五月闇
 蒸し暑い夜だった。陽が落ちた分いくらか気温は下がったようだが、湿気が肌に纏わり付いて心地が良いとは言えなかった。これから天気が崩れるのだろうか。徐々に厚みを増す雲の切れ間から、陰りを帯びた暗い月の光が覗いていた。
 雨に降られてはいけないと、は家路につく足を速める。
 白熱電球の街灯が照らす大通りを抜けると、仄暗い路地が続いている。夜であっても人の多い大通りと比べると、人気のない道には地面を蹴るヒールの音だけが響いた。
 女一人が出歩くのに遅すぎるという時間ではないが、遠くの方で聞こえる野犬の鳴き声が月明かりもない真っ暗な道を不気味にさせ、を急がせた。
「……!」
 ふと気づくと、ほとんど自分の足音と同時に響く異なる音がひとつ。
 始めは気のせいかと思っていたが、大通りから完全に離れてしまった今、の耳はその音を完全に捉えていた。
 手に持った鞄を強く握りしめて、さらに足を速める。
――やっぱり!
 のヒールの高い音と重なるように、ひたひたと低い靴音が続いていた。
 聞き間違いなどではない。恐る恐る、自然に鞄の中身を確認する振りをして立ち止まる。そうすると、同じようにもうひとつの足音もピタリと止んだ。
 は恐ろしくなって、ヒッと[D:22118]るような声を上げた。しかしすぐに、後ろの怪しい人影に自分が気づいたことを悟られてはいけないと、再び足を進める。
 先日、三好がに言った『物騒』とはこういうことだったのだろうか。は言いようのない恐怖に怯えながらも、彼からの忠告を思い出していた。
 家に辿り着く前に撒かなければ……。
 路上で仕掛けるつもりなのだろうか。それならまだいい。家を知られでもしたら、あそこには自分だけでなく家人もいるのだ。もしかすると、すでに家の位置など知られているのかもしれないが、の頭の中は、この辺りの地形を思い出し、今の状況から逃げ出すための術を必死に探した。
 少し行った先に、ここよりも狭い小さな裏路地があったはずだ。知った地元の者でもなかなか寄り付かない入り組んだ道。ほとんど、子どもたちの遊び場として使われている。
 あそこに入ってしまえば、きっと奴から逃げられる。そうは踏んだ。
 全身に響くように速打ちする鼓動を押さえるように、は大きく息を吸う。真っ直ぐに歩いていく、と見せかけて、その路地に差し掛かったところで身体を方向転換させた。そして、一歩そこに踏み込み、駆け出した。
 は息を切らしながら全速力で駆けた。右に曲がり、左に曲がり。自分でも、もうどこを走っているのかもわからなくなりそうだった。バタバタと地面を蹴るもうひとつの足音を聞きながら、必死に逃げた。
 息も絶え絶えになる頃、ようやく遠ざかった足音に、はゆっくりと足を止めた。辺りを見渡して自分のいる場所を確認する。息を整えながら、足を進め、先程まで歩いていた道に出る。周りに怪しげな人がいないか確認してから、狭い路地から飛び出した。
 押さえ込んでいた息を吐き出して、目元を押さえる。
 何がなんだかよくわからない。今にも飛び出そうとしていた心臓も、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。寿命がいくらか縮んでしまったかわからないな、とは苦笑を漏らした。
 走り回って乱れた髪に、洋服。このまま帰ったら家人に何を言われるか。帰宅してからのことを考えると、再びため息が漏れそうになる。それでも、早く家に帰らねば。もう人の気配はないとはいえ、あんなことがあった今、こんなところからは一刻も早く離れてしまいたい。
 ぱぱっと手早く髪と洋服を整え、は前を向いた。ゆっくりと呼吸を繰り返し落ち着いてみると、どこかの住宅から、夕飯であろう香ばしい香りが漂ってきた。さあ、先を急ごう。ぐっと鞄を持ち直して、一歩足を進めたところだった。
「――さん?」
「ギャア!」
 全身が飛び上がるほど、は驚いて声をあげた。いい齢の女がこんな声を上げて、この状況でなければ羞恥で居たたまれなくなるところだ。
 驚きのあまりに駆け出そうとしたが、ヒールが地面に引っ掛かり前のめりになる。顔面から地面に突っ込む前に、後ろから回った腕に身体を支えられて、寸でのところで転ばずに済んだ。
「み、三好さん……」
 顔を上げた先の見知った顔に、はほっと息を付いた。
「こんばんは、さん。どうかされたんですか?」
 隣に立つ、葡萄酒色のスーツに身を包んだ男――三好は口を開いた。
 先程撒いたはずだった人物がまた戻ってきたのかという不安に身体を強張らせていたは、普段と変わらない柔らかな三好の声に胸を撫で下ろした。ふらつく身体を支えられながら、体勢を整える。
 がしっかりと地面に足を着けたのを見届けると、三好は「それで、どうかしたんですか?」と再び尋ねた。
「あ、いえ、少し驚いただけです」
「少し、というには些か大袈裟な声だったように思いますが」
「……すみません」
 は先程の自身の痴態を思い出して恥じた。三好の顔を見られず俯くと、湿気を含む温い風がうっすらとほろ苦い煙草の香りを運んだ。洋服に染み付いた香りだろうか。煙草には明るくないが、確か、これは三好が好んで吸う銘柄だったように思う。再び柔らかく風が吹くと、その香りを見失った。
「――そういえば、三好さんはなぜここに……?」
「ええ、今日はこの近くで仕事があったんですよ」
 三好は歩いてきた道の先を指して言った。
  は頷いて、はっと顔を上げた。
「あ、あの、三好さん。ここに来る途中で、怪しい人を見かけませんでしたか?」
「怪しい人……?」
「あの、なんだかつけられていたような気がして……」
「いえ、見ていませんね」
「そうですか……」
 は三好に気取られまいとして、俯いて息を吐く。
 つけられていたのはあの時間、あの一瞬だけだったのだろうか。この周辺でなくても物盗りの噂はよく聞いていた。まさか、自分はこういう目に合うとは思ってもいなかった。今後はもう少し気を改める必要がある、とはぐっと唇を引き結んだ。
 三好はそんなの様子を覗き込んで、そして口を開く。
「家まで送りますよ」
「そんな! 大丈夫ですよ。すぐ歩けば着いてしまうんです」
「では、一緒に帰りましょう。僕もこちらの道ですから」
 は手を振って、三好の申し出を断った。しかし、三好は軽くその言葉を流す。
 三好の言い方では、断ることなんてできなかった。 は静かに頷いた。
「ありがとうございます、三好さん」
「家に帰るだけです。なんともありませんよ」
 三好の革靴が、地面を叩く。ただの店の客だったはずの男と、店以外のところでこうも近く出会うなど、は何かの縁を感じられずにはいられなかった。
 それに、実のところ、これからすぐ近くとはいえ、この暗がりの中を一人でいるのは心許ないと思っていたのだ。
 カツコツと、二つの音が誰もいない路地に反響して、不思議と耳心地を良くした。
 そのまま歩いていくと、屋敷の一角が目に入った。
 門の前まで歩くと、は一礼する。
「あの、ありがとうございました!」
 頭を上げると、三好の手が伸びる。
 三好は、自然な動作でさらりとの崩れた髪を耳にかけた。
 は自身の様を思い出して、羞恥に顔を染めた。視線を彷徨わせて、三好の背広のボタンのひとつを見つめることにした。
 仕方のないとはいえ、あまりよろしくない格好をしているのだ。普段から、特別に綺麗な身なりをしているわけではないが、何故だろうか。この人の前では、はしたのない姿ではいたくないと思う。
「夜道には気を付けて、と言ったでしょう」
 三好の言葉に、はバッと視線を上げる。
 髪をすいていた手を帽子の鍔にかけ、三好は口元に弧を描いた。
 見間違いだったのだろうか、が瞬きをしてもう一度見ると、三好はいつもの微笑みを浮かべていた。
「みよ――」
「おやすみなさい。またマスターのコーヒーをいただきに行きますよ」
「え……? はい、お待ちしてます」
 なかなかその場を去らない三好をは不思議に思ったが、すぐに自分が屋敷の中へ入るまで帰らないのだということに気づいた。もう一度、三好に慌てて頭を下げると、屋敷の中へ飛び込んだ。
 窓から外を確認しても、すでに三好の姿はない。
 気づけば、雲が晴れ、満月に近い月が青白く、ぼんやりと辺りを照らしていた。

20160704