色惑
 夜の食堂で一人、食後にちびちびと日本酒を煽っていた。
 一人で飲むのもたまにはいいものだが、話し相手のいない晩酌というのは私には少し寂しく感じる。

 日中、結城中佐から任された雑事を済ませて、飯時前には大東亞文化協會に戻ったというのに、協會には誰の気配も感じられなかった。聞けば、機関員たちは皆揃って外に出たというではないか。
 美味しい夕飯を期待して家に向かう足を急がせたのに、空っぽの建物内に入るなり、私はがっくりと肩を落とした。

 こうなったらここにある酒瓶全て空けてやりますからね、と未だ帰らぬ彼らを思い出し、半ば自棄になりながらグラスを傾けた。
 空になったグラスに酒を注ぐために瓶を手に取った。ところがそこに置いたはずだった酒瓶は他の手に取られ、伸ばした手は宙を掠めた。

「一人で一升瓶を空けるつもりですか?」
「……三好さん。帰ってたんですね」
「今帰ったところです」

 人の気配などしただろうか。扉の音も、足音も全く聞き逃していた。酒が入ったせいで注意力が鈍ったのか。
 突然現れた三好さんに、心臓が速まった。ここまで近づいていた三好さんに気づかなかった自分への焦りと驚きで、一瞬呆けた顔をしてしまった。すぐにそれを隠したが、三好さんには気づかれてしまっていたかもしれない。

「お早いお帰りですね。他の皆さんはどうしたんです?」
「さあ。甘利や神永辺りは女給でもひっかけているんじゃないですか」
「あら。三好さんは良かったんですか?」
「おや、置いていってしまったこと怒ってます?」
「お、怒ってません」

 ぐっとグラスを握りしめて、中身が空だったことを思い出した。
 三好さんはスーツの上着と帽子を脱ぐと、食器棚から新しいグラスを取って隣の椅子に腰を下ろす。そして、酒瓶を持った三好さんが二つの空のグラスに酒を注いだ。

「三好さん、また飲まれるんですか?」
「一人で寂しく飲んでいる女性を放っておけませんからね」

 カチン。乾杯の合図で、グラスがぶつかる音を立てる。
 三好さんや、三好さんの洋服から煙草の匂いや酒匂いがする。もう十分飲んできたのではないのか。そう思ったが、ぐっと酒を喉に流し込んだ様子を見て、同じようにグラスに口を付けた。

「寂しく見えましたか」
「ええ、貴女と月桂冠の並びがこんなに哀愁深いものだとは思いませんでした」
「くっ……」

 チクリと胸を刺す三好さんの言い様から、逃げるように酒を煽る。それを見て、三好さんはクスクスと笑い声を漏らした。

「面白がってますね?」
「ええ、まあ」
「………………」

 口端を上げて煙草を咥える三好さんを一瞥した。
 三好さんは、いや、ここにいる人たちは皆、何を考えているのかわからない。試験も訓練も、自分にできないなどないと確信しているようだ。頭脳明晰、運動能力も高い。そしてプライドも高く、 全く何の取り柄もない自分からしたら『わけのわからない人たち』なのだ。
 以前、甘利さんにこの事をこぼしたら「皆、わかりづらそうに見えて、すごくわかりやすいと思うけどな」なんて言われてしまった。
 それはきっと、甘利さんも同類だからだ。
 テーブルに突っ伏して、ため息をついた。
 煙草を燻らせていた三好さんが「酔いましたか?」と首を傾げる。
 
「……そうではないんですけど」
「貴女をおぶって部屋に連れていくなんてごめんですよ。加減はしてください」

 優しさの欠片もない言い様に、テーブルに突っ伏したまま三好さんをじっと睨み上げた。
 三好さんは何ともない様子で、煙草の煙を吐き出した。
 下から見上げているのに、女の私よりも整った顔立ち、睫毛の長さに嫉妬心すら湧いてきた。

「……三好さん」
「はい」
「何でそんなにお肌が綺麗なんですか?」
「……は?」

 灰皿に置いた煙草をぐしゃり、と潰して、三好さんは眉根を寄せた。

「手も、爪も綺麗ですね。羨ましいです」
「……急に何ですか」
「別に。ただ思っただけです」

 じいっと向けた視線を、三好さんは居心地の悪そうにして、新しい煙草に火を点けた。
 「ちょっと見せてください」と、煙草を持つ手に手を伸ばすと、三好さんは眉を顰めて反対の手を差し出した。
 触ってみると、案外角ばった手をしていた。機関員の中では小柄な方ではあるが、しっかりと男の造形をしたそれに不思議と安心した。キメが細かい肌は羨ましい限りだ。

「爪のお手入れもされてますね」

 三好さんの手の観察に夢中になってしまい、平や甲をひっくり返したり、骨をなぞっては好き放題に触ってしまった。
 何も言わない三好さんにハッとなって、恐る恐る視線を向ける。意外と嫌がるでもなく怒るでもなく、ただいつも通りの表情を浮かべていたので、ほっと息をついた。
 三好さんは自分の爪先を見つめ、口を開いた。

「まあ、そうですね」

 刹那、音も立てずに三好さんは距離を詰めた。
 首筋にぴたりと添えられた指は、触れるか触れないかのところで止められている。
 予期していなかった三好さんの行動に、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

「――こうやって、仕留めることもありますから」

 猫のように切れ上がった瞳に射ぬかれて、呼吸すらも忘れてしまいそうだった。
 そんな私の様子を見て、くつくつと笑いながら三好さんは身体を離した。一瞬で緊張した身体をから力が抜け、止まっていた機能が再び動き出したかのように、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「……ほ、本気で」
「まさか」
「……殺さないんじゃなかったんですか」
「殺しません」

 「馬鹿馬鹿しい」そう言って三好さんは肩を竦めた。
 今の一件で、すっかり酔いが醒めてしまったような気がする。まだ少し残っている酒瓶に手を伸ばそうとすると、三好さんの手がそれを横取った。

「……まだ飲めます」
「そう言える内に止めておくのが賢明ですよ」

 二本目の煙草を灰皿に押し潰して、三好さんは立ち上がった。
 そう言われては仕方がない。しぶしぶ立ち上がると、三好さんが手を差し出した。

「部屋まで送りましょうか」

 人の良さそうな笑みを浮かべて言う三好さんの、その手を見つめる。
 やっぱり、何を考えているのかわからない。わかることなどずっとないのだろう。

「結構です」

 三好さんの横を抜けて、食堂を後にする。
 背中にかけられた「おやすみなさい」の声に、後ろ手に手を振った。

20160705