喉元にキス
 情事後の気だるさは嫌いではない。空調の効いた室内に、二人の熱がじんわりと残り、自分のものではない体温と疲労感に包まれているのが心地よかった。いつの間にか、少しの時間眠ってしまっていたらしい。目を開けて卓上の時計を見れば、最後に見たときよりも一回り短い針が進んでいた。
 ゆっくりと規則正しい呼吸を繰り返すのは、昨夜この部屋に転がり込んできた男だ。顔見知りといえば、そうなのだが、こうなるほど親密な関係ではなかったはずだった。

 神永さんとの初めての出会いは銀座の飲み屋だった。いつも数人の男と連れ立ってやってくる常連で、度々彼らの姿を目にした。皆、揃って容姿も端麗、振る舞いも紳士的、そして知的な会話を交わす彼らが目立たないわけがない。そうした彼らに、狙いをつけて声をかけにいく女たちも何人も見た。そのまま女と飲み付き合う時もあれば、場所を変えるためか揃って店を出ていく時もあった。そういう時、ギリギリと奥歯を噛み締める店内に残る男たちを私は知っている。
 神永さんを見かけるようになってから、私もいつしかその店に通うようになっていた。たまたま一人で飲みに来ていたときに、こちらも一人で飲みに来たらしい神永さんが近くの席に座ったことが初めての接触だった。


「ん……、」
 寝息というには、あまりにも艶やかな声を漏らした神永さんに、心臓がどくりと打った。起きているのか寝ぼけているのか、はたまた未だ夢の中なのか。
 情事後にこうして肌を触れ合わせて抱いてくれるのは、男としてとても株が上がるのだが、いかんせん行きずりの行為から始まった関係である。正直なところ、神永さんがどういうつもりで私を誘ったのか全くわからない。遊びだとハッキリ言われてしまえば、こちらも気持ちが楽なのに。いつも一緒にいる女が変わる、と噂を聞いたことがある。今回も、きっと遊びなのだ。どうしてか、偶然にも彼の興味を引いたのが私であっただけなのだ。
 そう思うと、ぞわぞわと身体を這い上がるように憂鬱な気持ちがわき上がった。背中に回されていた腕を、ゆっくりと解き、彼の胸から身体を離す。起こしてしまうかと思ったが、彼は先ほどと変わらず、鍛えられた綺麗な身体をゆっくりと上下させているので、大丈夫らしい。
 ベッドの下に、勢いのまま脱ぎ散らかした衣類が散乱していた。下着を探すと、どう飛ばされたのか少し離れたところに肌着と一緒ににくしゃくしゃになって転がっていた。このまま起き上がると素っ裸で部屋を歩くことになる。身体を隠そうにもシーツは神永さんがくるまっていて、これを引っ張れば確実に目を覚ますだろう。唯一の人はすっかり眠っているし、見ている者は誰もいない。そろりと、床に足を下ろして目標のところまで足を進めた。素足がぺたぺたと床に吸いつくように、静かに音を鳴らした。
「――そんな格好でどこ行くのかな〜、ちゃん?」
 下着に手を拾い上げたちょうどその時、あまりにもハッキリとした声色、口調で背後からかけられた声にびくりと肩が飛び上がった。
 ベッドの上で、頬杖をつきながらニヤニヤととこちらを見つける神永さんの視線に思わず床にしゃがみこんだ。そんな私の様子を見て「もう見ちゃったんだけど」と笑う神永さんに、そばにあった服を投げつけた。それは神永さんに何のダメージも与えることはできずに、彼によって華麗に受け止められた。
 掴まえたそれをベッドに置いた神永さんにハッとする。あれは、今まさに私が着替えようとしていた服ではないか。口元に円を描いて、楽しげな様子の神永さんは、きっとそれに気づいていたのだ。途端に恥ずかしくなって、身を屈めたままきっと睨めつけるように神永さんを見た。
「か、返してください……!」
「取りに来なよ」
 神永さんは、その緩めた口元に煙草を一本咥えると、その長い手を使いベッド周囲にあった衣類を一ヶ所にすべて集めてしまった。
「いつでもどーぞ」
「神永さん……!」
 垂れ目がちの目を細めて、楽しそうに紫煙を吐き出す姿が憎らしくてしかたがないが、その姿が様になっていて胸がきゅんと高まってしまうのも事実だった。
 悔しい悔しい。私ばっかり弄ばれて。こちらばかり振り回されてばかみたい。
「か、神永さんなんか嫌いです」
「ええ〜。それ言っちゃう?」
「い、言います…! 嫌いです、神永さんなんて」
 恥ずかしさが突き上げて、思わず声を上げた私に、神永さんは困ったように眉を下げて、まだ半分も残りがある煙草をベッドサイドに設置された灰皿で潰した。
 少しでも肌を隠すようにと、自分の背中に腕を回して身体を縮こまらせた。視線だって合わせてやるものか。これはもう意地でもあった。
 少しの沈黙。
 視線の端でとらえた神永さんは特に何も動きはない。表情ははっきり見えないので、一体どんな顔をしているのか、想像すると少し怖い。
 嫌い、なんて嘘に決まっているのだが、これくらい言ってしまえば、もうこんな面倒くさい女など連絡を寄越す気にもならないかもしれない。一度きりなら一度きりで、はっきりと終わらせてほしい。心の中ではそう強気でいるのに、こんな風にわざと神永さんに呆れられるようなことをして自分で自分の胸を締め付けて、馬鹿みたいだと思った。
 視界の一部で、神永さんが床に足を下ろすのが見えた。そうして、両足が床についてこちらに足を向けるので、驚いてぎょっとした。
「かっ、神永さん…!」
 名前を呼んで顔を上げると、シーツも纏わず素っ裸の神永さんを見上げる形になって、思わず手のひらで顔を覆う。男の人の裸をまじまじと見たことなどあるわけがないし、しかもこんな素面の状態でなんて――。神永さんからは、両手で隠しきれない部分から真っ赤な私を覗けるのだろう。縮こまらせた身体を更に小さくすると突然、ぐらりと視界が歪んだ。顔を覆っていた手を離してバランスをとろうと動かすと、その手も上手く掴まれてしまう。気づいたときには膝裏に腕を回されて、ベッドへと放り込まれていた。
 一瞬、何が起こったのかわからなくて、目を瞬かせる。目が回ったように感じた。慌てて起き上がろうとするが、ベッドに沈んだ私の身体に乗り上げる神永さんに気圧されて、そのままシーツに沈んだ。
「俺が寝てる隙に帰ってやろうと思った?」
「……別に、そういうわけじゃあ……」
 時間も時間だし、帰るつもりはなかったのだが、神永さんとこれ以上一緒にいてはいけないと思ったのは確かだ。わかりやすく視線を逸らせた私に、きっと神永さんは気づいたはずだ。
 神永さんの髪が頬に触れたと思ったら、首元に這った熱にびくりを身体を震わせた。
「っあ……、」
 そのまま吸いつくように唇を落とされると、先ほどの情事を思い出して、お腹の奥の方からぶり返す熱を感じた。はじめから抵抗する気力などなかったみたいに、行き場のわからない手は神永さんの肩口にそっと添えるように置かれただけだった。
 突然、喉元を噛むように口付けられて、嗚咽が漏れそうになる。さっきまでの憂鬱などどこかに消えて、代わりに背筋をかけ上がるのは覚えのある情欲だった。乱れた呼吸の合間にひゅっと息を吸う。しつこいように喉元を攻められて、気管への圧迫感とそこだけを触れるばかりの焦れったさに、添えていただけだった肩を掴む。
「や、やだ……!」
「男を置いて帰るなんて真似をする子だとは思わなかったんだけどな」
「ちが……っ、神永さん……!」
 むず痒いような快感と、それをはっきりとさせる刺激が与えられないことに、もどかしさに涙が滲んだ。
 震えた声に、首元に埋めていた神永さんがゆっくりと顔を上げる。じわりと溢れた涙が頬を伝う。骨張った大きな手が頬を包み、親指で涙の跡を拭われる。再び沈んだ先でチクリと痛んだ肌に気づく余裕もない。
 吸ったばかり煙草の香りが強く鼻をついた。

 次に目が覚めたときには、皺になったシーツと、ベッドの端にまとめられた自分の衣服だけがここに残っていた。
 重い身体で寝返りを打つと、微かに染みついた煙草の香りが肺を通り心臓すらも縮めたような気がした。吸い込んだ空気を大きくゆっくりと吐き出した。客や給仕の顔見知りだってできたのに、もうあの店には行けないな、と思うともの寂しい。鼻の奥につんとぐした痛みを感じたのは、きっと、しばらく部屋の掃除をさぼっていたせいだ。誰もいないのならばと思い切りぐすりと鼻を啜ってやった。
 ぐずぐずと鳴る鼻を、さすがにシーツでは拭えなくて、少し離れたところにあるティッシュボックスに手を伸ばした。軋む身体に眉を顰めると、自分以外、誰もいないはずの部屋のドアが開かれた。
「!?」
 身体を伸ばした状態で音の方を向くと、きっちりとスーツに身を包んだ神永さんがいた。
「……え、なんで?」
 目を丸くして神永さんから視線を逸らせない。でもすぐに、自分の格好を思い出して慌ててシーツにくるまった。
「帰ったかと思った?」
 鼻にかかった声でぐずっていたのはきっとすぐに気づかれた。ニヤリ、と笑って神永さんはベッドの端に腰かける。
「帰ってしまえばよかったのに」
「ついさっき帰らないでって言ってたのはどこの誰だったかな」
「…………言ってないです」
 全く記憶にないことを言われて、時を遡ってみるがやっぱり覚えていない。正直、無意識であったのなら言ってしまいそうな台詞だと思った。意識を保った意地っ張りの私なら絶対にそんなことは言わないだろう。
 神永さんの試すような視線に耐えられなくなる。負けて視線を逸らした私を、神永さんは笑った。
 骨張った手で喉元をゆっくりとなぞられる。昨夜の情事を思い出して身体が震えたのを隠したが、神永さんならきっとこれも気づいているのだろう。
「また連絡する」
 そう言い残して、神永さんは部屋を出ていった。
 早く神永さんから離れたいと思うのに、こうやってまた次の約束を残していく彼にほっとしている自分がいるのも事実だった。

20160824