とある愛の一節
 私の彼氏は忙しい。
 今日だって随分前から約束をしていたのに、講義だレポートだといって帰りが遅くなるらしい。
 せっかく白布くんの家に遊びに来たのにと残念がっていても、彼の大事なお勉強のためだ。仕方がない。
 家主のいない間に冷蔵庫を開けるのはどうかと思ったけれど、きっと白布くんなら許してくれるだろう。たぶん。
 一人暮らしにしては大きいタイプの冷蔵庫を開けてみると、ちゃんと野菜もあるし冷凍したお肉もある。キッチンも小綺麗に片づけられていて、調味料も一通り揃っている。
 疲れて帰ってくるであろう彼のために、大して上手くもない料理の腕を振るうことにした。可愛い彼女の手料理に、きっと彼は泣いて喜ぶに違いない。たぶん。いや、泣きはしないだろうけど。
 夜の八時を越えて、ようやく家主が帰ってきた。
 先に家にいることは伝えているため、インターホンが鳴らされる。小走りで玄関へ向かい、用意していたセリフで出迎える。
「賢ちゃん、おかえり! お風呂にする? ご飯にする? それとも〜〜?」
「ご飯」
「ねえ、即答」
 渾身の可愛い声を作って玄関まで出迎えたと言うのに、彼は私なんかには目も触れずリビングへ足を進めた。
 ご飯かお風呂か、それとも私――なんていうのは冗談だとして、せっかくご飯も作って、お風呂もいつでも準備万端にしておいたのになんとも塩対応である。
「つまんないの……」
「てか何それ」
「新婚ごっこ」
「へえ」
 明らかに興味がないといった様子の白布くんに、シュンとなる。
選んだら何してくれんの?」
「え?」
 不敵に笑う白布くんに、胸が鳴る。
「え、えっと……」
 何と言われると、どうしたらいいのかわからなくなる。
 狼狽えて口籠っていると、白布くんの手が頬に触れた。触れたところからじわじわと熱が広がって、耳の端まで熱くなるのを感じた。
「あの、しらぶくん……」
 じっと見つめられて、石になったように動けなくなる。これは、もしかして――。
「なんて顔してんの」
「え!」
 どんな顔をしていたかなんて自分ではわからないけれど、慌てて隠すように俯いた。
 下から覗き込むように、白布くんが名前を呼ぶ。視線が合って、白布くんの整った顔が近い。彼の薄い唇が円を描く。
「……期待した?」
「そ、そういう流れかと……」
がそういう流れにしようとしてた」
「えっ、私?」
 白布くんは私の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ずるくない?」
 私が言うと彼はもう知らないとばかりに、そそくさとキッチンに入っていく。
「絶対白布くんだった!」
 ラップをしていたおかずをテーブルに並べながら、白布くんを追いかける。まだ頬が熱い。
が自分で言ったんだろ」
「でも選ばなかったじゃん」
「腹減ってたから」
 冷蔵庫から麦茶のポットを出して、二つのグラスに注ぐ。氷がからんと茶色の中で揺れた。
「次からはもう三択にしないから」
「ふーん」
「ご飯かお風呂かの二択しか選べないからね!」
「最高じゃん」
 グッと言い淀んで、麦茶を喉に流し込む。よく冷えたそれが内側から身体を冷やして心地よかった。
 新婚ごっこのあの決まり文句においては、三番目の選択肢があってこそだというのに。
 もう二度と言ってやるもんかと思ったけれど、いただきますをして、おかずに箸をつけた白布くんが「のご飯美味いわ」なんて言うものだからもうどうでもよくなってしまった。
「愛こもってるんで!」
「ふーん」
 ばくばくと箸が進み、たくさん作ったはずのおかずはすぐに空になった。
「愛感じた?」
「すげー感じた」
 空になったお皿を片付けながら白布くんが言う。適当に言っている感じも否めないけれど、まあ満足。
 二人分のお皿を洗い終えて、白布くんはリビングのソファーに腰を下ろす。
「レポートやる?」
「うん」
 私は横で邪魔にならないようにクッションにもたれ掛かって、スマホのゲームを起動する。
 学校の忙しい白布くんとはお家デートが多くなる。お家デートと言っても、白布くんがレポートをしている横で一人でスマホゲームをしたり映画を観て過ごしていたりするだけで、デートらしいデートとは言えないのだけれど。
 こういう二人でいる時間も悪くないはず。きっと白布くんもそう思っている。たぶん。
 ゲーム中、難しい盤面に当たり操作に苦戦していると、カタカタと軽快に鳴っていたキーボードの音が止まる。
 横目で確認すると、白布くんがこちらを凝視しているのが見えた。
「なに?」
、穴開けた?」
「穴?」
「耳」
 白布くんの視線が顔の縁に向けられていた。
「あ、ピアスね。ついに開けちゃった〜」
 開けたてほやほや。耳についているものはファーストピアスで、シンプルな石付きのものだった。
 「ふーん」と面白くなさそうに白布くんが耳たぶに触れた。
「キャ! えっち!」
「うるせえ」
「ひどい」
 ふざけた調子で言うと、いつものように突っぱねられる。耳たぶを挟むようにしてくにくにと撫でられるのがくすぐったくて目を細める。
「痛くねえの」
「痛かったけど慣れたかな。ピアス付けたい欲が勝った」
「ふーん」
「耳開けるの嫌だった?」
「別に」
「言わなかったから怒った?」
「別に怒ってはねーけど」
 白布くんは珍しく歯切れが悪く、自身の前髪に触れた。
「あ、白布くんも開ける? やってあげようか?」
「耳以外に穴開きそうだからいい」
「そんなことないよ!」
 たしかに自分の耳は見えづらくて、完璧に開けられたとは言い難いけれども。
 今回は自分で市販のものを買ったけれど、ピアスは病院でも開けてもらえると聞いたことがある。
「次開ける時は白布先生開けてもらおうっと」
「は? まだ開ける気?」
 ピアスは皮膚科か、それとも耳鼻科? と頭を悩ましていると、白布くんは呆れたように眉を顰めた。
 お医者さんになる白布くんが何の専門の先生になるかはまだわからないけれど、きっと何科に行っても優秀な先生になるだろう。
 担当が白布くんだったら仮病使ってでも病院に通いたくなるだろうね、と白布くんに言ったら、迷惑だから普通にやめろと怒られた。私がするなんて言ってないのに、やりかねないとまで言われてしまった。
「穴固定したら、これから白布くんにもらう予定のピアスつけるね」
「……おねだり下手かよ」
「白布くんからのプレゼント、肌身離さず身につけていたいな……!」
「……まあ、気が向いたら」
「やったー!」
 ピアスを開ける時に、いくつか欲しいものを見繕っていたのだ。スマホに保存してある画像をスライドさせながら白布くんに見せると、彼はげんなりした様子で息を吐く。
 これはどこどこのブランドの限定品で、と話を続ける私にお構いなく、白布くんは耳たぶを挟んで遊ぶ。
 ピアスの周りをなぞるようにして指先が触れる。それが、たまに弱いところを刺激して背筋がぞくぞくと震えた。
「……あの、白布くん」
「なに」
「触り方が、やらしいんですが……」
「やらしくしてるんだけど」
 やらしくされてしまったらしい。
 降参だ。にやり、と不敵に笑った白布くんに完敗した。
 白布くんの唇が耳たぶに触れた。
「ぎゃ!」
「消毒」
「……今ツバで消毒ってしないんだよ」
「知ってる」
 舌でなぞられるたび、ファーストピアスが擦れて、鈍く痛んだ。
「……もしかして、そういう流れにしようとしてます?」
「そういう流れにしようとしてますね」
「お、お風呂は!?」
「あとでいい」
 スマホの画面は長いこと操作をしていなかったせいで真っ黒になっていた。
 もう今が何時でもいいか。
 流れに身を任せようと、白布くんの背に腕を回した。
 その時だった。
「あ、悪い」
 まさか、とスマホの着信画面を見るとそこには見慣れた名前が表示されていた。
「教授、恨む!」
「仕方ねえだろ」
 何度目かわからない。教授からの呼び出しでデートを中断させられたことは、過去に何度も経験がある。
 彼に会ったことはないけれど、私の中では悪の研究者のイメージが出来上がっている。大学内外問わず凄い人だというけれど、私には白布くんを奪う敵でしかない。
 教授に嫉妬心と対抗心をを燃やしていると、出かける準備をした白布くんにさらっと頭を撫でられる。
「いい子にして待ってろよ」
 
 白布くんが出かけてしばらく、不貞腐れていると彼からのメッセージが届いた。
『日付変わる前には帰れそう』
『早かったね。すぐお風呂入る? 準備しておくね』
『いや、で』
 このあと、ご希望通りの一択を準備してそわそわと彼の帰りを待つのだった。

20210817