中毒
閉じられた扉越しにでも鼻を霞める苦い香りに、は思わず顔をしかめた。部屋中を充満しているであろう紫煙が、あまり得意ではなかった。
微かに煙を含んだ空気を思い切り吸い込んで息を溜めこんで、ついに扉に手をかけた。
「あれ……?」
会議室にいると思っていた人影達は見当たらず、テーブルの上には、灰皿に煙草が一本、火の点いた状態で置かれていた。
はそこに近づくと、大きくため息を吐いた。
全く誰がこんな状態にしておいたんだ。火事でも起きたらどうしてくれる。
は煙草を手にすると、灰皿に押し付けようとして、ピタリとその動きを止めた。
ほんの何年か前までは、とても高価なものだった紙巻煙草であるが、今やほとんどの男性の嗜好品となっている。ここでも機関生のほとんどが喫煙者だ。
煙草特有の、香ばしい苦い匂いを敬遠し、自身で吸うことは一度もなかった。あんな得たいの知れない、苦い煙を吸い込んで、どうなってしまうのかわからない。それが恐ろしいのに、喫煙する者からすると、一度吸ってしまえば手離せなくなる、というのだから、はずっと不思議に思っていた。
誰もいない会議室で、きょろきょろと辺りを見回して、人の存在がないことを確認した。
――少しだけなら。
強い好奇心が勝って、は手にした煙草を口元に寄せた。
ゴクリと喉を鳴らして、意を決してそれを吸い込んだ。
「……?」
半分ほど空いていた扉から、姿を見せたのは田崎だった。
突然に声をかけられて、は全身を飛び上がらせた。そして、吸い込みかけていた煙が気管に入り、大きく噎せ込んだ。
「大丈夫かい?」
近くに寄った田崎が、腰を丸めて噎せ返るの背を擦る。
噎せが強いせいで、弁解の言葉も難しい。目尻に涙を滲ませて、は田崎と視線を合わす。大丈夫か、と心配そうな素振りを見せていながら、彼は可笑しそうに口元を緩めていた。その含み笑いにが眉を顰めるのを見て、田崎は隣の椅子に腰を下ろした。
「煙草なんて、得意じゃないだろ」
「……そうだけど、気になったんです」
普段の柔らかな声はどこへいったのか、噎せ込んだせいで掠れた声を無理矢理引き出したようには言った。
「へえ。で、どうだった?」
「……最悪ですよ」
うええ、と下を出して顔を歪める真似をしてみせるの様子を、田崎はテーブルに頬杖をつきながら眺めていた。
「それより、田崎さんですか? 火を着けたままでこんなところに置かれて、火事にでもなったらどうすんですか!」
「ああ、」
先程の様子とは打って変わって、眉を吊り上げては田崎を問い詰める。
その変わり様が可笑しくて、田崎はまた吹き出しそうになったが、これ以上怒らせては面倒だと内心で留めておいた。
現在、任されている任務の書類を自室まで取りに行く間のほんの数分。ほんの少しの間、席を外しただけだったのだ。
「気を付けるよ」
「ほんとに、気を付けてくださいね」
ぷりぷりと怒るに、田崎は目を細めた。
「でも、この機会がなければの好奇心は満たされなかったろう?」
「うっ……。でも最悪でした……」
「それは残念」
クスリと笑い、田崎は胸のポケットから新しい一本を取り出す。それを見て、はげっと顔を歪ませた。
「……では、私はそろそろ失礼しますね」
お仕事もあるでしょうし。
付け加えられた言葉は田崎を気遣うものだったが、先程のことで煙草に苦手意識を強めたはそこから逃げたいというのが本当のところだった。
「ちょっと待て」
「……私も仕事がありますので」
「さっき、仕事が終わったから休みだ、と言っていたのはどこの誰だったかな?」
立ち上がろうとするを制するように、田崎の腕が伸びる。
嫌な予感、とは当たるものだ。機関員たちのように化け物じみた頭脳も記憶力もプライドもないであるが、勘の良さだけは自信があった。
にこりと田崎に微笑まれて、腰を椅子へ戻した。
田崎は口に咥え煙草に火を点けた。吸い込むと先端が燃え、ゆっくりと吐き出された息と一緒に煙が広がっていく。
やはり、どうしてもこの匂いは苦手だ。先程の苦しい経験もあり、は無意識に眉根を寄せた。
「美味しいですか?」
「いや、どうだろう」
「……?」
の問いかけに田崎は苦笑を漏らす。
美味しいか、と聞かれると正直困る。味があるわけでもない、香りがついているわけでもない。しかし、何故か止められないのだ。煙草の成分がそうさせているとしか言えなかった。
「」
「はい」
「君もきっと嵌まるよ」
は田崎の言葉に首を傾げた。
何のことですか。そう口を開こうとしたが、伸びてきた田崎の手掴まえられて、それは叶わなかった。
片手で後頭部を寄せられて、一瞬、まずいと思った。しかし、射止めるような視線が目に入り、何も対処ができなかった。気づいたときには田崎のそれと重なり、逃げようにも後頭部を掴まれていて離れられない。頬に添えられたもう片方の手の先で、ジリと火の焼ける音がした。
噎せ込んだ時の、あの草の焼ける苦味が再び口内へ流れ込む。目の前に手を伸ばすと、田崎のワイシャツに触れた。皺になってしまえばいいと、それを強く握り込んだ。
呼吸が苦しくなってきた頃、ゆっくりと離れた唇に、は仰け反るようにして思いきり後ろに下がった。その勢いで椅子がガタンと大きな音を立てる。
手の甲で口元を覆い、わなわなと唇を震わせた。
「た、田崎さん!」
「どうだった?」
「ど、どうもこうもありません! 何をしているんですか……!」
「ちょっとした好奇心だよ。と同じだ」
口端を引き上げて、柔らかい表情は変わらず田崎は飄々と言い放って、紫煙を吐き出した。
すぐそばにいるにも、その匂いは強く鼻につく。それが、先程の行為を思い出してしまい、の頬を熱くさせた。
「……こ、こんなこと、外の女の子にもいつもしてるんですか?」
「さあ、どうかな」
ふるふると震える声でが問うと、田崎はよそ行きの笑顔を浮かべた。
その爽やかさが、の怒りと屈辱感を強める。
強く握った手をこのまま振り回したら、一発ぐらいは当たるだろうか。いいや、やめておこう。後が怖すぎる。
は唇をくっと引き結んで、部屋を飛び出した。
「田崎さんの阿呆!」
飛び出した先の廊下で響いたの声を聞いて、田崎は苦笑を漏らした。
は自室まで駆けて、急いで身に付けているものを取り払った。新しい衣類に着替え、貰い物の香水をこれでもかというほど降りかけた。
これから先、田崎の銘柄の匂いで嫌でも思い出すのだ。どこかについた残り香が、つい先程まで一緒にいた男の顔を思い出させて、そばに置かれた枕を放り投げた。
自室のベッドに倒れ込んで、は唇を噛んだ。
好奇心は時として、自分の身にとんでもない事態を招いてしまうのだ。
20160704