都心から少し離れたところに会社はある。おかげでラッシュ時には比較的混雑の少ない逆方面の電車に乗ることができるし、ランチのためサラリーマンやOLたちと並び、昼休みの時間を削る心配もない。
そんな場所にある大きいとは言えない数階建てのビルの正面に、外国車が停まっていれば行き交う人の視線が釘付けになるのも仕方がない。見覚えのある車体に、そのそばで煙草を咥えている男を、私は知っている。
「ハマーじゃん! カッケェー」「アレ、なんかヤバイやつじゃない?」そういった好奇の視線が向けられつつも、近寄れないオーラがそこにはある。正解。ヤバイやつなんですよ、そこのお姉さん!
定時を少し過ぎた夜空は、乾いた空気を通してはっきりと星を映し出している。薄手のマフラーに顔を埋めて、気づかないふりを決め込む。視界の端に、こちらにジイっと視線を向ける男が映る。
「おい」
「……!」
ぎょっとして顔を上げると、やっぱりも何もない。丑嶋くんだ。
例の件があってからしばらく顔を合わていなかったので、なんとなく気まずい思いをしているのは私だけだろうか。
「よう、久しぶり。元気?」
「ひ、久しぶり…」
明らかに、一直線に私に向かって歩み寄る丑嶋くんに、周りの視線はこちらにも向けられる。なんだなんだと様子を伺う人の中に、上司らしき姿を見つけて思わず彼の背後に隠れた。
「丑嶋くん目立つ!」
「あ? 知らねーよ」
強面の男が睨みをきかせると――実際には目を向けただけなのだが、こちらに向けられていた好奇はまるでなかったもののように散り散りになる。
都内に出かけてもなかなかお目にかかることができない外国車と、その持ち主が強面のガタイのいい男だとなると、良くも悪くも注目を集めることになるとは気づかなかったのだろうか。知らねえと言われてしまえば、もうそれ以上追求することはできないのだが。
「……今日なんかあったっけ?」
「おまえ電話出ねぇだろ」
「あ、電話くれてたんだー」
「すっとぼけんな」
まったく、と息をついたのと一緒に空気に溶け込む煙草の香りがあの時のことを思い出させる。
「用ないなら帰る!」
ちょうど帰宅の時間帯だ。どんどん人は流れてくるし、私たちも注目を集めてしまう。その主な原因である丑嶋くんから離れるために、踵を返すと、一歩も踏み出さないうちに後ろから伸びてきた手に捕まった。
「待て。メシ食いに行くぞ」
丑嶋くんの運転するハマーに乗り込むのは初めてだった。車の中で靴を脱げと言われたのも初めてである。車内は何の音もなく、ただ車のエンジンが回る音と過ぎる風の音だけが響いた。彼は何も話さないので、私も適当に携帯をいじったり、窓の外を眺めて過ごす。ネオンの煌びやかな街を抜け、見慣れた景色に運転席に顔を向けた。
「何か作って」
殺風景な冷蔵庫を想像して、せめて肉以外のものがあればいいなぁと思った。
行き慣れた、けれど久しぶりの部屋に入り、一番に向かったのはうさぎのゲージだ。勝手に気まずく思っていたのもあって、敬遠していたのだが、やっぱりうさぎたちに会えないのは寂しかった。合間から身体を撫でると、ピクリと反応した身体がこちらを向く。久しぶりだねぇ〜なんて子どもをあやすように声をかけていたら、丑嶋くんに呼ばれてキッチンに向かう。
冷蔵庫の中は想像通りで、適当に簡単なものを作ることにした。突然の拉致だったのだから仕方ない。許されるべき。
「丑嶋くん、ビールはー?」
「いる」
冷蔵庫の脇に並べられた缶ビールを二人分取り出す。
「あ!」
「何よ」
「丑嶋くん、あんな文句言ってたのにプレモル飲んでるし…」
甘いだの他のにしろだの言っていたのに、前回来た時に名前を書いて置いて帰った分より明らかに数が増えている。
「いや、アレおまえの」
丑嶋くんはそう言うと手渡したプレモルをテーブルに置いて「食うぞ」と座るように促した。
「いらねぇなら全部飲むからいいよ」
「やだ。いる…」
適当に作った夕飯で腹を満たし、何をするでもなく二人で酒を煽る。一般的に酒には強くも弱くもないと思っているが、続けて数本も空ければ連勤明けの身体に酔いが回るのは早かった。喉を通すたびに、思考はアルコールに溶けていくようだ。
ゲージから出したうさぎたちがリビングのあちこちで丸くなっている。
『うさぎは寂しいと死ぬ』なんていう都市伝説があるほどだ。ストレスを感じやすく、繊細な生き物だという。そう思うと丑嶋くんのいきすぎているようにも思う細かい世話の仕方も強ち間違ってはいないのだろう。鼻をヒクつかせて寄ってきたうさぎを一羽、膝の上に抱き上げる。相変わらず清潔感があって毛並みもさらツヤだ。
うさぎを撫でながらちらりと横目で丑嶋くんの様子を伺ってみる。いつものように読めない表情で、缶ビールを煽っている。ほろ酔いも越えた私とは違って、まったく顔にも出ないのだからどれだけザルなのだろうかと思う。
丑嶋くんとはよき友人として付き合ってきたつもりだが、この間のことがあってから気まずい思いをしていたのは私だけだったのだろうか。仕事が立て込んでいたのもあるのだが、なんとなく顔を合わせづらくて、この家に来ることを避けていた。丑嶋くんが何を考えているのかわからない。それはもうずっと前から普通のことだったのだが、今はそれがどうももどかしい。
「……私もさぁ、」
「あ?」
「意外と繊細なんですよ」
「で、何?」
「や、もう少し優しくしてほしいなぁって…」
酒の力を借りてても、言葉はだんだんと尻すぼみしていく。
こちらを見向きもしない丑嶋くんに「チクショウ!もういいよ!」なんて暴言が吐いたのも全部酒のせいだ。
「」
「…はい」
「うるせえよ。うーたんがびっくりすンだろ」
彼の言う通り、膝の上で丸まっていたうさぎはビクついたように顔を上げて、ぴょんぴょんと駆けて行く。そうして丑嶋くんは、彼のそばへ落ち着いたその子を慰めるように撫でた。
「…………」
「…………」
二人の間に沈黙が流れる。丑嶋くんが無駄に話をするようなタイプではないことはわかっているのだが、今はどうにかしてこの沈黙を脱するかを考えるのに精一杯だ。こんなにたくさんのうさぎに囲まれているのに、人間の言葉を話すうさぎだったらどんなに良かったか。
不意に丑嶋くんが口を開いた。
「おまえ男できたの?」
「おとこ?」
ジィとこちらに視線をよこす丑嶋くんに、そういえばこの間私にだって遊び男の人くらいいるのだという話をしたことを思い出した。
「…会ってない」
「あっそ」
自分から聞いたくせに、特に興味もなさそうに丑嶋くんはうさぎを可愛がる。
「丑嶋くん、そういうとこ」
「なにが」
「なんでもないですぅ」
いじけた子どものように口を尖らせると「ガキか」と言われたので、それもまた悔しくて新しい缶ビールを開ける。
「、飲みすぎ」
「ヤケ酒だもん」
「なンのヤケだよ」
「…………」
酔っぱらった頭で、いきおいのまま缶を傾けた。続いて二口目、と口を付ける前に、伸びてきた手にそれを奪われる。
「あっ!」
丑嶋くんは私から奪ったプレモルを流し込むようにして飲むと「やっぱコレ甘ぇわ」と顔を顰めた。
「……私は好きだもん」
ふてくされたのを全面に出すようにして、革のソファーにわざと勢いをつけて倒れこんでやる。このままずぶずぶとソファーに沈みこんでいきそうな感覚に、自分が思っているよりも酒が回っているのを感じた。揺れたソファーに、何か言いたげな視線を向けられたが、見なかったふりをして目を閉じる。その直前、塵クズひとつないようなカーペットに明らかに自分のものであろう髪の毛を見つけてしまった。つい先日美容院に行ってきたばかりだというのに、なんだストレスか。また丑嶋くんに怒られてしまうかもしれない。ゆっくりと落ちていく意識の中で、今度来るときは自分専用のコロコロでも持参してこようかと考えた。
20210611 再掲