愛は尊ばなければ
飛行機の到着を知らせるアナウンスが響いた。それが流れるたびに、いよいよ目当ての便名かと、はどこを見るでもなく顏をあげて耳を澄ます。
ここは日本国内だというのに、日本語の後に流れる英語のアナウンスや観光にやってきたらしい外国人の集団で交わされる会話が耳に入り、どこか異国感がある。いつになっても、ここへ来ると少し特別な気分になって心が浮きたてられた。
この非日常的な空気が流れる空港は、の好きな場所でもあった。
いくつかのアナウンスを聞き流し、ついに、待ちわびていた便が到着したとの知らせが入る。
早足で到着口で向かう。
少し待っていると、スーツケースを転がした乗客たちがちらほらと出てくる。同じく出迎えに来たであろう人たちの隙間から、彼の姿を探した。
飛行機が到着したとはいえ、そこから存外時間がかかるということは、今のの頭の中からはすっかり消え去っていた。
飛行機を降りるまでも乗客の長い列を待った気がするし、ロビーまでの長い廊下を歩いて、そこからコンベアーに流れてくる荷物を待たなければいけなかったり。時間にすれば三十分もないはずなのだが、彼に会いたいという気持ちで急いているにとっては、この間がとても長く感じられた。
その時、見慣れた姿を見つけて、思わず身体が跳ねた。
「徹くん!」
は声を張った。
大きく手を振るに、及川はすぐに気がついた。かけていたサングラスを外して見えた及川の馴染みのある爽やかな笑みに、は思わずほっとと息をついた。
「お迎えありがとう。ただいま」
「お、おかえり!」
短くなった髪。前よりも少し背が伸びただろうか、たくましい体つきに過ぎた月日と彼の成長を思わせた。日に焼けた褐色の肌も、存外彼によく馴染んでいる。
大きなスーツケースとこれまた大きなバッグを脇に抱えている及川に、はハッとする。
「荷物! 持つよ!」
が手を伸ばすと、及川はそれをひょいっと高くに持ち上げてしまう。
それならばスーツケースだ、と今度は標的を変えて手を伸ばしてみても、それも後ろへ追いやられてしまった。
「いいの。荷物持ちに呼んだわけじゃないんだから」
「でも、疲れてるのに」
「たくさん寝たから大丈夫」
「……そう?」
腑に落ちないだったが、きっとここで食い下がっても、彼も譲らないだろう。
近くで、同じようなカップルが抱き合っているのが見えた。日本にやってきた彼女だろうか、出迎えた男性がしっかと抱き止めている。
思わず感嘆の声が漏れた。
人目なんか気にせず、彼も彼女もお互いしか視界に入っていないかのように再会を喜んでいる。
以外にも、彼らに視線を送る人たちがいた。
「」
及川の声に、は慌てて視線を戻す。
好奇心で彼らを注目してしまっていた自分が恥ずかしくて、しばらく視線を彷徨わせてから及川に向き直った。
にこりと及川は口元を綻ばせる。悪戯っ子のような視線が交わった。
「やる?」
「な、なにを?」
なんとなく彼の言わんとしていることは察したが、は思わず聞き返す。耳の端からじわじわと熱が篭っていくのを感じた。
「再会のハグ」
「しないよ!」
「えー」
の返事など、最初から聞く気なんてなかったのかもしれない。
及川はえいっ、とすっかり頬まで赤く染めたを抱き込んだ。
「徹くん……!」
恥ずかしい、と小さく呟いたの声は聞こえないふりをして、及川はグッと腕に力を込める。
「わ!」
慌てるに及川は「よしよし」とまるで暴れる猫を落ち着かせるかのように頭を撫でる。
観念して、はおずおずと彼の背に手を回す。
「久しぶりだね、本当に」及川の声と、耳元で響く彼の拍動がの瞼を熱くさせる。
「……うん。会いたかった」
先程のカップルの気持ちがわかった気がする。
すぐに会える距離ではない。もう何ヶ月も、何年も会えていなかったのだ。遠く離れた彼を思って、何度枕を濡らしたかわからない。
周りの人なんて関係ない。
ただ少しでも早く、彼に触れたかった。
すんと鼻を啜ると、異国特有の甘い香りがした。
「おい、及川!」
背後から聞こえた声に、肩を揺らす。
「あ、岩ちゃん。久しぶり〜」
及川の腕の中から抜け出そうと慌てるをよそに、彼はそのまま声の主に笑顔を向けた。
「人のこと足に使っておいてイチャついてんじゃねえよ」
溜息混じりの岩泉に、はもう一度及川の胸を押す。パッと手を挙げた及川から脱兎の如く抜け出した。
他人に見られていたということを認識してしまうと、途端に羞恥が最高潮を達し、火をつけたように顔が熱くのを感じた。及川の影に隠れるようにして身を潜ませるが、残念ながら現場はしっかりと押さえられているためほとんど無意味な行為だった。
「わざわざ悪いね〜」
「本当にな。まあ、ちょうどオフだったし構わねーけど」
の記憶では、岩泉も大学在学中に海外へ行ったと聞いていた。二人とも世界を相手取って戦うという経歴を持っており、一端の会社員のにとっては二人とも雲の上の存在になるはずなのだが、揃ってみるといつかの地元の情景を思い出させた。
「……久しぶり。岩泉くん」
「おう」
及川の影から顔を出し、恐る恐る声をかける。こんな再会の場に少々気恥ずかしい思いをしながらは岩泉に会釈する。
数年ぶりに再会する同級生が自分を認識しているかどうかは怪しいところではあったが、どうやら岩泉はを覚えているようだった。
「行くぞバカップル」
そう言って先を促す岩泉にはさらに熱を沸かす。その様子を楽しげに笑みを深める及川に肘鉄をお見舞いしてみるが、鍛えられた身体には大したダメージにはならず「イチャついてんなよ……」とさらに岩泉を呆れさせるだけだった。
岩泉の運転する車で街へ向かう間、会話のほとんどは及川と岩泉のバレーボール談義が占めていた。
弾む会話を聞きながら、窓の外を眺める。テレビで観る名前がぽんぽんと出てきて、また二人の凄さを感じ入る。見目は明らかに大人になっているのに、こうして二人を見ていると、あの頃のそのままの二人がそこにいるようだった。
及川は日本滞在中の数日間、の家で過ごすことになっている。ホテルを取ると言われたが、がせっかくだからと押し切ったのだった。
長い帰国といっても、離れている間を思えば短い期間である。
少ししたらまた何時間もの時差と距離が二人を阻む。にはたった数日でも惜しかった。
「……ヒモじゃねえか」
「コラ! 岩ちゃん、何てこと言うの!」
慌てて否定する及川と、怪訝な顏を隠しもしない岩泉には笑いをこらえきれず息を洩らした。
「もう。も否定してよ」
の自宅の前で停車する。
荷物を下ろし終えると、及川と岩泉は向き合って視線を交えた。
「次は負けねえ」
「はは。次もぜってー倒す」
そう言って二人は笑い合った。
「ただいま」と二人で部屋に入るのは、なんだか胸がむず痒かった。
見慣れた自分の部屋であるはずなのに、及川の存在が大きくていつもの部屋とは異なって狭く感じた。
今日のために準備した和食中心の食事を摂りながら、及川の向こうでの生活の様子を聞く。それだけでも新鮮で楽しくて、向こうでの彼の様子を想像した。話の中で、変わらない彼の姿にもほっとする。
「いつか、私も遊びに行きたいな」
「来なよ。案内する」
良く焼けた肌の隙間から白い歯が覗く。
高校を卒業後、師を追って単身でアルゼンチンに渡った及川だったが、バレーを通してチームメイトたちにも恵まれて、向こうの暮らしを存分に楽しんでいるようだった。
「あのさ、徹くん」
「うん?」
「……きれいなお姉さんに言い寄られてないですか?」
の胸の中で、ずっとわだかまっていたことだった。
及川はほんの少しだけ目を丸めたあと、に笑みを向けた。
「言い寄られても可愛いガールフレンドいるって断るよ」
「あ、あるんだ……」
及川の言葉には「やっぱり……!」と唇を震わせる。
国籍は違っても、現地人とも見紛う体格の良さだ。宮城での学生時代の彼は異性からの注目のまとだった。その及川の人気は、国を跨いだ今も健在らしい。
「……は?」
一人密かに感傷に浸るに、今度は及川が尋ねた。
「誰かに言い寄られたりしてない?」
「ないよ。あるわけない」
「あるわけなくはないでしょ」
及川の視線にはうっと息詰まる。自ら異性と交流の場に出向くことはないが、社会に出て何かの拍子に好意を向けられることがないわけではなかった。
それも全部お見通しと言わんばかりに及川の視線が向けられる。
「あっても、ちゃんと彼氏いるって断ってるよ!」
「うん、いい子だね」
当然のことなのに、及川はよくできましたとの頭を撫でる。恋人が遠くにいる間に、ふらふらとよそに懸想していると思われるのは心外だ。
決して、そんなことはしないのに。
の心情を悟ってか、及川は「ああ、違うからね」と慌てて否定する。
「のそばにいないから、虫よけもできないじゃん」悔しそうにそう息を吐いた。
そう広くもない一人暮らしの部屋に見合わないクイーンサイズのベッドはいつか帰ってくる及川のために、とが買い直したものだった。計算違いだったのは、この部屋を圧迫している大きなベッドでも、及川と二人では窮屈かもしれないということだった。
一人でベッドに寝転んでいると、やがて及川が寝室に入ってきて湯上りの身体をの隣へすべり込ませた。
今日のほとんどを及川と過ごしたにも関わらず、には未だ実感が湧いていなかった。
地球のほぼ反対側に位置するところに居住する彼が、今まさにの隣で彼女が用意した寝間着を着て伸びをしている。
夢かなんかだと勘違いするくらい、非現実的な時間に思えた。
一人で表情豊かに百面相するを、及川が呼ぶ。
「おいで」
その声に、は身を寄せた。
彼の胸に潜り込んで、同じシャンプーの香りがすると、はそれにひどく安心した。
するりと、及川の手が両頬に触れた。そのまま促されて顔を上げる。
「緊張してる?」
「……してるかもしれない」
薄暗い部屋の中で、亜麻色の虹彩がを捉えていた。
どくどくと波打つ心臓がやけにうるさい。お互いの身体が火照っているのは、湯上りのせいだけではないようだった。
羨むほど長く伸びた睫毛を揺らして、及川は目を細めた。
「、綺麗になったね」
「……すっぴんでも?」
「うん」
海外で目の肥えた及川の言葉は信じられないと目を丸めたに、彼はしみじみと頷いた。
「俺の見てないところで大人にならないでよ」溜息と笑い混じりの声が呟いた。
「それは徹くんだよ」とは言いたいのをこらえて、じっと及川を見つめる。
高校生の頃、及川は卒業後に海外行きを決めた。当時すでに男女の付き合いがあったにすら何も相談もなく、彼は決断した。に行くなとも行かないでとも言わせる隙を与えなかった。別れを覚悟して、来るべき時が来るまでと交際を続けていたが、ついに彼から別れを切り出されることはなかった。
ずるい、と思った。
が目先の進路のことで悩んでいる間に、彼はもっと先のことを考え決めていたのだ。連れて行ってと言う勇気もなければ、ついていくという覚悟もなかった。当時の自分の悩みなんかがひどくちっぽけなもののように思えてならなかった。
彼の方が、とっくの昔に大人になっていたのに。
奥歯を噛んで、及川の服をぎゅっと握りしめる。
「ねえ、」及川の薄い唇がの名を紡ぐ。
「このまま連れて帰りたいんだけど」
わざとらしく大きく吐き出された息とともに、及川が呟いた。
「……それ、冗談?」
「まさか、本気だよ」
は目を閉じて、及川の背中に腕を回す。
それが合図だと言わんばかりに、お互いの距離がさらに近づく。どちらともわからない熱を帯びた吐息が部屋に満ちる。離れていた時間と距離を埋めようと、必死になってお互いを求め続けた。
朝方、話し声に目を覚ます。重い瞼を擦りながら様子を伺うと、スマートフォンに向かって聴き慣れない言葉を話す及川の声だった。
邪魔をしないように、と寝室の扉を閉めようとしたが、の姿に気づいた及川が手招きをする。
側に寄ると、突然及川に腰を引かれては驚いて声をあげた。
「えっ」
画面の向こうにいるのは、アルゼンチンでのチームメイトたちだろうか。今、あちら側は夜らしい。
及川に寄って画面に映り込んだを見て、賑やかな口笛と拍手が上がる。
「えと、ハロー……?」
手を振ると、各々がに向かって声をかける。笑顔を向けるしかできずに、は及川に助けを求める。
「俺の可愛い可愛いガールフレンドって紹介した」
「私、寝起きなんだけど……」
「寝起きでも可愛いから大丈夫」
笑顔で言い切った及川に疑りの目を向けると、彼は笑っての髪を撫でた。
「……顔洗ってくる」
「うん。コーヒー飲むよね?」
それに頷いて、洗面所に向かう。
の思う以上に、現地の言葉が馴染んでいた。そういう時、及川との距離を強く感じる。
ため息交じりに鏡を覗き見て、及川の言うことは信じてはいけないと肩を落とす。寝起きの顔は浮腫んでいるし、髪も寝癖でぴょんぴょん好き勝手に跳ねていた。
寝起きでぐちゃぐちゃの状態を必死で直してからリビングへ戻ると、が戻ってきたことを確認した及川は相手に軽い挨拶を告げて通話を切った。
「まだ話してても良かったのに」
「大丈夫。彼らとはまたいつでも話せるんだから。今はとの時間が最優先」
いつの間にかテーブルに並んだコーヒーと、バターをたっぷり塗ったトーストとカットされたフルーツ。洋テイストな朝食は及川が用意したものだ。
さくさくと香ばしいトーストに齧りついていると、及川からの視線に気づき口元についたトーストの食べカスを慌てて拭う。
及川は慈しむような視線を向けながら言った。
「、昨日の話覚えてる?」
「昨日の……」
及川が帰ってきてからの様々なことが脳内を駆け巡る。その中でふと、昨晩の情事を思い出して一人で頬を熱くさせた。そんな考えを払拭するように頭を振って考え込んでいると、及川が先に口を開いた。
「ついてきてよ」
「え?」
「遊びじゃなくてさ。向こうで、と一緒に暮らしたい」
理解が遅れて手を止めたままのと反対に、及川は落ち着いた様子でコーヒーを口に含む。
「じょ、冗談かと思ってた……」
「本気って言ったじゃん」
言い淀むに、及川は不貞腐れた顏をする。
「もこっちでの仕事とか生活もあるだろうし、返事は急がないけど」
思考が渋滞して、は相変わらず動きを止めたまま及川を見つめていた。
「……無茶言うなあ……」
「うん、俺のわがまま」
及川は、にっこりとここ一番の笑顔を見せた。
ずるいな、とは思う。
それでも、そういう彼に惹かれてここまで一緒にいることを決めたのだった。子どもだった時とは違う。及川の問いへの答えは、あの頃からずっと決まっている。
「……スペイン語の参考書買わなきゃ」
小さな溜息混じりで溢されたの言葉に、及川は目を瞬かせた。
「徹くんが先生になってくれる?」
の思考を理解して、「もちろん」と及川は強く頷いた。テーブル越しにの額に唇を寄せる。の目に映るのは、深い慈しみに満ちた瞳だった。
「コーヒーおかわりいる?」
マグカップを手にして、鼻唄混じりに及川は立ち上がる。異国感のあるメロディーにはくすっと笑みがこぼれた。
リズミカルな小さな鼻唄をバックミュージックにして、は少しだけ冷めて固くなったトーストを齧りながら残った有給の数を考えていた。
20210906