予感
 カウンターにはいつものコーヒー。今日は、ちょっぴり遅いお昼に安室さんお手製のハムサンドをいただくことにした。これが結構美味しいと話題らしい。
 この間、作り方を本人から聞いたのだが、家で同じように作っても上手くいかなかった。作り手の問題だろうか。パンもレタスもハムも、イケメンに調理されることでより旨味を引き出すことができるのかもしれない、なんて三角のそれを頬張りながらどうでもいいことを考えていた。

 今日は珍しく、ポアロにお供を連れてきた。暇な時間を持て余さないようにと、市の図書館で借りてきた小説本だった。
 ハムサンドをぺろりと平らげたあと、お皿を端に避け本を広げる。これがなかなか面白くて、私でも完読できそうな内容であった。活字はあまり読む習慣がなかったため、おすすめコーナーに置かれた本を信じて手に取ったのだが、良い選択だったようだ。
「――おや、珍しい。読書ですか?」
「はい。ちょっと活字に触れたくなりまして」
「児童書ですが」
「……いいんですよ! 簡単なものからレベルアップしていくんです!」
「ほぉー、シャーロックホームズですか」
 仕事がひと段落ついたとやってきた安室さんは、広げた私のお供に興味を示す。
「読んだことあるんですか?」
「まあ、ある程度は」
「あっ、ネタバレしないでくださいよ。 推理しながら読んでるんですから」
「それはそれは。聞いても?」
「も、もうちょっと読んだらわかると思います……」
「楽しみにしてます」
 安室さんは取って付けたような笑顔を浮かべ、空のお皿を下げていった。
 シャーロックホームズ。よく聞く名前だ。有名な作品だということは知っていたが、なかなか読む機会に恵まれなかった。冷静沈着、頭脳明晰なシャーロックホームズが、抜群の推理力で難事件を次々に解決していく物語である。
 児童書であることに、安室さんは呆れていたようだったが、一般のものよりちょっとだけ字が大きくて、わかりやすい。初心者が読むには最高の一冊である。
 そして、名探偵ホームズと、同じく安室さんも探偵をやっているということを知ったのは、つい最近のことである。もう1人のアルバイトである梓ちゃんから、その話を聞いた時、驚いたのと同時に、なるほどだからかと納得してしまった。私が相手では安室さんと頭のいい会話をすることは不可能であるが、たまに妙に鋭い指摘をしたり、巧みな会話術でお客さんとやり合っているのを見たことがある。そういうのも、探偵であるからこそなのだろうか。身近な探偵といえば、ニュースなどでよく見る毛利小五郎が有名だろうか。そして、安室さんはその毛利小五郎の弟子であるというから、余計に驚いてしまった。そんなすごい人に弟子入りしているなんて、本当に、一体彼は何者なのだろうか。
 キリのいい章を読み終えたところで、並ぶ文字から目を外す。慣れない活字に目がしょぼついた。
 おやつ時のお茶に訪れたお客さんがちらほらと座る店内で、ゆったりとした時間が流れる。
 優男、イケメン、探偵という高スペックコンボでこの街の女性人気をさらっている安室さんは、笑顔でマダムたちの相手をしている。
さん」
「あ、梓さん」
 後ろ手にエプロンを結びながら休憩を終えた梓さんが、 奥の部屋から顔を覗かせる。もうそんな時間か、と時計を見る。
「いらっしゃいませ。読書、いいですね」
「児童書だって、安室さんにバカにされましたけどね」
「あ。懐かしい。これ小学生の頃に読みましたよ」
「え? 小学生?」
 周りのレベルが高いのか、はたまた自分のレベルが低すぎるのか。考えたら悲しくなりそうなので、考えるのをやめた。
さん。クリスマス、安室さん誘わないんですか?」
「ん゛!?」
 こっそりと身を乗り出して、囁くようにした梓さんの声に、口をつけたコーヒーを噴き出しそうになった。安室さんはマダムたちに捕まっており、こちらの会話には気づいていない様子だ。
「あ、梓さん! 何いうんですか!」
「えー。安室さん、クリスマスは予定ないって言ってましたけど」
「聞いたんですか?!」
「聞きますよ。普通に」
「その勇気、見習いたいです……」
 安室さん目当ての女性客が、聞きたくて聞けないことを。さすが、こういうことができるのは、仕事仲間という特権だろうか。
「で、誘わないんですか!」
「誘いませんよ!」
「もったいない」
 そう言った梓さんの目には、好奇心と期待が映る。
 クリスマスに、なぜ、安室さんを誘わなければいけないのか。
 気管に入りかけたコーヒーをすんでのところで流して、深い呼吸を繰り返す。
「……なんで私が安室さんを誘わなきゃいけないんですか」
「二人、いい感じなのかなって」
「ただのお客と従業員ですよ」
「ええ、つまんないなあ」
 若い女の子の好奇心の怖さを実感する。私も若かりし頃は、自他関係なく恋愛ごとには興味津々で、ついつい誰々をくっつけよう、協力してやろうなど世話を焼いたものだった。まさか、こんなところで梓さんに世話を焼かれようとしているとは。
 どこをどう見ていい感じだと思ったのか、まずはそこから教えて欲しい。
「いないって言って、隠れていたりするんですよ、あーいう男は」
「そうなんですか?」
「いないわけないです」
「……うーん。そうなんですかね」
「それに! それって私がクリスマスに予定ない前提じゃないですか!」
 全く、安室さんがクリスマスに予定がないからと言って、私が暇でないのであれば、誘うだの誘わないだの以前の問題である。
 クリスマスの過ごし方といえばこうだ。ライトアップしたツリーを眺めながら、美味しいシャンパンで乾杯しながら、チキン、そしてクリスマスケーキ。BGMはクリスマスソングをムードよく流し、そしてクリスマスプレゼント! わあ、これ欲しかったの。君の欲しいものならなんだってわかるさ。――なんて。
 こちらにもこちらのクリスマスというものがある。暇な安室さんとは違うのだ。
「ほぉー。僕が暇なクリスマスを過ごす間、さんはどなたとクリスマスを?」
 ギョッとして声のした方を振り返ると、先ほどまでマダムたちとの会話に乗じていた安室さんがいつの間にかすぐ背後に迫っていた。
「……び、びっくりするじゃないですか」
「面白そうな話をしていたので、つい」
 安室さんのつい、は心臓に悪い。
 「ちなみに残念ながら相手はいません」と特大ニュースになりそうな安室さん情報を得てしまった。
「で、さんはどんなクリスマスを過ごすんでしょう」
「すみません。一人です。妄想です」
 心なしか威圧感のある笑顔を浮かべる安室さんに、正直に口を開く。
「え? 妄想だったんですか」と梓さんが目を丸くする。
 無職、彼氏なし、日課はポアロ。クリスマスに過ごす相手がいるはずがなかった。察してくださいと目を向けると「そんなことだろうと思いました」だなんて言われてしまう始末だ。
 街はクリスマス一色。冬はただでさえ人恋しくなる季節だというのに、恋人たちのクリスマスという風潮はどうにかしてほしい。欧米では、クリスマスは家族で家で団欒して過ごすものである。私、は恋人たちのクリスマスに断固反対します!
「わあ! それなら、いいじゃないですか! 安室さんとさんでお出かけしちゃえば」
 突然声をあげた後、梓さんは名案だとばかりに手を打った。何を言ってるんだと目を向けると、安室さんは安室さんで「まあ、急な依頼が入らなければ」なんて言っている。
「な、なんでそうなるんですか!」
「予定のない同士、いいじゃないですか」
「いや、そういうことではなくて」
「どうせ僕は暇だそうですからね」
 安室さんともあろう人が、クリスマスに予定がない上に、クリスマスという特別な日をバイト先の喫茶店で居合わせた同じくクリスマスに暇な客で埋めようとしている。安室さんファンにバレたらとんでもないことになりそうである。
 以前、安室さんと買い出しに出かけた後もちょっとしたゴタゴタがあったばかりだというのに。
「安室さんとクリスマスなんて、私その日に襲撃されちゃいます…」
「SPの手配でもしましょうか」
「どの口がいうんですか」
 安室さんとクリスマスを過ごすだなんて、安室さんファンから袋叩きに合うに違いない。
 そもそも、安室さんの隣にいても見劣りしない女性はいるのだろうか。百年に一度の絶世の美女か、どこぞのモデルか。全くかすりもしないちんちくりんな自分が並んで歩いても、よく見られてもスーパーの買い出しくらいになりそうだ。
「街に出るのはやめましょう! クリスマスなんて、暖かい家でチキンとケーキ食べていればいいんです!」
「チキンとケーキがあればいいんですか」
「えっ、作ってくれるんですか?」
「定番がいいんでしょう」
「安室さんのお手製……!」
 湧く期待に、ごくりと喉がなる。
 例年、少しばかりの贅沢だと街のお肉屋さんで買ったチキンと、予約したクリスマスケーキとともにイブの夜を過ごしている。
 「仕事がなければですけど」と安室さんはいう。探偵の依頼とは、突如として舞い込んでくるものであり、予測がつきにくいらしい。安室さんの都合がつかなければ、安室さんファンからの報復を恐れることもなく、いつも通りのひっそりとした平和なクリスマスを過ごせるのだ。しかし、安室さんのお手製のご飯とケーキが意思を揺らがす。
「ま、まあ。安室さんが暇でどうしてもっていうなら、付き合ってあげてもいいんですけど」
「ではさん。それまでに、犯人の目星をつけておいてくださいね」
 名探偵の推理、楽しみにしています。そう言って、安室さんが指すのはシャーロックホームズである。未だ序盤から抜け出せていないのに、それをわかっていて言っているのだろうか。いやに爽やかな笑顔がいやらしい。
「安室さんは結末知ってるじゃないですか」
「せっかくなので聞いてあげますよ。暇なので」
 「良かったですね!」と自分のことのように盛り上がる梓さんは、少し大げさである。特別なことはないのだ。落ち着いてほしい。
 からんと開いたドアの隙間から入り込む空気は冷たくて、思わず小さく身震いした。ポアロの文字が書かれた窓越しに、ちらちらと舞うように見えるのは雪だろうか。
 スピーカーから流れるクリスマスソングを聴きながら、終わりかけのスケジュール帳にくるりと印を入れてみる。
 閉じていた本を再び開いて、世紀末倫敦の物語に入り込むことにした。来たるクリスマスのために。

20171220