短い毛並みは触ってみると案外柔らかくて心地がいい。リビングに寝転がりながら、シックな部屋に似合うとは言えないいくつもの小さな塊の一つを撫でると、気持ちよさそうに耳を下げた。
ガチャリと重々しく扉の開く音が聞こえて、家主の帰宅を察する。何羽かのうさぎたちはその音と同時にピクリと耳を上げた。
「……何でいンの?」
「癒されに来てみました」
「あっそ」
がちりとした図体だけでなく、ただそこにいるだけで相手を威圧するような雰囲気を醸し出しているこの男は、この部屋の家主であり、うさぎたちの飼い主でもあった。
「おかえりー、丑嶋くん」
自分の家のようにうさぎたちと戯れ寛いでいる私に一瞥をくれて、彼は部屋の奥に足を進めた。
「うさぎ、可愛いねえ」
自分の好きなものを褒められるのは悪くない。他人様の家に勝手に上がり込み、怠惰な姿を見せていても彼がうるさく言わないのはそういうことだと勝手に思っている。最初の頃、渡されたうさぎたちの世話の細かい指示を見てドン引いたのも今となっては懐かしい。一人暮らしの成人男性が飼っているとは信じ難い数のうさぎたちの名前もすっかり覚えてしまった。飼い主の不在時には、指示通りに餌を与えるし、うさぎマッサージだってかかさない。犬や猫みたいにわかりやすく反応があるわけではないが、最初の頃より懐いてくれているのではないかと思う。名前を呼ぶと、耳を立ててぴょんぴょんと小さく跳ねる姿を見ると、仕事の疲れなんてあっという間に消えていく。自分で飼ってみたらいい話なのかもしれないが、結局ここに来てしまう。
「つーか、来るのはいいけどテメーの毛落としてくんじゃねえよ」
反転した視線をちらりと彼に向けると、先ほどと表情は変わらないが機嫌の悪さが窺える。
「……他の女じゃない?」
「アホか」
勝手に家に上がりこんでくるような無神経なやつ、おまえ以外にいるか。
チッ、と小さい舌打ちと共に、呆れたようにそんな言葉を投げられる。
「カラーばっかりして傷んでるからかな。美容院行かなきゃなー」
独り言のつもりで溢した言葉は、彼も察しているようでもちろん返事はない。ひとつまみした毛束の先には、はっきりと枝毛が見えた。次の休みにでも美容院の予約を入れよう。
「おら、どけ」
キッチンから缶ビールを手にした彼に、腰を足で小突かれる。その拍子に、私のお腹の上で気持ちよさそうに目をつぶっていたうさぎが何事かと辺りを見回している。床に寝転がった状態から見下ろされると、まるで巨人に襲われかけている小人の気分だ。おらおらと退けるように促されて、お腹のうさぎを両手に抱えて身体を起こすと、彼はソファーに腰を下ろした。
「あ、それ私のプレモル」
「これ甘すぎ」
「私が飲もうと思って買ってきたんですけど…」
「次から違うのにして」
「だから、それ私が飲むやつ!」
「…………」
文句をこぼしながら、丑嶋くんは口に合わないビールを喉に通していく。何度か上下した喉が落ち着いて、ローテーブルに置かれた缶は軽い音を立てた。冷蔵庫に入れた残りのプレモルには太いマジックで全部に名前を書いておくことを決めた。
「、メシは」
「……はーい」
部屋に散らばるうさぎたちを手分けしてゲージに戻してから、キッチンに向かう。
うさぎと戯れるついでにうさぎの世話をするようになった。うさぎの世話をするついでに彼にご飯を作るようになったのも同じ頃だ。
その時も今日と同じように勝手に上がりこんだ部屋でうさぎたちとごろごろと過ごしていた。帰ってきた丑嶋くんに「腹減った。何か作って」と言われて適当にあり合わせのものを出したのだが、どうやらそれが気に入ったらしい。褒められたことはないので、本当に気に入られているのかどうかはわからない。その後も、タイミングが合えばご飯を要求されるので、勝手にそう思うことにしている。
それから、彼のほとんど空っぽだった冷蔵庫に食材が増えた。野菜を買い置きしておくと、知らぬうちに跡形もなく消えてしまっていたりするので、彼の家に行く直前に買うようにしている。
少しの時間、うさぎと遊んですぐ帰るつもりが、いつの間にか彼と夕食を共にするようにまでになっていた。会社の上司がうるさかったとか、久しぶりに地元の友達に会ったとか、そういうどうでもいい話をする私を、丑嶋くんは「ふーん」とか「へえ」とか特に興味もなさげにただ相槌を打って聞いていた。おかげでいつも私は食べるのが遅い。私がやっと三分の一を食べるころには、丑嶋くんはとっくに完食するかおかわりまでしている。二人分の食器を片付ける頃には、すっかり夜も更けていた。
帰り支度を整えながら、ゲージに入ったうさぎに最後の挨拶をする。とは言っても、きっとまた近いうちに来るのだが。うさぎと、ついでに丑嶋くんと遊んで――夕飯を食べて、何をするでもなくその日のうちに帰る。それが私たちの決まりだった。
「彼氏できたら来られないもんなあ…」
肌触りの良い毛並みを撫でつけながら独りごちる。メッセージのやり取りでもしていたのか、携帯を操作していた丑嶋くんが顔を上げる。
「おまえ男いねえじゃん」
そういう丑嶋くんに、私にだって食事デートに行く男性の一人や二人くらいいるのだと言うと、彼は「あっそ。まあ頑張って」といつの間にか再び携帯に視線を落としていた。無関心もいいところだ。
「できたら紹介してあげるね」
「闇金で金借りるようなクズはやめとけ」
「そっちじゃない」
名残惜しくうさぎから離れる。仄暗い部屋で、きらきらと光る丸い目が別れを惜しむように見えて、余計に離れがたい。
「おまえ帰り歩き?」
「タクシー呼んだよ」
「ああ、そう」
リビングの扉を開けると、丑嶋くんはソファーにかけていた腰を上げる。玄関先までの見送りもいつものことだ。
「あ、プレモル分貸しだからね!」
「へえ、利息はいくらよ」
「と、トゴ?」
「ハッ、甘えな」
冬に差し掛かった十一月の始まりは、室内であっても冷えた空気が身体を強張らせる。すでにコートにニットという防寒ばっちりの私ですらこれだというのに、丑嶋くんは真っ黒なパーカーを一枚着ただけだ。
「じゃあ、また」
「まて」
ドアハンドルに手をかけたところで、呼ばれた名前に振り返る。かちゃりと彼愛用のリムレスが目前を掠める。煙草も酒もやるくせに意外と肌綺麗だな羨ましいなんて思ったのも一瞬で、相変わらず私を見下ろすように向けられる視線は読めない。いつもより少しだけ上がる口角にしてやられたと気づいたのは、その数秒のことだった。
「…………え、なに?」
「利息分」
「え?」
「気ぃつけて帰れよ」
重い扉を開いた先から冷たい風が流れ込む。暖かい室内にいた気温差から鳥肌でも立ちそうなくらいなのに、別の意味で温度変化についていけていない。
「ば、ばかやろう! 今のも貸しだからね!」
捨て台詞のように吐き捨てて、玄関を飛び出した。当て付けに玄関の扉を全開にしてやったが、効果があったのかはわからない。
マンションの前で停めていたタクシーに駆け足で乗り込むと、ご機嫌な運転手に「お姉さん、彼氏と喧嘩か〜?」なんて余計なことを言うので、バックミラー越しに睨み付ける。
ネオンの光る街を抜けて走る景色を窓越しに眺める。煙草の匂いなんて嗅ぎ慣れているはずなのに、なんでだか鼻について離れない。だいたいキスの貸しってなんだ。自分の言葉に自滅したのではと気づくのは、タクシーのメーターが回るのと同じ頃だった。
20210611 再掲