しばらく出張続きで、いよいよ体力的に限界を迎えそうになった時。ようやく休暇の許可が出た。それも一日だけの自由時間だが、好きにできる時間ができるのはありがたい。あまりに忙しくて、ゆっくりと食事を摂ったのはいつだったか。それでも自炊をする気にはならなくて、自宅の空っぽの冷蔵庫を眺めて溜息を吐いた。
 コンビニの弁当や軽食もすべて食べ尽くしたと思うほど、商品を眺めても食べたいものなどなく、とりあえず腹に収まれば良いと適当にサンドイッチを手にする。
 買いたいものもないのにぶらぶらと棚を眺めて回る。
 ふと、コンビニのオリジナルブランドのコスメたちが目に入る。
 ちゃんとしたメイクをしたのもいつだったか。濃くなった隈と、疲れ切って調子のいいとは言えない顔色がガラスに反射して、そこからすぐに目を逸らす。
 棚に並んだネイルポリッシュを一つ手に取る。これひとつで同世代の女性たちと並ぶことができるとは思えないが、せめてもの悪あがきだと自嘲する。
「先輩はこの色でしょ」
 突然背後で聞こえた声に、勢いよく振り向けば、お決まりの目隠しをつけた高専時代によく世話になった後輩の姿があった。その手に摘ままれた別のポリッシュは、《人気No.1》とシールが貼られているだけあって、並んだ他の色よりも数が少ないようだった。
 五条の勧めるそれに眉を顰める。にとっては派手だと思えるものだった。
「似合わないよ」
「似合うよ」
 何を思ってそう言うのか。軽い口調で断言すると、彼はそれをの買い物かごに放った。
 さっさとご飯だけ買って帰宅するんだった。は無駄に商品を見ていた時間を悔いた。
「は? これ先輩の晩飯?」
「そう。じゃあね」
 かごの商品を一瞥して、五条は呆れたようにを見下げた。
「疲れる時こそしっかり食べなきゃ!」
 小さな子に言い聞かせるように、指を立てて五条が言う。
 はい、わかりました。と流して、早々にその場を離れようとしたのに、私の前に立ちはだかる長身の男がそうさせてくれない。
 高専勤務であるという彼には、のスケジュールもしっかり把握されているのだろう。五条の方が大変な任務に就かされているというのに、その辺りの女性より肌ツヤがいいのは体質だろうか。なんとも羨ましいことだった。
「ねえ、五条くん。帰りたいんですけど」
「だってセンパイ逃げるじゃん」
「逃げないよ」
「じゃあ、一緒に行こう」
「は?」
 じゃあってなんだ。の反論などなんのその。五条は手早く会計を済まし、の手を引いた。

 あれよ、と言う間に伊地知くんの車に乗せられて(可哀想に、きっと急遽呼びつけられたのだろう)、ここらじゃ名の通った高級店に連れていかれた。
 食欲はあるためか食は進んだが、その代償は大きかった。疲れた身体に逆に高級料理は胃が受け付かないらしい。
「胃もたれした……」
「めんどくさがって普段犬の餌みたいな飯食ってるから」
 失礼な物言いの五条を、は睨みつける。この格差社会になんてことを言うのだ、と舌を打ちかけた。
 勧められたアルコールも相まって、よろよろとした足取りで向かうはの自宅だった。
 自宅前まで車で送ってくれた伊地知に申し訳ないと何度も頭を下げたが、おそらくの頭上から降ろされる視線から目を背けて、彼は「とんでもないです」と繰り返していた。可哀想に。
「じゃあ、」
 マンションの玄関先で五条に別れを告げると、彼は当たり前のようにとともに歩を進める。
「いや、帰ってよ」
「ちゃんと送り届けるまでが仕事です」
「何その仕事。遠慮します」
「遠慮しないの」
 五条はの腕を引きながらはいはい、と足を進めた。リーチの差は歴然である。足が縺れそうになるに「お姫様抱っこでもする?」と笑う五条に、彼女は怪訝な顏を向けた。
「え、部屋まで入るの?」
「突撃! 先輩のお宅訪問〜!」
「冗談でしょう」
 ブラック企業も真っ青の連勤を終えたところなのだ。酒も飲んだとあれば、の睡魔はすぐそこだった。すぐにでもシャワーを浴びて、布団に転がり込みたいというのに。
 帰れと言ってもきっと私の言うことなど聞かないということは、学生時代からよくわかっていた。
 のとびきり大きなため息も意に介さず、五条はの家に上がり込む。
「なんもない!」
「だから、ずっと出張続きだったって言ったでしょう」
「僕も」
 大阪も行ったし仙台も行ったし……と、五条は空を見つめて指折り数える。五条の体力と能力を一緒にするなとは思ったが、彼の方がきっと上位の呪霊任務に当てられているのだろうと思うと、と比較にはならないかもしれないとも思い直した。
「そっか。お互い大変だよね。じゃあ、早く家で休もう。お互いの家で、ゆっくりと」
 ところどころ強調したの主張は、無情にも却下される。
「せっかく先輩のためを思って来てあげたのに、ここで帰ったら意味ないでしょ」
「何で私のために五条くんが来るの」
「癒しの時間のご提供」
「癒し……?」
 嫌な予感がの脳裏に舞い込んでくる。
「それは本当に私のためでしょうか……?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 ゆっくりと口角を引き上げて、五条は目隠しを外す。青の、宝石のように輝く瞳に見据えられて、は何も言えなかった。
 ちらりと横目で見たのは洗面所だったが、きっとこのままシャワーも浴びずに事が始まることが予測された。
「寝落ちするかも」
「させると思う?」
「正直させてほしい」
 小さく吐いた息ごと吞み込まれて、もうどうにでもなれとは瞼を閉じた。



 目覚めると、部屋に残る微かに鼻をつく香りがした。指先の違和感に掌を持ち上げてみると、五条の薦めた色が十本分乗っていた。
「やっぱ似合わない……」
「似合ってるって」
 完全に身支度を整えた五条がリビングから顔を出す。気怠い身体を起こすのも面倒で、は視線だけ五条の方に向けた。
「ほら先輩、ご飯ご飯」
 まだ眠っていたいとシーツを手繰り寄せたの抵抗も虚しく、脇に差し入れられた五条の手に引き上げられるようにしてベッドから出された。
 リビングに入ると、コーヒーの香りがかんばしく鼻をうつ。昨夜の高級料理のせいで胃もたれを起こしていることはすっかり忘れてしまったのか、の胃が小さく鳴いた。
 ダイニングテーブルの椅子を引いて、五条の向かいに座り、カップに口を付けた。
 そんなを見て、五条は満足げに笑った。
「うん。彼シャツの彼女と朝ごはん、最高だね」
「彼女じゃないし……。なに? 彼シャツ?」
「それ。僕の」
 にこにこと屈託のない笑顔を浮かべて、五条が指したのは、に着せられていたシャツだった。
「いつの間に……」
 ぶかぶかの着せられていたシャツは五条のものだったらしい。いつだか家に置いていったと話す五条の悪賢さを改めて思い知った気分だった。
「……着替える」
「待った! 先に朝食にしよう。冷めちゃうでしょ!」
 立ち上がりかけたの肩を押し戻すようにして、五条はさあさあとテーブルに並べられた朝食を促した。
 簡単に焼かれたトーストとジャム、スープ、そしてコーヒー。
「五条くんがつくったの?」
「まあね。先輩もう冷蔵庫なんにもなかったよ」
「買いに行く暇がなかったからね」
 今日は必要な食材など買い出しに行こうと思っていたのに、昨夜の急な来訪者のせいでだいぶ予定が狂ってしまった。
 恨めし気に五条を見つめながら、はトーストを咀嚼する。
「買い物なら僕も一緒に行こうかな」
 独り言のようなそれは、もう決定事項だった。
 五条と二人でなんて、冗談じゃない。五条と一緒に並んで買い物なんかしたら、落ち着いてゆっくり見られない。はトーストを取り落としそうになりながら首を振ったが、目の前の男は「どこ行く?」なんて浮かれた様子でスマートフォンを操作していた。
「なるべく、目立たない格好でお願いします……」
「そんなの無理に決まってるでしょ」
 はここ一番の嘆息を吐き出した。
 ちょうどよく温くなったコーヒーが滑らかに喉を通っていった。

20210123