純粋無垢を踊らせる
視線を逸らしたら負けだ。向かい合わせに座り、煙草の煙を燻らせる田崎さんと視線を合わせて、ごくりと息を飲み込んだ。
私に対して、というか女性に対して田崎さんはとても紳士的であり、優しい人だった。
彼の仕事について詳しいことは知らないが、仕事であまり暇が取れないという彼が、貴重な休みを使ってお茶に出かけにきてくれた。それだけでも喜ぶべきことなのだが、今の私の心中は穏やかではなかった。
先日、知り合いの営む店の手伝いに出かけた時のことだった。新宿の街を歩く人々の中に、田崎さんの姿を見かけた。仕事中だろうと気を遣って声をかけるのはやめた。しかし、人の波が避けた際に見てしまったのだ。田崎さんの腕に手を回し、ぴったりとくっついて歩く女の姿を。
「どうかした?」
じいっと視線を離さない私に、ついに田崎さんが口を開いた。
「……田崎さん、お伺いしたいことが」
「うん?」
「あの、田崎さんって、」
テーブルの上で握った手に力を籠める。
あの女は誰だったのか。知りたい。しかし、聞きたくないという矛盾した思いがぐるぐると胸をかき回す。
言いよどんでしまうと、田崎さんは「何かあった?」と眉を下げて心配そうに手を伸ばす。横に流した前髪を揃えるように撫でられて、きゅうっと胸が締め付けられた。
もういっそ知らなくていいことは知らないままでいいのではないか。下手な好奇心と猜疑心は身を滅ぼす。特に異性関係では。
「いいよ。なんでも言ってごらん?」
やっぱり大丈夫です。そう言ってしまえばいいのに、馬鹿な私は思いとは反対の言葉を紡いでいた。
「先日、金曜に新宿でご婦人と歩かれていたのを見かけました。あれは、田崎さんですよね?」
言ってしまった。軽い調子で聞こうと思っていたのに、きっと顔は強張っているし、勘の良い田崎さんなら取り繕ってもすぐに悟られてしまうに違いない。バクバクと心臓が速打ち、口から心臓が出そうになるとはこのことかと思った。大げさではなく、このときは本当にそう思ったのだ。
「……金曜? 新宿?」
ほとんどわからないほど田崎さんは一瞬目を見開くと、少し考え込むように口を噤んだ。
これは、もしかして。嫌な汗がじんわりと額に滲むのがわかった。ごくりと唾を飲み込んで、田崎さんの言葉を待った。
「いいや、その日は仕事で横浜にいたんだ」
「――え? 横浜?」
「そうだよ」
田崎さんはクスリと笑って、紫煙を吐き出した。
「いつですか? お昼は、新宿にいらっしゃったんじゃ……」
「その日は一日仕事で缶詰めだったから」
「え、ええ……?」
今一度、先日の自分の記憶を呼び戻した。あれは、確実に田崎さんだったはず。私が田崎さんを見間違うはずがない。
田崎さんへもそれを伝えると、彼は困ったように笑顔を浮かべるだけだった。
「、もう一度よく思い出してみて」
「……はい」
「君が新宿にいた時間、俺は横浜にいた」
「本当なら、ですけど」
「お昼時の新宿なんて、俺と似通った恰好をした男なんていくらでもいるだろう」
「ええ、でもあれは間違いなく田崎さんでした」
「どうかな?」
持ち手まで吸い終えた煙草を灰皿に押し当てて、田崎さんは言った。
「同僚に連絡して確かめてみようか?」
「え、あの、そこまでは……」
そう田崎に言われて、狼狽えた。田崎さんの仕事の関係者にまで迷惑をかけるわけにはいかない。
狼狽えた私の意を汲んで田崎さんは頷いた。
「ちゃんとその男の顔を見たのかな?」
「はっきり、とは言えないですけど」
「では、婦人の顔は?」
「え、えーと、ぼんやりと……?」
突然に始まった詰問に怯んでしまう。思わず逸らしたくなった視線を、ぐっと耐えて田崎さんを見つめた。
「その時の男の服装は?」
「背広姿でした」
「髪型は?」
「髪型……。帽子を被られていたような、」
「ような?」
「ぼ、帽子を被っていらっしゃいました!」
「へえ」
新しい煙草に火を点けて、田崎さんは続けて口を開いた。
「体型は?」「声は?」「話し方は?」と、追い打ちをかけるような質問に、ただ答えらずにいた。
「本当にそれは俺?」
切れ長い目が見咎めるように向けられて、うっと言葉が詰まる。
あの時に見かけた男が、絶対に、間違いなく田崎さんだという自信があったはずなのに、果たして本当にそうだったのだろうかという疑心を抱き始めていた。
「……田崎さんではなかったんですか」
「君がそう思いたいなら、それでもいいけど」
息と一緒に吐き出された紫煙が、二人の間に白く靄をかけた。
私が好きな田崎さんがよく見せる笑顔のはずなのに、突き放すような言い方に背筋が凍ったような気がした。
「ち、違います! 田崎さんかな、と思っただけで……。すみません、疑うようなことを言ってしまって」
やはり、言うべきではなかった。
仕事をしていたという田崎さんを信用せずに不当な疑いをかけてしまった申し訳なさと罪悪感に俯いた。田崎さんの前でなければ、このまま突っ伏して馬鹿馬鹿と声を上げたいくらいだった。
「怒りました……?」
「いや、わかってくれたならいいんだ」
しょげかえって俯く私を責める様子もなく、田崎さんは頬杖をついて真っ直ぐにこちらに視線を向けた。
「でもよかったよ」
「……何がです?」
「俺が他の婦人と一緒にいたら、はやきもちを妬いてくれるんだってわかったからね」
「それは……!」
田崎さんの言葉に、羞恥に顔を赤らめた。
そんな私の様子を見て、田崎さんはクスクスと笑う。それが余計に恥ずかしくなって、一層顔が上げられなくなる。
「すっかり冷めてしまったね。新しいコーヒーを頼もうか」
ウエイトレスを呼びつけて、新しく注文を伝えていく。すっかり大人しくなってしまった私を見かねて、田崎さんはショートケーキを一緒に注文した。
運ばれてきたケーキを見るなり、先ほどの落ち込みようはどこへ行ったのかというほど浮かれてしまう私を、可笑しそうに田崎さんは笑うのだった。
20160707