ふたりでしか始められないこと



 「鉄朗くん!」
 
 部屋に入るなり、は声を荒げた。
 彼女のこういった様子は、過去に何度も見た光景であり、黒尾にとって珍しいことではなかった。
 
「ねえ、聞いてよ!」

 これはまた長くなりそうだ、と黒尾は読んでいたスポーツ雑誌をテーブルの隅に置いた。
 
「コラ。部屋入る時にはノックしろって言ったろ」
「あ、忘れてた……」

 ごめんごめん、と軽い口調で返すは部屋に入ると当たり前のように黒尾のベッドに座り込んだ。が胸に抱えたクッションは、この家にによく出入りする彼女が持ち込んだもので高校生男子の部屋に似合わず可愛らしい色味であるのもそのためだった。
 相変わらずのに黒尾は小さく息をつく。
 
「――って、そんなことより!」
「そんなことなんて言うんじゃありません。大事なことですー」
「あのね、彼氏と別れた」

 黒尾の訴えは軽くいなし、真剣な面持ちでは本題を切り出した。
 
「……また今度も早えな」

 これまでにも何度か聞いたセリフにまたか、と黒尾は呆れた。
 高校に入ったら彼氏を作るのだ、と意気込んでいた彼女がそれを成し遂げるのは早かった。恋の予行練習だなどと言って、少女漫画をあるだけ読み込んでいたの行動が、彼女の恋愛のハードルを上げてしまう原因になるのではないかと懸念していた黒尾だったが、それはただの杞憂で終わったらしい。
 同じクラスの誰々と付き合っただとか、別の高校の先輩に告白されただとか、意外とはそういうことに縁のある質だったようだ。
 今回も、彼氏ができたと嬉々として報告してきた姿は記憶に新しい。
 ほとんど専用のクッションを抱き潰しながらちゃんと聞いてよね、と声を荒げた彼女を宥めながら耳を傾ける。
 彼女の話では、しばらく忙しいことを理由に会えずにいた他校の彼氏にサプライズで会いに行ったら見知らぬ女の子と彼氏が部屋で仲良くよからぬことをしていたとか。
 
「あー……。それはなんというか、ご愁傷様……」
「でしょ! ムカつく! ほんと嫌い!」
「いや、この前まで王子様とか言ってなかった?」
「偽物だよあんなの」

 あれほど好き好きと言っていた男を偽物だとか嫌いだとか繰り返すは、じんわりと膜を張る涙が溢れないように必死に堪えている。これでもかというほど、つい先ほどまで恋人であった男の悪態を言い終えると、ぐっと押し黙り、微かに震える息を吐いた。
 
「よかったじゃん、別れられて」
「そうなんだけど……」
「けど?」
「好きだったもん……」

 最後の言葉がこれまで以上に震えてしまっていたことは、だけでなく黒尾も気がついた。
 
「絶対運命の人って思ったのに」

 その恋は、彼女の一目惚れから始まったらしい。通学の電車内で見かけた名前も知らなかった男子だったが、あらゆる情報網を駆使して意地で見つ出して連絡先を交換したという。
 こういう時ばかりに発揮される行動力は素直にすごいと思うのだが、残念ながらが好きになった男は大抵はロクでもない奴らばかりだった。彼らが元よりロクでもない奴らなのか、彼女がそうさせてしまうのかは定かではない。には出会いもあれば縁もあったが、なかなかどうも良縁に結びつく相手には未だに出会うことはできていないようだった。
 
「……なんで私ってこんな男の人見る目がないの?」
「なんでだろうなあ」
「もう、他人事だと思って……!」

 ぼんやりと返す黒尾に、はムッと?を膨らませる。わかりやすく機嫌を損ねた彼女に、黒尾はまあまあそう怒るな、と膨れた頬を軽く突いた。
 は溜まった鬱憤をひとしきり吐き出したおかげですっきりした様だった。そんな彼女の様子を確認して、黒尾は口を開く。
 
「それよりも。ちゃん、今何時だと思ってんの?」
「え、夜の11時……?」
「こんな時間に出歩いてるんじゃありません」

 ぴしゃりと黒尾が言うとはだって近所だし、と唇を尖らせる。悪気のカケラもないその憎たらしい?を摘むと、いひゃい! と舌の回らない声が上がった。
 
「近所だからとか関係ないっつーの。危ないだろ」
「大丈夫だよ。変な人いてもすぐ逃げるから!」

 変なところで自信満々の彼女に、今度は黒尾が頭を抱える番だった。
 はいつかの学祭で作ったクラスでお揃いのTシャツと、下はショートパンツ。焼けていない白い肌が曝け出されていた。いくら家同士が近いからと言って、こんな深夜に出かけるのは感心しない。あっけらかんとした彼女の態度に眉を顰める黒尾に気づいているのかいないのか、はへらへらとした態度で説教を受け流す。
 
「でも、」
「でもじゃねーの。話ならいつでも聞いてやるから今度から外出る前にまず連絡しろ」
「…………」
「返事は?」
「……はーい」

 たまたま家が近いというだけで、幼馴染として大半の時間を過ごしてきた黒尾とだった。
 気軽に研磨や黒尾の部屋に立ち入るのが幼い頃からの習慣で、それは高校生になった今でも続いている。ゲームの新しいタイトルが出れば、朝方近くまで研磨の部屋に入り浸りなんてのもよくあることだった。
 今回もまた然り、が黒尾の部屋で過ごすこともよくあることだ。年頃の女の子なんだから、と黒尾が言及すれば、お父さんみたいなこと言わないでよね、と笑って躱される。親父さんにも心配されてんじゃねーか、と黒尾は呆れてを見やった。
 彼女の認識の甘さに、黒尾の懼れの混じったため息を吐き出した。それは無情にも、彼女に届くことなく部屋の空気に溶けていく。
 当のはといえば、愚痴を全て吐き出してすっきりした様子でよし、と気合いの声をあげた。
 
「次こそいい男捕まえるから」
「おー、がんばって」
「鉄朗くんも、好きな子できたら相談のるからね!」
「おー。期待してるわ」
「それは期待してない顔!」
「してるしてる」
「ねえ、適当に返事してない?」

 じゃあできたらお願いします、との髪を撫でると、彼女はふっと目を細めた。
 今度こそ運命の相手を見つけるのだと、は息巻いた。
 
「星の数ほど男の人はいるのに、自分に合った人を見つけるのって難しいんだねえ……」

 ため息と同時に溢れたの言葉と、カチコチとアナログの時計の針が秒を刻む音がやけに大きく聞こえた。短針はまもなく0時を指そうとしている。
 いくら週末だといっても、さすがにこれ以上夜更かしを続けるのは良くないだろう。黒尾がそう言えば、はこのまま泊まっていっちゃダメ? などと首を傾げる。
 
「は?」
「だって、帰るのめんどくさい……」

 あっけらかんというがクッション取るために伸ばした腕を黒尾が掴む。
 
「ダメ。帰りなさい」
「ちぇ! けち!」
「けちで結構〜」
「こんな夜中に外を歩かせて風邪引いても知らないんだから!」

 べえ、と舌を出して文句をこぼすに黒尾ははいはい、と適当に受け流す。
 半ば無理やり手を引いて、の家の前まで連れて行く。ちょうど良く涼しい空気になった夏の深夜に、二人分のサンダルがペタペタと地面を蹴る音が響く。
 何気なく顔を上げると、夏の大三角形がちょうど見上げた先に位置取っていた。流れ星でもなんでもないのには手を合わせて、ちゃんとした彼氏ができますように、と繰り返した。
 それがおかしくて笑うと、は鉄朗くんの分はお願いしてあげないからね、とむっとする。
 
「そういえば、鉄朗くんの好きなタイプってどんな子なの?」
「ナイショ」
「えー」
「好きになった奴がタイプ」
「それじゃわかんないじゃん」
「わかんなくていいんだよ」

 納得のいかないような顔を浮かべるだったが、黒尾は適当にこの話を切り上げて彼女の姿が扉の奥に消えていくまで見送った。

 ??

 悲劇の失恋から数日。
 案外立ち直りの早かったは、次の恋人候補を見つけるべくクラスメイトである友人と作戦会議という名のコンビニ新作スイーツ選考会を開催していた。
 
「意外と近くにいる人が自分の運命の相手だったりするもんだよ」

 抹茶のムースを口に含んで、友人が言う。
 
「ええ〜、そうかな」
「いないの? そういう人」
「いないこともないけど……」

 が思い出すのは、幼馴染の二人だった。
 仲は良くとも研磨は友達、黒尾は良きお兄さんであり相談相手だ。はううんと唸る。
 
「その人たちのことは好きにならないの?」

 友人の言葉には目を丸めた。
 ――そんなこと、考えたこともなかった。
 はさらに小首を傾げる。小さなプラスチックのスプーンを口に運ぶ。有名なパティシエとコラボしたティラミスが、口の中で苦味と甘さが程よく混じり合って溶けていく。間に挟まれた生クリームも舌触りが良く、甘すぎないところが絶品だった。これが、今季の優勝スイーツになるかもしれないとは考えた。
 
「仮にだよ。その人がさ、彼女作ってもうとは会えません〜ってなったら、どう思う?」
「え、すっごいヤダ」
「なら好きなんじゃん?」
「……いやでも、それとこれは違う気がする」
「ふーん」

 用意していた全てのスイーツを完食したところで、ちょうど予鈴が鳴る。
 次の授業は念仏のような話し方をする先生が担当する現代文だ。ちょうど良く満たされたお腹の具合から、睡魔との苦闘となることが予測される。友人と分け合って口に入れたフリスクがつんと口の中を刺激した。


 放課後。友人との帰り際に体育館を横切ると、部活動の賑やかな声が聞こえてくる。キュッとワックスの効いた床を叩くスニーカーの音、軽やかに跳ねるボールの音が響く。無所属――所謂帰宅部のにとっては、憧れの青春の音だった。
 開かれた扉の隙間からちらりと覗き見てみると、すぐに二人の姿を見つけることができた。
 研磨と目が合って手を振ると、彼は近くにいた黒尾に声をかけた。
 そのままこちらを向いた黒尾と視線が合う。
 応援の意味も込めて、二人に向かって手を振ると友人が何やら意味ありげに声を漏らした。
 
「へえ。ふーん。ほーん」
「なにその声」
「どっちもいいじゃん」
「なんの話?」
「さっきの話」

 昼休みの、と付け加えられてはようやく合点がいった。
 
「先輩なんてすぐ彼女できそうじゃん」
「え、鉄朗くん?」
「もういるんじゃん?」

 は改めて幼馴染たちへ視線を戻す。
「私は孤爪くん派だな〜!」ふざけた調子で、コートの中で動き回る彼らを見て友人は言った。
 その後は、今度発売予定の新作のアイスクリームの話や芸能人のゴシップ話なんかをしていたと思うが、正直どれもあんまり覚えていなかった。
 幼馴染の二人に恋人がいるなんて考えたこともなかった。 
 研磨は昔からゲームばかりしているひきこもりタイプだったし、黒尾だってバレーをしているか研磨のゲームやに付き合って休みの日を過ごしたりしている様子だった。当たり前のように彼女など作る暇なんてないはず、と思っていた。
 友人の言葉が思考を占め、の胸の中で言いようのない感情が燻った。
 

 しばらくの間、は新しい彼氏を見つけるという目的を忘れていた。
 それ以外にすることといえば、こっそりと幼馴染二人の動向を観察することだった。
 研磨は相変わらず学校以外はゲームをするためにほとんど家にいたし、黒尾も変わらずだった。
 そんな二人の様子を見て彼女なんていないじゃん、とほっとする。しかし、それは今の話で今後はどうなるかはわからない。

「あ、研磨!」

 ある日の昼休み、廊下で幼馴染の姿を見つけて駆け寄った。
 今日の昼食はパンだという研磨と共に、も隣に並んで購買へ向かう。
 
「……ねえ、研磨って彼女いたりする?」
「は? なにいきなり。いないけど」

 ほっとするに、研磨が怪訝な視線を向ける。
 
「いや、幼馴染に彼女できたら寂しいなーって思って」
「ふーん」

 どうでもいいといった様子の研磨の態度は気にせず、ふんふんと鼻唄を口ずさみかけて、はハッとする。
 恋人がいないことを喜ぶなんて、なんて自分本位で器の小さい幼馴染だろうか。大好きな幼馴染に、好きな人ができるということはきっと幸せなことなんだろう。他人の幸せを素直に祝えない自分を恥じた。
 
「研磨に彼女ができたらちゃんとお祝いするからね」
「……別にしなくていいけど」
「ちゃんとケーキ買ってお祝いするから、報告してよね!」
「いや本当にいらないから」

 昼休み序盤の購買はさすがに混み合っていた。
 人の波をかき分けて、いくつかパンを買うことができた。何を買おうかなんて悠長に迷っていたら何も買えないことも少なくないのがこの激戦の地である。
 ある意味パン競争。激戦を終えた二人は戦利品を手にして教室に戻る途中、あるものを目にして思わず足を止めた。
「隠れて!」は研磨の手を引いてしゃがみ込む。
 黒尾と、見慣れない女子生徒だった。手から転がり落ちたアップルパイを気にしている暇などなかった。
 
「クロだ」
 の視線の先を見て、研磨が呟いた。
 しゃがみ込んだままの姿勢からが動こうとしないことに気づいて、研磨はを一瞥する。
「……、悪趣味だよ」
「だって、気になるじゃん」

 窓からこっそりと顏を出して、外の二人の様子を伺う。
 
「え、告白?」
「知らない。仲は良さそうだけど……」

 しゃがみ込む二人へ、廊下を歩く生徒たちの怪しげな視線が刺さる。しかし、そんなことは気にせず、は黒尾たちへ注目する。いわゆる告白現場というような雰囲気ではく、二人は比較的仲の良い関係に見えた。
 そんな二人の距離の近さには小さく眉を顰めた。
 自分だって、同じ距離感で黒尾と接する時はある。それが日常茶飯事だった。あの女子生徒と自分と何も変わりはないはずなのに、なにかに締め付けられるように胸が痛んだ。
 
「……あの二人、付き合ってると思う?」
「知らない。クロに聞けば?」
「聞いて彼女って言われたらどうするの?」
「ケーキ買っておめでとうって言えば?」

 ぎゅっとは研磨のシャツを握る。たぶん、無意識だった。
 
「ど、どうしよう」
「お祝いしてあげるんじゃないの」
「それは研磨の話じゃん」
「……へえ、クロは違うんだ?」

 その言葉に、は外に釘付けだった視線を研磨に向けた。
 
「ええと……」

 すぐに言葉が出なくて、が口籠る。
 今度は研磨がの手を引いた。
 
「戻らないと食べる時間なくなるから」
「う、うん」

 激戦を勝ち抜いて手にした昼食だったのに、全然味わって食べることができなかった。その中で一番楽しみにしていたはずのアップルパイも、落として形の崩れたままバッグの中に放り込まれた。

 *

 新作のアイスクリームを買うためにコンビニに寄った帰り、ちょうど家の近くの道で下校中の黒尾と鉢合わせした。
 いつも一緒であるはずの研磨はおらず、珍しく黒尾一人だった。
 
「あ……。お、おかえり」

 勝手に気まずい思いをして、は挨拶もそこそこに「じゃあね」と足を速めた。
 


 黒尾の声に足を止める。
 
「なんかあった?」
「なんもない」
 
 いつも通りの笑顔で答えたはずなのに、黒尾は神妙な表情を変えなかった。
 最近のの様子がおかしいから、と黒尾が言う。
 
「……何もおかしくないよ? アイス溶けるし、先行くね」

 今度こそは先に進もうとするが、黒尾に手を掴まれ止められる。
 
「……なに?」
「別に」
「じゃあ手離して」
「なんで?」

 は黒尾に視線を向けた。
 
「なんでって、おかしいじゃん。手繋いでるの……」

 ただの幼馴染なのに。
 自分で言って、自分で傷ついた。あの人にも触れていた。あの人が、彼女だったら。あの人と付き合うなら、これからもずっと彼女と手を繋いだり、きっと、それ以上のことだってするんだろう。
 顏を上げられないまま、ぐっと唇を噛んだ。
 
「……離して」
「ヤダ」

 夕方の空の色は刻々と変わり、紫がかった薄明がじっとりと暗くなっていく。近くの木々や建物が、空の色を染めたように色づいていた。
 
「……新しい彼氏できた?」
「できてないけど……」

 近くで烏の鳴く声が響く。陽も落ちかけているとは言え、まだ湿った空気がじとりと肌を撫でる。コンビニのビニール袋を持つ手に汗が滲んだ。
 
「今日の昼、研磨といたよな」

 沈黙を破って、黒尾が口を開く。
 
「見てたの?」
「なんかバタバタしてたのは見えた」

 廊下から覗き見していた時だ。覗いていたのを悟られたのかはわからないが、少なからず褒められた行動ではなかったためは恥ずかしくなって頬が熱くなる。
 
「……えーと、研磨とパン買いに行ってた」
「買えた?」
「買えた」
「すげーじゃん。あそこのパン美味いよな」

 どことなく流れていた気まずい空気を払拭するように、黒尾が笑う。いつも通りの空気に、はホッと息をついた。
 
「ねえ、鉄朗くん」
「ん?」
「……あの人と付き合うの?」
「は?」

 ややあって、の質問を理解した黒尾の口から知らない名前が出る。親しげに呟かれたその名前に、肩にかけたバッグの持ち手を握りしめた。
 
「やだ」

 親し気な二人の姿が思い出されて、昼間に感じたあの感情が再び湧き出してくる。こんなことを言いたいわけではなかったのに、口から出る言葉を止められなかった。
 
「……付き合っちゃやだ」

 弱弱しく黒尾のブレザーの裾を掴んで小さく呟かれたの言葉に、黒尾は目を見開いた。
 自分本位で器の小さい幼馴染だと思われたかもしれない。
 それでも、これがの本心だった。

「付き合ってない」
「え?」

 黒尾が言うと、はパッと顏を上げる。
 よかった、とわかりやすく安堵した様子を見せるに黒尾はため息を一つ溢した。

「……さ、それどういう意味で聞いてる?」
「どういう意味って?」

 は不思議そうに黒尾を見上げた。少しだけ思案したあと、口を開いた。

「ふつうに、鉄朗くんに彼女できたら嫌だなーって……」
「ふつう、ねえ」

 の返答に黒尾は目を細める。
 は先ほどのしおらしい様子から一変。アイスが溶けるだの早く帰ろうだの、いつも通りのに戻っていた。

「そういえば、お昼にアップルパイ買ったんだけどさ、」


 遮られるように呼ばれて、は黒尾を見る。
 その顏に、は身構える。長年の幼馴染の勘が働いたと言ってもいい。

「好きな子できたら相談に乗ってくれるって言ったよな?」
「言っ……あ、言いました……」

『鉄朗くんも、好きな子できたら相談のるからね!』
 あの夜、間違いなくそう言ったことをは覚えていた。
 好きな子ができたら、とは言ったのだ。それを今出してくるということは、黒尾に好きな子がいるのだとの思考は行き当たる。
 落ち着いていたはずの気持ちがさざ波立つように揺れた。

「……え、えーと。付き合ってはいないけど、これからあの人と付き合うってこと……?」

 恐る恐る尋ねたに、黒尾は頭を抱えて盛大にため息を落とす。

「あ〜……。ハイハイ、そっちにいくわけね……」

 呆れと諦めが入り混じったような様子で黒尾は嘆いた。
 あれだけ少女漫画という少女漫画を読み漁っていたくせに、自分のこととなるとどうやら彼女は鈍感な質のようだった。つまりは、黒尾の目算が甘かった。
 はそんな黒尾を困惑したように見つめるしかない。がしっと力強く黒尾の手が肩に乗る。黒尾は肺の空気をすべて吐き出すほどの大きな息をついて、そうしてようやく口を開いた。

は俺に彼女ができるのが嫌なわけでしょ?」
「う、うん……」
「じゃあ、が彼女になればいいんじゃないの」
「は!?」

 瞬間、の頭にぼっと湯が湧いたようになる。
 何を言っているんだと、は顏全体を茹でだこのように赤らめながら黒尾を凝視した。

「……好きじゃない?」
「す、好きだけど、その、付き合うとか……」

 もじもじと萎縮するは、視線を右往左往させた。黒尾の手が肩に触れているのを思い出して、そこだけ一層熱を持っているように錯覚する。
 彼女は作ってほしくないが、自分が彼女になるというとまた話は別だった。誰にも取られたくないのに、自分が黒尾の恋人をしている姿が想像できない。これも、長く幼馴染をしている弊害だろうか。
 のその考えを見透かしたように「別に今までと変わらないだろ」と黒尾がいう。

「全然違うよ!」

 慌ててが言うと、黒尾はおかしそうに鼻の奥で笑う。

「鉄朗くん、私のこと好きだったの……?」
「ええ、ハイ」
「えっ、なん、え……本当に?」
「そんなに疑うことある?」
「だって! だって、鉄朗くんのタイプと違うじゃん!」
「好きになったやつがタイプって言ったろ」
「……言ってた」

 好きになったやつがタイプだなんて、よくわからないと思っていた。の好きになる相手はおおよそ似たようなタイプであったし、それを黒尾にも今までずっと相談していたのだ。まさか、黒尾が自分を好きだったとは思いもよらなかった。
 そこでふと、はあることに疑問を覚える。

「いつから……?」
「忘れた」

 つまりは、忘れるほど前からということだ。
 黒尾は、の恋愛遍歴を一番に知る人物でもある。惚気も愚痴も、これまでの恋愛事情をすべて話していた相手が自分を好いていたなんて、には全く想像もつかなかった。そんな状況、自分だったら耐えられないな、とは黒尾に尊敬の念すら抱く。
 他人事のようにそんなことを考えていると、肩に置かれていた手がそっと頬を挟み込むように触れた。不意に、大きく胸が跳ねた。蜂蜜を煮詰めたように甘い視線を向けられていることに気づいたからだ。

「そ、そんな顏しないでよ!」
「どういう顏よ」

 初めて知る幼馴染の表情だった。知らない間、ずっとこんな風に自分を見る視線があったのだろうか。心臓が速く鳴り、目の前にいるのが長年幼馴染でいた人物だということが信じられなかった。

「いい?」
「な、なに」
「付き合うこと」
「え、と……」
の彼氏にしてくれない?」

 もう他の男の愚痴は十分なのよ、そう言って黒尾は苦笑を漏らす。
 口が上手く回らないまま、は頷いた。
 柔らかく細められた視線から逃げるように、顏を逸らす。

「だからそれ、恥ずかしい……」
「彼女は甘やかすタイプなんで」
「そ、そうですか……」

 幼馴染だったもだいぶ甘やかされていた方だったと思うのだが、これ以上甘やかされたらどうなってしまうのか。は一気に気恥ずかしくなって、黒尾の顏が見られなくなった。二人のつま先ばかりを見つめて、とにかく落ち着いて呼吸をすることに集中した。
 そんな様子を見て、黒尾はくつくつと笑う。
 なんだって鉄朗くんだけそんな余裕なんだ、とはどうしようもなくむずむずした。
 頬に触れていた手に促されて、再び黒尾と視線が合わせられる。

「わっ……!」

 ぐっと近づいた距離を、は思わず手で押し返す。
 「おい」と黒尾が眉を上げた。

「ちゅ、チューするんですか……?」
「しちゃダメ?」
「は、恥ずかしいじゃん!」

 が勢いよくそういうと、黒尾は訝し気にを見やった。

「いや、お前初めてでもねーだろ」
「そうだけど……」

 突然羞恥心が襲う。過去に恋人のいた身である。キスの一つや二つ、初めてでもないのに、黒尾が相手であると思うとなんだか妙に緊張してしまう。

「こっ、心の準備が……!」
「あと何分?」
「分!?」
「こちとら待ってた時間が年単位なのよ」
「…………」

 そう言われると、何も言えなくなってしまった。
 もう随分と前から熱湯で茹で上がる寸前のだったが、もうどうにでもなれと両の瞼を閉じた――。

「……ねえ、アイス溶けた」
「あとで買ってやるよ」

 熱く汗ばむ手を絡めた帰路の途中、はコンビニでアイスを購入していたことを思い出した。どろどろに溶けたアイスが、パッケージの隙間から零れてビニール袋の底に溜まりを作っていた。それを不満気に訴えると、黒尾は上機嫌に語尾を揺らした。
 
 *

「へえ、ようやく付き合ったんだ。遅かったね」

 ゲームのコントローラー片手に研磨が言う。
 長いこと待ちくたびれたというような言葉に、は目を丸くした。
 
「知ってたの!?」
「まあ、」
「私、鉄朗くんに彼氏の相談ばっかりしてたよ」
「そこはクロが大人だったよね、よかったね」
「鉄朗くんのことは誰に相談したらいいの」
「……本人に言えばいいんじゃない? いつも通り」
「別れたら?」
「……別れないでしょ」

 今からそんなこというと怒られるよ、と研磨は呆れた。
 
「今回はいい男捕まえたんじゃない?」

 よかったね、という研磨の笑みには照れ臭くなる。
 お祝いのケーキを持ってきた研磨にが歓声を上げるのは、それから数日後のことだった。
 

20220428