安室さん、といえばこの近辺で知らない者はいないだろう。
彼はとある喫茶店の店員なのだが、ちょっとした有名人でもあった。
「安室さん、本当かっこいいよね」
「彼女いるのかなー?」
近所の女子高生たちが噂する声をよく耳にする。かっこよくて、物腰が柔らかくて、頭もキレる、らしい。喫茶店の店員にしてはスペックが高すぎる彼は、幅広い年代の女性たちからの絶大な支持を得ていた。
平日の昼間の喫茶店ポアロの客はまばらだった。コーヒーを味わいながらゆっくりと寛ぐには最高だ。休日の昼間や午後のおやつ時なんて、安室さんファンと思われる女性客で賑わうこともある。にこやかに接客に回る安室さんは、確かにその辺の男性と比べたら格段にいい男だと言えるだろう。
「またいらしてたんですね、さん」
「……わー、お客さんに向かってそういうこと言っていいんですか?」
「失礼いたしました、お客様」
はいはいと適当に流すように返事をする安室さんの言いたいことはわかる。
平日の昼間から、ほとんど毎日喫茶店でコーヒーを啜る成人女はいかがなものか。世間一般の、同世代の人々会社や現場であくせく働いている頃だというのに。
いや、私だって好きで毎日暇をして過ごしているわけではない。
「なかなか転職先って見つからないものなんですよー」
「そうなんですか」
「だって、新卒で入った会社で雑用がメインの事務職して数年。突然会社潰れると思います? いきなり無職なんて、こっちこそたまったもんじゃないですよ」
「……まあそれは、災難でしたね」
「安室さん、お仕事紹介してくださいよ」
「僕はただのアルバイターですから」
カウンター越しにグラスを拭きながら、安室さんは暇な私のくだらない身の上話に付き合ってくれる。これがポアロに来るようになってからの、安室さんと私の関係だった。
空気が読めて聞き上手、頭の回転が速いらしい安室さんとの会話は、気を遣うことがなくて気楽で楽しい。間違いなく、彼が人気があるのも理解できる。
「次はもう永久就職かなー」
「……」
黙りを決めた安室さんは、その面倒くさそうな顔を隠しているつもりはあるのだろうか。
「ちょっと安室さん。どこにって聞いてくださいよ」
「……どこに?」
「お嫁さん、とか」
キャッ、なんて年甲斐もなく顔を覆って照れた私を、安室さんは見てすらもいなかった。新聞を広げたお客さんの接客に向かった安室さんは、そのまま店の奥に引っ込んでしまった。
この店にやって来る女性客はみんなこぞってこう言った。
「安室さんって、優しくてかっこよくて素敵!」
かっこいいのはわかる。けれど、優しい安室さんはどうやら私の前では姿を見せないらしい。常連のよしみなのか気軽な仲になれたのは嬉しいけれど、周りの女性たちに向けるその優しさを私にも是非向けてほしい。店の奥でちらちらと見え隠れする安室さんの姿を視線で追いながら、すっかり冷めてしまったコーヒーをちびちびと啜った。
いつ何時でも混雑するようなチェーンのカフェであれば、コーヒー一杯でこんなに長い時間居座るのは気が引けるのだけれど、ポアロは暇な客に優しかった。
暇な時間の潰し方といえば、安室さんを含む店員さんとおしゃべりしたり、スマートフォンで求人広告を検索してみたり、他のお客さんの世間話や噂話を盗み聞きしてみたり、ちょっと居眠りしてみたり、様々である。
ぼうっと時計の針が進むのを眺めているうちに、ついに自分が最後の一人の客となってしまった。静かなホールには、安室さんと私だけになった。
テーブルを片付け終えた安室さんが、お店用のエプロンを外す。
「あれ。安室さんもう上がりなんですか?」
「いいえ、今のうちに買い出しに行ってしまおうかと」
夕飯時になれば、またすぐに客は増えて賑わうことになるだろう。
「じゃあ、私も一緒に行っていいですか?」
「何が『じゃあ』なんですか」
「暇ですもん」
「いいえ。お客様にそんな雑用させられませんから」
「お客様」を強調した安室さんの曇りなき笑顔に、思わず舌打ちが溢れそうになった。自分で言った言葉が仇となってしまったようだ。急いで身支度を整えて、奥に声をかけて店を出た安室さんの後に続いた。
スーパーまでの道を歩きながら、何か物言いたげにこちらに視線を向ける安室さんに声をかける。
「何ですか? ただ道を歩いているだけですけど?」
「さん、本当に暇なんですね……」
「暇ですね」
「悪びれないでください」
はあ、とわかりやすく溜息を吐いた安室さんの白い息が街に溶ける。午後といっても、日の短くなったこの季節は気温が下がり始めるのも早かった。冬用のコートを羽織り、ポアロのエプロンのない安室さんは、お店での雰囲気とまた違っていた。すらりと伸びた背に、さらりと流れる茶髪の彼は、歩くだけでも人目を引くのではないだろうか。軽い気持ちでついてきたはいいものの、周りの視線が気になってしまう。こんなことなら、おとなしくポアロで時計の針でも追っていた方が良かったのではないかと思った。
スーパーや街のいたるところで女性たち、とくに制服姿の女子高生たちからの刺さるような視線を受ける羽目になった。その中に私と同じくポアロに通う常連客も見かけた気がした。きっと安室さんのファンの一人なんだろう。ポアロで二人で話しているならただの客と店員に留まるが、外を二人で歩くことはまた違った意味を持つ。無駄に神経をすり減らしながら、安室さんとの買い出しはなんとか無事に終了した。
半ば無理やりついてきたのだから荷物持ちくらいはと申し出てみたのだけれど、安室さんから渡されたのはアルミ色の紙に包まれていたチョコレートだった。
「何ですか、これ」
「オマケだって言ってもらいました」
「さ、さすが……!」
イケメンともなるとチョコレートのサービスが受けられるらしい。生まれてこの方、スーパーでオマケなどもらった記憶がない。
手のひらにコロンと転がったそれを開けると、チョコレートの香りに刺激されて、小さく胃が震えた。
「お腹空いてたんでしょう」
「え、なんで」
先ほどのスーパーのお惣菜コーナーを遠目にして鳴ってしまったお腹に気づいたというのだろうか。そうなら少し恥ずかしい。照れ隠しに、安室さんからもらったチョコレートを思い切ってぽいと口に放り込んだ。甘いものだとばかり思っていたら、意外にもビターチョコレートだった。安室さんへのサービスなんだからそうなるか。カカオの苦味を溶かしながら、舌の上でコロコロと転がしてみる。
小さなチョコレートを食べたせいで、余計に空腹が増した。またお腹の音を聞かれたらたまらない、と安室さんの耳に届かないくらいの距離をとってみるものの、リーチの差ですぐに追いつかれてしまった。
「帰ったら何か作りましょうか」
「まさか、安室さんの奢りで……?」
「まさか」
安室さんは喉の奥で笑った。
「仕事が決まったら何かご馳走しますよ」
「えっ、ほんとですか。信じますよ?」
「ええ、どうぞ」
スーパーの袋から覗く食材を眺めながら、温かいコーヒーと、お手製のハムサンドを思い浮かべた。
「私って、ポアロの売り上げにすごく貢献してますね」
「いつもご来店ありがとうございます」
「じゃあ、もっとサービスしてください」
「それとこれとは話が別です」
そんなくだらない話をしながら歩く街は、気づけば徐々に橙に染まり始めていた。冷えた空気は冷たく肌を撫で、ぶるりと震えた肩を縮こませた。
「お店着いたら、コーヒーとハムサンドお願いします」
「はい。かしこまりました」
そう言って爽やかな笑顔を浮かべる安室さんは、やっぱりかっこよかった。悔しいけど。私は皆のいう優しい安室さんを知らないけれど、もしかしたら知らないままがちょうどいいのかもしれない。
20171215
20220510 加筆修正再掲