ロマンティックでなるものか
 カーテンの隙間から差し込む陽が眩しくて目を細める。
 夏を目前にした朝は、いつもの目覚めの時間にはもうすっかり陽が高くなっていた。
 肌触りの良いコットンのタオルケットを隅に寄せて、目を擦りながら起き上がる。
「おはよう」
「…………おはよう?」
 聞こえるはずのない声に、ぼやけていた思考が覚醒する。
 一人暮らしの家で聞こえるこれは、一体誰の声だというのだ。
 不審に思って辺りを見渡す。寝室とリビングを繋ぐ扉の隙間から覗く顏に、私は声にならない声を上げた。
「早く起きないと遅刻するぞ」
「え、何でいるんですか?」
「は? 何を言ってる」
 反射で出た言葉に彼は怪訝そうに眉を顰めた。
 いくつものハテナを宙に浮かべて、私は狼狽えた。
 鬼をも恐れる上司――降谷さんは、そんな私の様子なんて気にせず、二つのコーヒーマグを手に持ってつかつかと寝室に入ってくる。そうして当然のような流れでベッドの脇に腰を掛けた。片方のマグ渡されて、呆然としてそれを見やると「君のはミルク入りだろう」と言う。
 確かにコーヒーはミルク派だが、そんなことを降谷さんに話した覚えはなかった。そもそも、彼がここにいることがおかしいのに、彼は極自然に私の横でブラックコーヒーを口に含んだ。
 渡されたカップを持ったまま、混乱してしばらく何も言えない私に、降谷さんの手が伸びる。
「まだ寝ぼけてる?」
「い、いえ……」
 いつもと違う柔らかな彼の目に、なんだか視線がそわそわと泳いでしまう。
 苦し紛れにマグに口をつけると、ほろ苦いコーヒーの味が起き抜けの頭に沁みた。降谷さんの淹れたコーヒーとミルクは完璧な配分だった。
 ちょうど良い温かさにほっと一息つくと、不意に降谷さんの手が私の髪を梳いた。
 ハッとして顏を上げる。
「えっ」
「はは。君、寝癖がすごいな」
 頬にかかった髪を、降谷さんの指が拾って耳にかける。
 いつも口を開けばお説教を垂れてばかりだったはずの上司の瞳には、混乱を極めた私の顏が移っている。まるで大切なものでも慈しむようなその瞳に、ますますわけがわからなくなった。
「あの、なんで降谷さんがここに……」
 おずおずと尋ねると、降谷さんは目を丸めた。
「僕が恋人の家にいちゃいけないのか」
「こ、こいびと?」
「うん?」
「降谷さんが?! 恋人!?」
「やっぱり、まだ寝ぼけてるのか」
 うんうん唸っている私に、降谷さんの手が優しく触れる。
 見慣れない彼の姿に、思わず目を逸らす。それを許すまじと頬に触れた手に促されて顔を上げると、目を細めた降谷さんと視線が合う。
 近い距離が恥ずかしくて、唇が微かに震えた。
「かわいい」
「…………」
 これはいけない。
 頭の中で警報が鳴る。もともと顔の良さは認めていたが、想像以上に危ない。
 こんなことはあり得ないのに、一瞬、まあいいかと流されそうになった。危険すぎる。
 仮に、今私たちが恋人同士だったとして、これを直視するのは目に毒だ。綺麗すぎるものは毒にもなる。それを身をもって実感した瞬間だった。
 降谷さんと恋仲になるということは常に死の淵に立つということなのでは……と見知らぬ彼の恋人の心労を察した。
 触れたところから熱が篭る。降谷さん距離が近づいて、ハッとなる。
「ダ、ダメ!」
 お互いの息がかかりそうなほどの至近距離で大声を出したせいか、降谷さんは驚いて動きを止めた。
「……何が」
「近すぎます!」
「何を今更……」
 わけがわからないと怪訝な顏でこちらを見る降谷さんに、その顏をそっくりそのまま返したい。
 この降谷さん(仮)は、どうやら私たちが恋人だと思い込んでいるようだが、私の知っている降谷さんは私にこんなに甘くない。
 現場では詰めが甘いのだとかデスクでは書類の不備がどうたらこうたらと時や場所を問わず顔を合わせば説教を垂れていたあの降谷さんと同一人物だなんて。何か変な呪いにでもかかっているか、私が狐かなんかに化かされているに違いない。
 そう言うと、彼は盛大にため息を吐いた。
「アホか君は」
 近い距離がさらに縮まって、降谷さんの額とくっついた。
「な、」
「熱はないか……」
「わ、私は正気ですよ!」
 まじまじと降谷さんが私を見る。負けじと降谷さんを睨み上げた。
 顔の良さに怖気付きそうになるが、負けてはいられない。降谷さんとは上司と部下。仕事で説教を垂れるばかりの彼が、私を好きなんてあるはずがない。
「降谷さんと付き合ってるなんてあり得ないです! 降谷さんが私のことを好きだなんて、信じられないです! 降谷さんこそ――」
 どうかしちゃったんじゃないですか。そう続くはずだった言葉が、口を出なかった。
「へえ……」
 しまった、と思った時には遅かった。
 背筋にぞわりと戦慄が走る。
 私が仕事でとんでもないミスをした時も、彼はこういった目で私を見る。
 きっと言ってはいけないことを言ったのだと気づいた頃には、降谷さんにがっしりと肩を掴まれていた。
 顔のいい人間が怒る時というのは、何故かもの言えぬ恐ろしさがある。にこりとした、お手本のような笑顔が心底恐ろしい。
「これで目が覚めるといいな」
「あ、あの……、降谷さん……?」
 ぐっと引き寄せられて、その次に感じたのは首筋の鋭い痛みだった。



「――はっ!!」
 じめじめとした空気に、湿気を含んだシャツの生地が素肌に張り付く不快感。額には、薄らと汗が滲んでいた。
 空調は効かせていても、国家の施設だということで節制のため冷房の意味はほとんどないような風が流れるばかりだった。
 パソコンのキーボードを打ち込む音、書類の紙束の音、遠くで響く電話の呼び出し音。
 馴染んだ光景にホッと胸を撫で下ろす。
 なんとなしに首に触れる。痛みもなければ傷痕があるということもない。
 やっぱりあれは夢だったんだと言う安堵感から、胸の奥に溜まるありったけの息を吐き出した。
 なんだってあんな夢を。こっそりとスマホで調べると、『異性が夢に出てきた場合、新しい恋の到来を予感することができます』とかそんなことが書かれていた。そんな馬鹿な。
「――おい、
「はい!」
 突然、背中越しにかけられた声に、反射的に立ち上がる。
 うつ伏せて眠っていたせいで、手元の資料がしわくちゃになっている。慌てて別のファイルを上に置いてそれを隠そうとしてみるが、観察眼の鋭い上司相手には無駄な行為だったようだ。
「報告書は?」
「い、今やってるところでして……」
「ホー……」
 降谷さんはわざとらしく荒れたデスクを一瞥する。
 たらりと背筋を汗が流れる。降谷さんの背後から、諦めろと言わんばかりに同僚が肩を竦めた。
 降谷さんは山になっているファイルの上に、さらに新しい資料の束を置いた。
「な、なんでしょう? これは……」
「居眠りしている余裕があるんだ。これだけ増えても君なら余裕だよな?」
 にっこりと人好きのする笑顔で言う。顏は良いせいで、余計に強く圧を感じる。既視感のある笑顔に、じくりと有りもしない肩の傷が痛んだ気がした。
 有無を言わせない彼の様子に私はただ頭を縦に振る。
 労基、労基を呼べー! と心の中で叫び続けていてもなんの意味もない。
 悪夢から悪夢へ。
 それからはひたすらデスクに向かって書類の山を片付けていった。
 今やなんでもデジタルの時代。パソコン上で欲しい情報がパッと得られる時代に、一枚一枚紙の束を処理しながら時代錯誤を感じる。
 公務員は安定した収入、余裕の定時帰宅、なんて思っていたのはこの仕事を始める前の何も知らない頃の自分だ。
 窓の外は、いつの間にか暗転していた。
 かちこちに凝った肩を解すために、背筋をぐっと引き伸ばす。血液が一気に流れ出すのを感じた。同時にぎゅっと目を瞑ると、多数の文字に疲れた目の奥がじんとなる。
 せっせと書類を捌いても、デスクには未確認のファイルの山がまだ高く聳え立つ。
 人の声が混ざり合っていたフロアも、定時を超えれば少しずつ人の影が少なくなっていく。
 秒針の音がやけに大きく聞こえた。
「無理……ギブ……」
 デスクに突っ伏すと、お先に、と席を立つ同僚の頭の先が見えた。
 終業時刻はとっくに超えた。
 深く大きなため息がひとけのなくなったフロアに静かに響いた。

 廊下を進んだ先の開けたフロアが小さな休憩所になっている。
 誰もいないのを良いことに、倒れるようにソファーに沈んだ。窓から覗く向かいのビルの灯りに仲間意識が芽生える。
 はあ。
 何度目か忘れた溜息が漏れる。
 このまま目を閉じて眠ってしまおうか。戻って仕事を終わらせなければいけないのに、重い瞼に抗えない。ああ、でもこれ以上遅くなっては明日に響く。
 葛藤を繰り返して、もういいかと半ば諦めかけた時、ふと耳が捉えた足音に、慌てて起き上がって座り直す。
「あ、」
 降谷さんだった。
 ぺこりと軽く会釈をする。そのまま廊下を通りすぎるかと思えば、彼は私に気づくとそのままこちらに向かってくる。
 また何か小言を言われるのかと身構えてみたが、彼はそばに置かれた自販機の前に立つ。
 ガコン、と重い音が静寂を揺らした。

「は、はい!」突然に声をかけられて、思わず立ち上がる。これはもう癖みたいなものだった。
「ほら」
 投げて寄こされたのは、冷えた缶コーヒーだった。
「えっ」
 渡されたそれと、降谷さんとを交互に見る。
「まだ残るんだろ」
 呆れたような声で、彼は言った。
「……あんなエベレスト級のファイルの山、そんな簡単に捌けませんよ」
が居眠りをしていなければな」
 それを言われるとぐうの音も出ない。
 自然な流れで、降谷さんは私の隣に腰かけた。呆気に取られていると、促されてそのまま腰を下ろした。
 コーヒー、隣に座る降谷さん。昼間に見た夢と同じ組み合わせに妙に胸がざわついた。
 ちらりと盗み見るように隣に視線を送ると、コーヒーを流す喉が上下した。
 こうやって上司の顏を間近で見るのは初めてだった。横顔からでも整った顔立ちなのがよくわかる。伏せられた睫毛が長く伸びている。
 私が毎日高級なまつ毛美容液を塗っても、彼に及ぶかわからない。
 ふと、降谷さんと視線が合う。
「あ、すみません……」
 慌てて謝罪の言葉を口にするが、降谷さんは黙って私を見つめたままだった。
 無遠慮に観察してしまったことに気分を害したのかもしれない。もう一度謝ろうと口を開くと彼の指先が頬に触れた。
「あ、あの……」声が震える。
 ぎゅっと目を瞑ると、降谷さんは私の名を呼んだ。
「まつ毛」
「あ、ああ……ありがとうございます……」
 彼の指先に見えたのは一本の抜けたまつ毛だった。ほっとすると同時、明らかに熱が燻るのを感じた。きっと今の私は耳たぶまで赤いだろう。慌てて髪をすいて耳を隠す。
 こっちは現実の降谷さん、夢の降谷さんとは違うのだ。思い出すな、と言い聞かせるたびに余計に血が巡る。ここに自分しかいないなら、表面の濡れた缶コーヒーを頬に当てて冷ましたかった。
「あ、」
「どうした」
 手の中の缶コーヒーはブラックだった。
 上司にいただいたものの手前、飲めませんなんて返すことはできない。
「いえ、なんでも……」
 観察眼の恐ろしい上司の前で下手な誤魔化しは無意味だったようだ。
 降谷さんは私の手の中の缶コーヒーを取り上げた。
「そんな、いいですよ!」
「飲めないものを差し入れても意味ないだろう」
 立ち上がった降谷さんはまた自販機に向かう。そうして、新しいカフェオレの缶が渡される。
 ひんやりとした冷たさが、熱くなった肌にちょうどよかった。
「あの、降谷さんが優しいとこわいんですが……」
「失礼な奴だな君は」
「あとで何かとんでもない仕事を吹っかけてきそうで……」
「君、僕を怒らせたいのか?」
 眉を顰めた降谷さんは私を見下ろしてから、自身の腕につけられた時計に視線をやる。
「あと三十分でキリをつけろ」
「え! さんじゅっぷん!?」
 まだ山のように残りの書類は積み上がっているのだ。三十分で終わらせるのは厳しいのでは……。そう上司に訴えかけてみるが、彼は「三十分」と繰り返す。
「死ぬ気でやれ」
 爽やかな笑みで降谷さんは言いのける。
 無理難題を言い放った上司は、革靴の音を鳴らして後ろ手に手を振った。
 降谷さんの鬼め! と声に出してはいけない言葉を心の中で繰り返し、カフェオレを一気に飲み干した。
 ミルクと砂糖の甘さが絡みつくように喉から胃へと流し込まれる。
 やっぱりときめきなんて気にせいだった。


20210809
#1週間で2個書き隊の「居眠り」というお題から
長くなったのでこちらに置きます
ここからラブストーリー始まる(たぶん)