低い手に景光くんの熱が移っていく。
「いつかお兄さんに挨拶させてね。景光くんのこと世界一大好きな彼女です! って言うから」
「……本当にそんな感じで言いそうだな」
「熱弁するから!」
彼の掌ごと、ぎゅっと力を込める。
景光くんはその形のいい目を細めて、手を引いた。絡まった指先のひとつに唇を落とす。そんな仕草が、まるでおとぎ話の王子様みたいで、わたしは思わず反対の手で胸を押さえた。
「……兄さんにヤキモチなんて恥ずかしいよな」
「全然。もっと妬いてください」
景光くんは笑って、反対側の手でわたしの腰を引いた。
「長野で行くところ、計画立てようね」
「そうだな」
「おやきも食べたいし、五平餅も食べたいし……あと蕎麦!」
指折り数えて見上げると、視線が合わさって彼のグレーがかった瞳に吸い付くように釘付けになる。両手は景光くんの熱ですっかり温度を取り戻していた。
ああ、神よ。本当に景光くん恋人がわたしなんかでいいんでしょうか。そんなことを考えていると「また神に祈ってる?」と言い当てられる。その薄い唇が額に落としながら、可笑しそうに景光くんは笑うのだった。
20250505
映画の諸伏兄かっこよかったです