香るモカ
 蓄音機から欧米の音楽が流れる店内はゆったりとした時間が流れていた。耳慣れない音楽だったが、これを聴いているのが好きだった。
ちゃん」
「はーい」
「悪いね、ちょっと遣いを頼んでもいいかい?」
「もちろんです」
 お客も疎らになった頃、マスターに声をかけられて立ち上がる。必要なものを書いた紙をもらい、いくらか小銭の入った財布を手渡された。
 仕事用の服の上から外着を羽織り、扉を開けると、取り付けられたベルがからんからんと音を鳴らした。
 年号が昭和に変わり、欧米・近代化がさらに進んだ日本。繁華街には百貨店、劇場や映画館が建ち並び、多くの人で賑わいをみせていた。
 その繁華街から少し離れた路地裏に、小さな喫茶店が営まれていた。つい十数年前までは、コーヒーは極一部の上流階級の嗜む物という扱いであったのたが、ここ数年で大衆化し、コーヒーが飲めるカフェーや喫茶店がどんどん増えた。
 元々の顔見知りであったあの店のマスターに声をかけられて給仕として働いている。近頃は、酒も出し女が接待をするような喫茶店(カフェー)もあるようだが、こちらは所謂純喫茶。主に背広姿の日本人や外国人の男性客が多く、一人で来る者もいれば、休日には仲間内数人で賑わったり、異性との会合の場に使われていたりしている。正直、コーヒーのあの苦味のある味はあまり得意ではなかったが、店に来る客と話す時間やゆったりと時間が流れるあの空間が心地よくて、あの店を気に入っていた。
 平日でも賑わう繁華街を抜け、行きつけの店を何軒か回った。重さの増えた手提げを腕にかけ、店までの道を戻る途中だった。
 見慣れた背広姿にあっと声をあげると、その人はすぐにこちらに気づいたようだった。
「おや、さんじゃあないですか」
 こんにちは、と頭を下げれば、三好さんは被っていた帽子を手に取り、にこりと微笑んだ。
「お遣いですか?」
「ええ、そうなんです。もう終えたところで」
 腕に掛けた手提げに視線を落とすと、三好さんは「ああ」と頷いた。
 そして、隣に立っている背の高い外国人――おそらく欧米なのだろうが全くどこの国の方か見分けがつかない――に何やら外国語で話をすると、わたしの手にあった手提げを自然な動作で抜き取った。
 あっ、と声をあげるよりも先に、三好さんは「行きましょう」ともう片方の手を背に回し、先を促した。
 突然のことに慌てて、三好さんのお連れの外国人の方にぺこっと頭を下げる。手を振ったその人の言葉を繰り返して「しーゆう」と手を振り返すと、隣からクスクスと笑い声が聞こえた。
「……なんですか」
「いえ、」
「異国の言葉などわかりませんもの」
 拗ねたように言ってみれば、「お上手でしたよ」と三好さんんは口元を覆う。帽子の影で誤魔化しているつもりかもしれないが、三好さんよりも背の低いこちらから弛んだ目元は隠しきれていない。
「笑いすぎです!」
「笑ってなんかいません」
「いいえ、馬鹿にしているでしょう」
「可愛らしいなと思っただけです」
 この人は、よくも簡単にそんなことを。
 相変わらず喉の奥で笑うのをやめない三好さんに目を細める。ぽっと熱の籠った耳を悟られないように、誘導されるように肩口に添えられた手から離れて、一歩横にずれた。
 三好さんは一瞬だけ目をぱちくりと瞬かせると、その距離を保ったまま様子を伺うようにこちらを見やった。
「はぐれてしまいますよ」
「一人でも帰られますから、結構です」
「このままだと、きっと僕の方が先に着いてしまいますが」
 「いいんですか?」にこりと、爽やかに笑ってそう言って三好さんは足を速めた。
「だ、ダメです!」
 人質だ、と言わんばかりに手提げを掲げた三好さんの腕に飛び付くようにして、元の位置に戻る。
 遣いを頼まれて出たのに、お客様がその遣いの品を持って帰ってきたら、さすがに咎められないわけがない。
 どうにか丸め込まれた気がしないでもないが、再び三好さんの隣に並んで歩く。
 上手く人の波を流れるように歩く三好さんの隣はとても歩きやすい。そうして歩いていると、すぐに店に到着した。
 三好さんが開けた扉をくぐると、店内には疎らに客の姿が見える。そのままどうぞ、と席に案内する。仕事用のエプロンを着けて、三好さんに持たせてしまっていた手提げを受け取り、棚や倉庫に片付けた。
「何を飲まれますか?」
「コーヒーを」
「はい!」
 せっせと豆を挽くと、マスターがそれをサイフォンにセットする。こぽこぽと音を立てるフラスコ。熱した湯がロート内に上がっていくと、真新しいコーヒーの香りが広がった。
 煙草をくわえながらそれを眺めていた三好さんの隣に立ち、耳打ちをする。
「これは私がご馳走させていただきます」
 お荷物、持っていただいたので。
 三好さんが口を開く前に後を続けると、三好さんは「では、いただきます」と顔を綻ばせたので、ほっと息をついた。
「――そういえば、三好さんは英語が堪能なんですよね」
「まあ、一通りは」
「私にも教えてくださいませんか?」
 三好さんは不思議そうにこちらを向いていた。何でまた、とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「最近では欧米の方のお客さんもいらっしゃるんです。簡単な、挨拶でも覚えられたらと思って」
「ああ、なるほど」
 三好さんと二人して、コーヒーを淹れるマスターを見やると、彼は肩を竦める動作をする。店は落ち着いており、私はカウンターを挟んで三好さんの向かいの椅子に腰かけた。
 「じゃあ、挨拶から」と三好さんのご教授でいくつかの単語を記憶した。記憶しただけであり、実際に使うとなればまた別だ。忘れないように、と裏紙に三好さんは線の細い字で英文と日本語の二つを書き並べた。 それを大切に折り、ポケットに仕舞った。
「私も、覚えている言葉があるんですよ」
 以前、英国人男性の客に教えてもらった英語がある。得意気にそう言うと、三好さんだけではなく、マスターも興味ありげにこちらに視線を投げた。
「あいらぶゆう、です」
 一言、拙いながらも男性から聞いた言葉を真似た。
 マスターはぎょっとしたように目を開き、三好さんも一瞬の沈黙のあと、ぶっと吹き出すように笑う。
「ま、間違っていましたか……?」
「いえ、失礼」
 崩した顔をすぐに引っ込めて、三好さんは咳払いをする。苦笑を漏らしながら、マスターが三好さんの前に淹れたてのコーヒーを置いた。
 カップを口にした三好さんが、喉を上下させ、そして口元を引き上げた。
「I can not stand you are teased by someone else」
「え?」
「学ぶ意欲があるのは結構なことです」
「……じゃあ、笑われない言葉を教えてください」
「ええ」
 仏頂面を浮かべる私を、三好さんは気にする様子もなくコーヒーを啜った。
 カラン、と扉が音を立てて開き、数人の客が入店した。いらっしゃいませ、と声をかけて、テーブルへ案内する。
「――ああ、もう行かないと」
 腕に着けた時計を確認し、三好さんは残りのコーヒーを飲み干してカップを空にすると、帽子を取って立ち上がった。
「あ、三好さん。またいらしてくださいね」
「はい、近いうちに」
 扉に手をかけて、三好さんは思い出したように振り向いた。
「――最近、この周辺は物騒なようなので、特に、夜道には気を付けてくださいね」
「わかりました」
 扉の硝子越しに、小さくなる背広姿を見つめた。入ったばかりの客に呼びつけられて、窓から視線を逸らす。
 丁度、蓄音機の音楽が切り替わり、調子の良い音楽が流れ始める。店内の所々でカップとソーサーが重なり合う音が響いていた。

20160703