朦朧とする熱
 日本のじめじめとした猛烈な暑さに身体のだるさも最高潮に達していた頃、恵みの秋雨前線の到来で過ごしやすい気温まで下がったことを喜んでいたのもつかの間。
 連日続く雨に、涼しいを通り越して寒いと感じるほどだった。
 そんな中、変わらず真夏のノースリーブスタイル、次々と出てくるアイスクリームの新作を調子にのって食べていたら当然のように風邪を引いた。
 夏の雨をなめきっていたことは認めよう。夏風邪はバカが引くというのは否定したいところだけれど。
 埃をかぶっていた体温計を脇に挿むとみるみるうちに数字が上がっていった。こんなに熱が出るのは、子どもの頃以来かもしれない。
 朦朧とした頭でスマホを操作する。こういう時、文字を読むことすら辛いとは知らなかった。目的の人にメッセージを送ろうとして暗転する液晶画面。送信できたのかできなかったのか、それも確認できなかった。朝から理由もなく流していた動画がバッテリーを消費したらしい。スマホの充電コードが遙か遠くの床に転がっているのを見つけた。広くない部屋だから5歩もいけば届くのだけれど、今ではそれも難しかった。
 もういいや、とすぐに諦めてうんともすんとも言わなくなったスマホを枕元に放り投げた。
 眠っているのか、意識が朦朧としているだけなのかわからない状態でただ時間だけが過ぎていく。
 申し訳なさ程度に頭に乗せていた保冷剤はすっかり溶けきってしまっていた。
 しばらくすると、意識の遠いところでインターホンが鳴ったのが聞こえた。
 こんな時に誰だと疎ましく思っていると、訪問者は鍵を開けてずかずかと部屋に入り込んでくる。
 うつろに眠い頭で呟いた。
「うちにお金はないですよ〜……」
「……大丈夫か。
 聞き慣れた声に見上げると、そこにいたのは不審者でもなんでもない、焦凍くんだった。
「あ……」
 入力しかけの状態で送られたメッセージの画面を見せつけられる。へるぷ、とだけ書かれたそれを見て慌てて此処に向かってくれたらしい。
 焦凍くんといえば、出自や個性、そのルックスからデビュー当時からぐんぐんと人気を伸ばしているルーキーヒーローであり、地元の友人である。ついでに言えば、最近なんやかんやあって私たちは友人という関係からから恋人同士に変わった。とはいえ、友人関係が長かった私たちの関係は以前までとほとんど変わることはなかったのだけど。
「心配するだろ」
「あー……ごめん……」
 いつもと違う力ない声に、焦凍くんは眉根を寄せた。
「いい。それより、熱は? メシは食えてんのか?」
 ガサゴソと手元のビニール袋から取り出されたのは、スポーツドリンクやゼリー、パウチのお粥などなど。風邪引きにとっては最高の差し入れだった。
「これ巻いとけ。風邪に効く」
 次に焦凍くんが取り出したのは、長ネギだった。たまに出てくる彼の知恵袋的なものなのかもしれない。突っ込む気力もなく、差し出されたそれを受け取って枕元に置く。つんと独特の香りがした。
「……しょうとくん、氷作って」
 焦凍くんは小さな氷のかたまりを作って私の口に放り込む。それを口の中でコロコロと転がすとすぐに溶けていった。
 彼の右手が額に触れる。私よりも体温の低い手のひらも心地よかったけれど、すぐに触れられている手が冷えていく。
「熱高えな」
「久しぶりにこんなに熱出した」
 溜息まじりに言うと、氷でいくらか冷えたはずの息が異常に熱くて、身体の中でおかしなことが起こっていることを実感した。
「薬は?」
「…………」図星をつかれて押し黙る。
「……飲んでねえのか」
 焦凍くんの呆れた表情に、力なくへらりと笑う。
 そんなことだろうと思って、と焦凍くんが袋から出したのは解熱作用のある錠剤だった。さすが、用意がいい。
「飲めるか?」
「……飲ませてって言ったら飲ませてくれる?」
「…………」
 あ、と思った時には遅かった。薬のパッケージを開けようとした焦凍くんの手が止まる。身体どころか頭もおかしくなっていたかもしれない。じっと黙ってこちらを見つめる焦凍くんの視線に耐えかねて「冗談です〜」と、彼の手の中にある薬を箱ごと奪い取る。
「ね、ねえ。冗談だよ」
 あんまりにも黙り込んだままの焦凍くんの顏を覗きこんだ。
「焦凍くん? 怒った?」
「怒ってねえ」
 そう言うわりに、神妙な顏をしてこちらを見つめている。焦凍くんは口を開いて何かを言いかけたけれど、すぐにぐっと唇を引き結んだ。素早く立ち上がると、キッチンから水の入ったコップを持って戻ってくる。
「あ、はい」
 スッと差し出されたそれを受け取って大人しく薬とともに喉に流し込んだ。今後焦凍くんには冗談は止めておこう。
 私がしっかりと薬を飲み込んだことを確認して、焦凍くんの手が額に触れる。その冷たさが気持ち良くてふと目を閉じると、不意に近づいた彼を不思議に思う間もなく唇が触れた。それは一瞬ですぐに離れたけれど、柔らかな感覚だけはしっかりと残っていた。
「しょ、焦凍くん!」
「もう寝ろ」
 こんな状態で眠れるか! と声を荒げたけれど、焦凍くんは涼しい顏で額に触れたまま私を布団に押し戻した。そのまま布団に背中をシーツに沈めて、首のところまで布団を被せられた。
「風邪! 移る!」
「移らない」
「ヒーローが風邪引いたらどうすんの!」
「俺は引かねェ」
 煙が出そうなほど熱くなった顏を自覚して、喚く以外になかった。


#1週間で2個書き隊のお題より
20220330