ひとくう猫
 買い物に出掛けた帰り、小さく高い間延びしたような声が耳に入った。辺りを見渡して見ると、それは植木の影に身を隠すようにして座り込んでいた。小さな頭に二つ、真ん丸とした大きな目がこちらを見上げていた。
 子猫だ。人間が恐くないのだろうか。人気のないことを確認してしゃがみこむ。そろそろと子猫に手を伸ばしても、逃げられることはなかった。視線を合わせて、こちらの様子を伺っているようにも見える。チッチッと舌を鳴らしてみると、こちらに害がないことを察したのかそろそろと近づいてきた。顎の下を中心に指先で撫でてやれば、コロコロと喉を鳴らして目を細める。
 動物というのは無条件に癒しを与えてくれるので好きだ。
 思わず夢中になって撫でくり回す。ひとしきり撫でたあと手を離すと、もっともっととねだるように手にすり寄ってくる。頭や尻尾を腕に絡ませて、ねだる様子は可愛いの一言では不十分だ。出会ったばかりだというのに、すでに可愛さに骨抜きになっていた。
 ふと気づく。子猫には赤い首輪がつけられていた。野良というには小綺麗で、この人懐っこさは飼い猫ならばと納得できた。ゴロゴロとすり寄る姿に、連れ帰りたい欲が湧いて出たけれど、どこかにこの子を待つ家族がいるのだ。きっと、この子猫も、一時の気の迷いで私に構ってくれているのだろう。
 これでもかと言うほど撫でていると、子猫はふと気が逸れたようにそっぽを向いた。するすると手を抜けて、少し離れたところにちょこんと座り、毛繕いを始める。
 警戒心が強く、近づいてきたと思ったら気まぐれに離れていく。そのようすに、どこかの誰かを思い出して思わず笑いが溢れた。
 子猫の可愛さを堪能し、存分に癒しをもらった。私への興味は完全に削がれてしまったようだし、名残惜しいが帰らなければ。またいつか、出会えたら撫でさせてくださいね。名残惜しく手を振って、その場を後にした。


「三好さん。いらしてたんですね」
「おや、来ては不都合でもありましたか?」
 店の扉を開けると、見慣れた背格好の青年が一人。カウンター席でコーヒーを飲んでいた。もう何度も見て覚えてしまった後ろ姿に、嗅ぎ慣れた煙草の香り。カウンターに駆け寄って名前を呼べば、三好さんはからかうように口角を引き上げた。
 不都合などあるわけがない。いつも仕事の合間だと言って立ち寄ってくれる三好さんと過ごす時間は、私にとっても特別な時間だった。自分のことはあまり話さない三好さんだけれど、きっと良いところの出であるということと、きっと恐ろしく頭が良いのだろうということはわかる。会話の端々に難しい言葉が出てきては首を傾げると、くすりと笑って、簡単な言葉でもう一度説明してくれる。彼の中で当たり前のように知っていることを知らない頭の悪い女だと思われているかもしれないけれど、呆れながらも教えてくれる三好さんの優しさに甘えている。
 三好さんの吐き出した紫煙が水中を泳ぐように空中に広がっていく。
 買い物袋を置いて、買ってきたものを片付ける。ぱたぱたとキッチンを歩き回っていると、不意に足元に柔らかいものが触れた。
「ひ…ッ!」
 思わず声をあげると、返事をするかのようにミイミイという鳴き声が返ってくる。
 テーブル下を覗き込むと、先程の子猫がなに食わぬ顔をして尻尾を揺らしていた。後をついてきたのだろうか。ミイミイと可愛らしく繰り返す子猫にたまらず、しゃがみ込む。
「…? どうしたんですか?」
 カウンター越しに様子を窺う三好さんの声に、子猫を抱き上げてみせた。
「ついてきてしまったみたいです」
 先ほどの出会いを説明し、可愛い可愛いと頬を寄せる。自分よりいくらか高い体温にやはり癒される以外の言葉が出ない。けれど、三好さんは特別興味もなさそうに「そうですか」と相槌を打つだけだった。
「こうして見ると、三好さんって猫に似てますね」
 迷い混んだ子猫と三好さんを見比べる。私の言葉に三好さんはぎょっとしたような表情を浮かべた。
「ほら、目とか」
 同意を求めてみるけれど、三好さんは子猫と向き合いながら眉を顰めただけだった。
 三好さんの反応など気にもせず、ごろごろと喉を鳴らす子猫の視線の先にあるのはコーヒー用のミルクだった。ほんの少量のミルクを入れた小皿を床に置いて、抱いていた子猫を離してやる。丸く吊り上がった瞳をキラキラと揺らして、小さな舌であっと言う間に飲み干した。
 お腹が空いていたのだろうか。その子猫は満足そうに一鳴きすると、外へ繋がる扉をがりがりと爪で掻いた。ゆっくりと扉を開けてやると、道を行く人々の足元をするすると抜けて、駆けて行ってしまった。
「………可愛いんですけど、なんだか体よく使われた気がします」
「猫にもわかるんじゃないですか?」
「どういう意味ですか」
 くすくすと笑う三好さんの言わんとしていることはなんとなく察しがつく。ムッとして言うと、吸い口まで近づいた煙草の火をぐしゃりと灰皿に押し付けて、三好さんは口を開いた。
さんは優しいですからね。今回は小さな可愛いお客さんでしたが、また先日のようなことがあっては恐ろしいですから」
「それは、……」
 暗に不用心だ、と言っているのだと思った。先日の夜道で起こった出来事を思い出して、背筋がぶるりと震える。あれから数週間ほど経つけれど、あれ以来、そういったことは起きていなかった。
 三好さんは目を臥せて、新しい煙草に火をつけた。
 賢明で優しい三好さんだけど、どこか読めないところがある。以前、ここのマスターにそう溢すと「男っていうのはそういうもんだ」という答えが返ってきた。
 ふうと三好さんから紫煙が吐き出される。漂う煙の先を追うのと同じくらい掴めない人だと思った。
 心の読めない、掴めない人。ただの女給と客という関係で、知り合いというにはまだ浅い。それなのに、この人の言葉には従うべきだと、絶対的な安心感を与えられているような気さえする。不思議な人だと思う。
「――そんなに見つめて、僕の顔に何か?」
「えっ」
 ぼんやりと三好さんを見つめていると、不意にかちりと視線が合う。その瞳に思わず身体が緊張し、ごくりと唾を呑み込んだ。そして、すぐに三好さんの言葉を理解した。ぼうっとしていたとは言え、人の顔をまじまじと見てしまうなんて失礼にもほどがある。かっと熱がこもる顔を隠すように手を振った。
「いえっ、あの……すみませんでした…」
「さすがにそんなに見つめられると照れますね」
 そう言って煙草を一息吸い込む三好さんからは、全く恥じらいなど見られない。赤くしたこちらの顔をくすくすと笑いながら、どの顔が「照れます」などと言うのだろうか。それに余計に顔を赤くする私に、三好さんはさらに笑みを深めた。
 三好さんと話すといつも彼のペースだ。それが悔しくも、どこかむず痒く感じてしまうのは私がおかしいのだろうか。
「三好さんは意地が悪いですね……!」
 ふっとそっぽを向いて三好さんから顔を背ける。未だにぽっぽと火照る顔を隠すのにちょうどよかった。不貞腐れたふりをするなんて、子供のようだと思われてしまうかもしれない。
さん」
 名前を呼ばれても振り返ったりするものか。そう心に決めて、三好さんからの声に無視を決め込んだ。
 沈黙。視線だけでも、と動こうとした好奇心を宥めて、ぎゅっと目を瞑る。ふわりと香りが強まった煙草の匂いに、三好さんが三本目をの煙草に火をつけたのがわかった。
 あまりにも、三好さんが何も言わないので、だんだんと不安になってくる。よく店に顔を出してくれる三好さんとは言え、お客様にこんなことをして、怒らせてしまっただろうか。さすがに、三好さんも私のこの稚拙な行動に呆れてしまっただろうか。
 心配になってうすら目を開けると、想像以上に三好さんが近くにいて思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。
「な、何をしてるんですか!」
さんを見ていたんです」
 仕返し、とばかりに言った三好さんは、私の反応が予想通りだったことに満足げに笑っていた。
「照れると言った僕の気持ちがわかるでしょう?」
「……そういうところです!」
「意地が悪い、ですか?」
「ええ」
 まだ半分も残っている煙草を灰皿で押し潰して、三好さんが立ち上がる。
「猫みたいだと、貴女が言ったんですよ?」
 先のお客である可愛らしい子猫と同じ、けれども妖艶に色を光らせた目を向けられて、無意識に足が後ずさる。
 一歩、二人の距離が近づいた。
「おや、あの子のように抱いて撫でてはくれないんですか?」
「でっ、できるわけがないでしょう……!」
「残念です」
  詰められた距離に体が強張った。震える唇を必死に動かして言えば、三好さんは肩を竦めて先程と同じ分距離をあけた。
 残した熱が、ぶり返すようにして顔全体を真っ赤に染めていった。
「三好さん…、からかいましたね」
さんはいつも可愛らしく反応してくれますからね。飽きないんですよ」
 にっこりと、綺麗な笑顔を見せた三好さんが憎らしく見えて仕方がない。それは、からかって良い反応を見せる私で楽しんでいるということではないか。まるで蛸のように顔を真っ赤にしてふるふると身体を震わす私を見て、再び三好さんが口を開く。
「猫はずる賢くて、自制的なんですよ」
「………それに、意地も悪いです」
 呟くように言うと、三好さんは「そうかもしれませんね」と笑った。
 コーヒー一杯分の小銭をカウンターに置いて、三好さんは被っていた帽子を整えた。
「でも、僕は猫が苦手です」
 「御馳走様でした」と扉から出ていくその後ろ姿に、癒しをくれた可愛い子の姿をすでに懐かしく思い出していた。

20160716