世界が終わる日
「もうすぐ地球が滅亡するなんて信じられないですね」
 ここ数日SNSやニュースサイトでは、巨大彗星が地球に激突するという話題で持ちきりだった。NASAで発表された衝撃のニュースが広まるのは一瞬だった。神に祈る者もいれば馬鹿馬鹿しいといつも通りの生活を送る者もいて、世間の反応は様々だ。
 SNSを一通り見終えて声をかけると、赤井さんはパソコンの画面に落としていた視線をこちらに向けた。
「そのようだな。本部でも対応に追われているらしい」
 大したことでもないというように答えて、彼は新しい煙草に火をつけた。
「赤井さんは恐くないんですか?」
「人類が滅びるレベルの災害が起こるというなら、今更慌てても仕方ないだろう」
 そりゃそうか、と相槌を打って納得する。息と共に吐き出された紫煙がゆっくりと部屋に広がった。
 事務局に常備されているいつもの安っぽいコーヒーと煙草の香り。この空間だけを見れば日常だ。しかし、いつもは捜査官や事務員たちで詰まっているこのフロアもほとんど人の姿は見えない。外ではスーパーの食材は買い尽くされ、街では反政府の陰謀派グループによってあちこちで暴動が起こっている。価値あるはずのドル紙幣はもう紙屑同然だった。
 この例を見ない異常事態に、政府も軍もお手上げ状態。FBIからの情報でも、現場は混乱を極めているようだった。最期の時間を過ごそうと任務を放棄してる特別捜査官も少なくない。あと数日足らずで地球が滅びるのに真面目に働いているのは、生真面目な日本人やドイツ人くらいのものだろう。
「君は恐くないのか」
「赤井さんといれば、なんとかなるかなーって」
「ホォー……」
「ほら、得意の狙撃で軌道を逸らしたりとか」
 期待を込めて言えば、彼は僅かに片眉を上げた。
「NASAの連中でもできないことを俺にやれと?」
「それくらい夢見てもいいじゃないですか」
 冗談混じりの言葉もぺいと跳ね除けられる。どんな状況であれ、最期に一緒にいたいと思っているのは自分だけなのかもしれない。もう随分と長く一緒に過ごしたのに、ただの同僚という関係から一歩も前に進めないまま、もうすぐ地球が滅ぶ。
 深く息をつくと、軽く肩を竦めた彼は何かを思い出したようにまだ半分も残っている煙草を押し潰して席を立った。
 長い足をゆっくりと進めて私の前に立った彼の指には一枚のディスクがかかっている。
 ふわりとほろ苦い香りがする。
「なんですか?」
「君の好きな映画だ。死ぬ前に一度は見ておくかと思ってな……」
「ああ!」
 私がいくら勧めても「いつか観る」と濁されてなかなか観てくれなかったアメリカンヒーローたちのシリーズ作品だ。忙しい任務の合間をぬって駆け込んだ映画館で観たシリーズの完結編の感動は、今思い出してみても胸を震わせる。
 仕上げてもほとんど意味のない書類を放り投げて、デスクの上にテレビを繋げた。
 何作も続く長いシリーズだから、今から再生してもきっと見切れないだろう。それでも、赤井さんと一緒に好きな映画を観て時間を過ごせるのは僥倖だった。
 ふと、彼の手にしているパッケージを見て、私は驚いてその腕にしがみついた。
「ちょ……、赤井さん……。まさか、それから観るつもりですか……?」
「悪いのか?」
「それは最新作なんですよ! このシリーズ観たことないって言ってませんでした!?」
「一度も」
 私は唖然とした。よりにもよって、シリーズの完結編である最新作から観るなんて! この作品には全てのネタバレが詰まっている。初見でもわからないことはないと思うけれど、勧めるからには多くを楽しんでもらいたいと思ってしまうのがファンの心理である。
「推理小説の犯人とトリックを知ってから読み始めるようなものですよ! せめて、せめて少し前の作品から観ませんか……?」
 恐る恐る尋ねると、彼はふむ、と考え込んだ。
「君が付き合ってくれるなら」
「もちろんですよ! なんならシリーズ初作から付き合いますが!?」
 若干興奮気味に言い切って、はっとして赤井さんを見上げると彼は目を細めて吸い殻を灰皿に押し当てた。その視線があまりにも柔らかいものだから気恥ずかしくて思わず視線を逸らす。
「わ、私借りてきます。近くにビデオショップがあったはず……!」
 ついでに飲み物とポップコーンでも買ってこようか。こんな時だ、職場でお酒を飲もうが映画を観ようがもう誰も文句を言うまい。
 急足で扉に向かう私の腕を赤井さんが掴む。
「は、」
 強くなった煙草の残り香とコーヒー香りに目を丸めてるうちに、それは触れた。脳がそれを判断するまで、まるで永遠とも思えた。名前を呼ばれて思考を正せば、みるみると全身に熱が沸いた。想像していたよりもずっと柔らかな感触だったなどと考えながら、私は金魚のアンドロイドみたいに口をパクパクと繰り返すしかなかった。
「な、な……!」
「一緒に行く」
 混乱している間に、車のキーを指に引っ掛けていつのまにか赤井さんは扉の前にいた。
「君が言っただろう。付き合ってくれると」
「は!? そういう意味じゃ……!」
「撤回するか?」
 そんなわけない。押し黙った私を赤井さんはわかっていたみたいにふ、と笑った。
「世界の終焉を前に、そろそろ君の様子にも焦れてしまってな……」
「し、知ってたんですか! それならもっと早く……」
 赤井さんの背を追いかけて問い詰めると、赤井さんは悪びれる様子もなく言い放った。
「すまない。そんな君を見るのも楽しみだったんだ」
「ずるい! ずるいですよそれは!」
 私の反応を見て珍しく声を上げて笑う赤井さんに頬を膨らませる。
「もう怒りました。初作付き合ってもらいますからね。寝かせませんよ!」
「それは楽しみだ」
 店員のいないビデオショップでお目当ての作品たちを両手に抱えて、偉人の印刷された紙屑を置いておく。
 空に浮かぶ星の光が異様に眩しくて綺麗だった。

#1週間で2個書き隊のお題より
20221002