天気の崩れる日が多くなり、一段と湿度が増す時期に入る。晴れ間がのぞくこともあるが多くは曇りや雨だった。夏に向けて少しずつ気温も上がり、少し外を歩いただけで汗ばんでくる。一番苦手な季節だ。
雨が降らないだけマシなのだろう。けれど、水分を多く含んだ重い空気が肌をベタつかせる。風が少なく、じわりと溢れ出る汗が不快指数を高めていった。舌を打ちたい衝動にかられながらどんよりとした空気の中、足を速めた。
「わ、涼しい」
預かっていた鍵で扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出ていく。それが汗ばんだ肌を冷やし、心地よさに思わず息をついた。
部屋に進むと、リビングに人の姿はなかった。ソファーの横に持っていた鞄を置いて、キッチンでグラス一杯の水を飲み干した。汗で流れた分は補充できただろう。相変わらず物音のしない室内だけれど、エアコンが稼働しているところを見るとおそらく奥に彼はいる。
もうひとつの扉を開けると、さらに冷えた空気が流れ込んだ。カーテンの閉められた薄暗い部屋の中に入ると、涼しいを超えて寒いと喉から声が出かかった。真ん中に置かれたベッドに大きな身体を転がすのは、家主である赤井さんだ。声をかけるより先にリモコンを確認すると、おおよそ自分では設定しない低い室温が表示されていた。外から来た私が熱を運んだためか、一層稼働音が大きくなった気がした。
「……赤井さーん」
届くか届かないか、ギリギリの声量で呼んでみる。不規則に働く彼は、昨夜もどこかへ出ていたらしい。きっと日が昇ってから帰ったのだろう。眠っている彼を起こすまいと部屋を出ようとしたとき、シーツの擦れる音がして、のそのそと塊が動き出す。
「寝てていいですよ」
近づくと、瞼は閉じられたまま微かに眉間が寄せられる。
「……いや、せっかく君が来たんだ。起きるよ」
起き抜けの、いつもより低い声で言いながら、彼の瞼は重いようだ。それにクスッと笑みが溢れ、控えめに声を落とす。
「私も外で汗かいたから、シャワー入ったりしたくて。赤井さんがちゃんと睡眠取れたら起きて一緒にご飯食べよう」
明らかに睡眠不足であるはずの赤井さんは私の提案に渋っていたけれど、ただでさえ常時ある隈をさらに濃くしてはいけない。おやすみなさいと声をかけると、しばらくすると穏やかに胸が上下する。
海外生活が長い彼にとって、湿度の高い日本の夏はうんざりするほど苦手なもののようだった。同じ気温でも湿度の差で体感温度は劇的に変わると言う。まだ本格的な夏が始まったわけでもないのに電気代など気にせずガンガンとクーラーを働かせていた。
シャワーを浴びてすっきりとして部屋に戻ると、一時は心地よく快適だった。けれど、すぐに冷える方が勝ってきて半袖の上から羽織れる服を引っ張り出してきた。赤井さんのものなのでサイズは大きいけれど、逆にそれがちょうど良かった。キッチンでお湯を沸かし、紅茶を淹れる。もうすっかり外の暑さなんて忘れて、温かい飲み物を飲みたい気分だった。
リビングより冷えた寝室で、寒くはないのだろうか。二十度以下に設定された寝室に、薄っぺらいシーツ、肌のよく見える格好で赤井さんは眠っていた。筋肉が多いと身体が冷えにくいと聞いたことがある。そのおかげか、と合点がいく。私も筋トレ始めようかな、なんて考えながら温かな紅茶を口に含んだ。
時計の短針が一周回った頃、スマホで目についたネットニュースも読み終え、正直手持ち無沙汰だった。睡眠を促したのは自分だけれど、せっかくの赤井さんとの時間を別で過ごすのもいかがなものか。赤井さんを起こさないようにこっそりと寝室へ足を忍ばせる。
普段なかなか見られない彼の寝顔を眺めるべく、忍び足のまま赤井さんへと近づいた。スッと通った鼻筋に、長く伸びたまつ毛はやはり外国の血を引いているのが見てとれる。無防備な寝顔を堪能しほうほうと見惚れていると、微かにまつ毛が揺れた気がして私は慌てて後退した。けれど、伸びてきた腕がそれを許さない。空気は冷たいのに、温かな体温が肌を通して伝わってくる。やっぱり筋肉量の差かなと感心していると、不意に手が引かれてバランスを崩しながらベッドに転がった。
背に触れるシーツには、彼の温もりがあった。ペリドットの瞳に視線を合わせると遠慮のある重みがの覆い被さってきた。
「よく眠れました?」
「ああ。君のおかげでな」
ふ、と細められた目の下には変わらずクマは健在しているのだけど、彼にしては多く休んでいた方だ。きっと本心なんだろう。
外気は冷たいけれど、彼の腕の中は心地のいい温度で満たされている。クーラーで冷え切った部屋で寝ていたというのにそれを感じさせない温かさがあった。
「…………あの、」
「ん?」
下のみ身につけた赤井さんは、つまりはその筋骨たくましい身体を惜しみなく晒している。寝起きのせいなのか普段より気の抜けた様子で、けれどその指はたしかに意味を持って私の線になぞっていた。
「ごはんは?」
「あとでいくらでも」
いつのまにか寒くて着込んでいたはずの羽織は取っ払われて、直接冷気が肌を滑り思わず身震いする。
「風邪ひいちゃうかも」
赤井さんは平気でも私には寒すぎる。そんな意味で向けた視線を躱して、彼は首筋に這わせた唇でわざとらしく水音を鳴らした。瞳の奥で孕んだ欲の色に、降参だと身を預けるしかなかった。
#1週間で2個書き隊のお題より
20230701
エアコンの設定温度低くしていそうなイメージ