香魔
 ふわりと嗅ぎ慣れない香りを感知して、田崎は顔を上げた。鼻をひくつかせて、出所を辿るとからのようだった。
 ふんふん、と鼻唄を歌いながら陽気にはたきをかけるのもとへ近づいて声をかける。
「なんだが甘い香りがするけど、どこか行ったの?」
「あ、田崎さん。わかりますか!」
 掃除をしていた手を止めて、は首もとを手で扇ぐ。より一層強くなった香りには満足げな表情を浮かべた。それは田崎にも届いて、内心眉を顰める。花のような、しかし甘すぎる香りは人工的で、あまり得意ではない。田崎の隠した本心に気づくわけもなく、は言葉を続けた。
「実は、ムシューエリックにいただいたんです」
「エリック……?」
「はい、フランス領事館の」
 フランス領事館といえば、最近が任務の一環として遣いに出されていた場所だ。若い女からの届け物、といえば多少の警戒心は薄れるものだ。行って帰るだけ。そんな簡単な遣いの間に、どうしてそんな頂き物ができるのだろうか。田崎はに尋ねた。
「先日、お声をかけていただいて一緒にお茶をしたんです。その時のお礼だと言って、」
「茶?」
「ええ」
 にこにこと嬉しそうに話すに田崎は頭を抱えたくなった。
 それは、口説かれているのではないのか。食事に誘い、それに付き合ってもらったからと贈り物をするのは女を口説くときの常套手段だ。しかも、フランスでは、香水を贈るのは「独占したい」の意味があるという。易々とひっかかり、純粋に喜ぶ様子を見せる彼女のおめでたさに、田崎は内心舌打ちを溢す。
 相変わらずぱたぱたと手を使い、いい香りだなんだのを繰り返すの肩を掴んで制した。
「こっちへ」
 困惑するに構わず田崎は腕を引いた。
 の自室の前へ着くと、田崎は扉を開けるように示す。相変わらずわけがわからないといった表情を浮かべているが、言う通りには自室の鍵を解いた。
「どうしたんですか? 田崎さん。散らかっているのでお恥ずかしいんですが……」
 は視線を彷徨わせながら、おずおずと口を開いた。恥ずかしい、などと言いながらきちんと整理整頓されている部屋を見渡して、田崎は棚に置かれた探し物を見つけた。
「これかな? ムシューエリックからの贈り物は」
「ああ、それです。田崎さんもつけられます?」
 田崎はその小瓶を手に取ると、蓋と一緒になっているガラス棒で中の液体を手の首に塗り込んだ。動きのある度に、ふわふわと甘い香りが部屋に広がる。
 やはり、作られた甘い香りは苦手だ。それも、他の男からの贈り物とあれば、余計に好きになれるはすがない。
 じっと田崎に視線を向けるに、田崎は柔らかく微笑んで、そして手を伸ばした。
 伸びた田崎の手に、お互いにつけられた香りがよりいっそう強くなる。大の男から漂う香りがちくはぐで、逆にそれがを惹き付けた。似合わないどころか、どこか甘美な雰囲気さえ作り出してしまう田崎が恐ろしい、とは思う。
 頬に添えた手で骨格を撫でられると、はむず痒さに目を閉じた。そして、動く田崎の気配を感じ、気づいたときにはお互いのそれが静かに重なっていた。
 突然のことにハッとして、が身を捩ろうとしても、いつの間にか後頭部に回されていた手で固定されて叶わなかった。薄く目を開くと、真っ直ぐにに向ける視線とかち合って慌ててぎゅっと目を強く瞑る。啄むように触れる唇を徐々に抉じ開けられ、貪るような深いものに変わる。頬に添えられた手で耳元を撫でられ、なにかがゾクゾクと背筋を迫り上がるのを感じた。
 これ以上はまずい。は危機感を感じて、先程より強い抵抗を示すが、田崎にはこれっぽちも効かなかった。
「んん〜……っ!」
 唇が離れる隙間から必死で息を吸い込むが、足りない酸素には顔を歪めた。それでも離れない田崎に、このまま死ぬのかとすら考えた。
 そんなの様子に苦笑を漏らし、田崎はわざと軽い水音を立てて唇を離す。肩で息をし、息苦しさに目に涙を浮かべる姿に情欲が増した。文句の言葉でも出てくるだろうか、とが言葉を発するのを待ったが、大きく呼吸を繰り返すだけでは何も言わない。やりすぎたかと彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「………し、」
「し?」
「死ぬかと思いました……!」
 震える声を絞り出して、は言った。
 その予想外の言葉に田崎は目を丸くする。笑いだしたくなったが、それは内心に留めておくことにした。
「まさか。死なない程度に加減はしてたんだけどな」
「そうでなかったら困ります!」
 何てことのないように笑う田崎に、は声を荒げた。もちろんそれは田崎には効かず、相変わらず柔らかく笑うだけだ。
のキスの仕方が悪いんじゃない?」
「なっ、」
 まずい。
 田崎の言葉に危機感を察知するが、もう遅かった。先程と同じように後頭部を掴まれて、引き寄せられる。そうして、そのまま足を絡めとられ、近くのベッドに雪崩れ込むようにして倒された。
 軽いものではなく、はじめから深く舌を絡めとられる。未だ息も整っていないというのに、田崎の容赦のない攻めにはいよいよ泣き出したくなった。
「ふっ…、んんっ」
 互いの唇の間から漏れる声と濡れた音に耐えられない。は頬を染めて羞恥に身悶えた。
「キスの間は、鼻から息をするんだよ」
 一度ゆっくりと唇を離して、田崎が優しく声をかける。自分が酷くしているというのに、労るように目元の涙を指で拭う田崎に複雑な心境だった。怒ってやりたいのに、そういう顔を向けられてしまってはその雰囲気に絆されてしまう。
 田崎の言った通りにがすると、いい子だね、と頬を撫でた。そうしてまたなくなった距離に、は諦めにも似た感情が芽生える。
 舌を甘く噛まれは身体は跳ね、歯列をなぞられれば甘い痺れが全身を駆けた。田崎の言う通りにしても、ほとんど落ち着いて呼吸などさせてもらえないのだと、は気づいた。
 頬に添えられ、がっつりと固定された手から、あの香水の香りが強く鼻につく。むしろ、それが虚ろになった思考をさらに弱めるような気さえした。
「た、田崎さ……もう、」
「ん?」
 唇の離れた一瞬の隙を見て、田崎に声をかける。懇願の視線を田崎に向ける。そして、仕方がないなと息を吐いて身体を離した田崎にほっとした、のも束の間だった。
 離れた唇が今度は首筋を這い、は驚いて、思わず素頓狂な声を上げた。
「な、なにして…!」
「男に匂いをつけられるっていうのはこういうことだよ」
「あの、意味が……、ひッ」
 がっちりと絡めとられた足に、の細やかな抵抗などほとんど無意味に等しかった。肌を這うように動く田崎の手に、の頭には諦めの二文字がちらついた。
 結局、この後、が贈り物である香水をつけることは二度となく、インテリアとして棚に置かれることになったのだった。

20160710