our ordinary morning
 その夜は、珍しく深夜に目が覚めた。
 まだ夢の中にいるようなふんわりした意識の中、体温で人肌に温められたシーツの中で身を捩った。少しだけはみ出した足の先に冷たい夜の空気が触れて、ぞくぞくと足先から身体の中心に何か這い上がってくるような感覚に身震いする。身体を丸めてシーツの中に収まりなおして、顔を上げると隣で眠る降谷さんは、静かに息を立てている。
 普段なら私がすっかり眠りについたころに帰って私の方が後に起きるので、今みたいにこうしてゆっくりと彼の寝顔を眺めることは珍しい。私より確実に睡眠時間は短いのに、私が目を覚ますと、ホテルやレストラン並みのしっかりした朝食が用意されているから本当に休めているのかと心配になる。それなのに、降谷さんは私にはいつも早く寝ろちゃんと休めと口うるさく、自分のことは棚にあげてあれこれ言う。
 手元にスマホでもあればこのレアな寝顔を激写するのになあ、なんて考えていると、降谷さんが眉を顰めて小さく唸る。悪い夢でも見ているのかもしれない。
 そう思って、そっと手を回して彼の色素の薄い髪を静かに撫でた。そうすると、不思議とすうっと穏やかな寝息に変わるので、それがなんだか可愛くてしばらくの間降谷さんの頭を撫でて過ごしていた。
 指通り良くサラサラと流れる髪が羨ましい。私だって、定期的にトリートメントでケアしているはずなのに。
 起きているうちになかなかこんなことはできないので、今のうちにと思い切り堪能する。
 降谷さんの髪が揺れるたび、微かに同じシャンプーの香りが漂う。嗅ぎ慣れた匂いのはずなのに、どうしてこうも胸がときめくのだろう。
 柔らかな表情でスヤスヤと寝息を立てる彼に、なんだか母性本能がくすぐられて、思わずかわいいなんて言葉がため息とともに口を滑って出てしまう。
 しばらくの間、そうしていると降谷さんが身動いだので、慌ててパッと手を離す。
 私は何もしてません、というようにまた大人しくシーツに潜り込んだ。
「……?」
「……」
 寝ぼけているせいか、若干呂律の回らない降谷さんに名前を呼ばれる。たどたどしいその呼び方が新鮮で、母性本能が高まった気がした。
 さっきまで自分のしていたことが、なんだか恥ずかしくて顔を上げられない。胸に顔を隠すようにして寝たふりを決め込んだ。
 わざとらしくはっきりと寝息を立ててみるけれど、おそらく降谷さんはこれがタヌキ寝入りだと気づいている。それでも起きて彼の声に応えないのは照れ隠しのためだ。
 さわさわとパジャマの裾から入り込んできた手にバッと顔を上げる。
「なっ……!」
「起きてるのかと思った」
「いま起きたの!」
「へえ」
 もう起きたと言っているのに、素肌を滑る手は止まらない。お腹側から回って背中の背骨に沿ってなぞられると、堪らずひっと息をのむ。
「……ねえ、いつも早く寝ろって言うの降谷さんじゃなかった?」
「それとこれとは別」
「……もう!」
 降谷さんはそんなとぼけたことを言うから、もう知らないと顔を背ける。結局は彼の腕の中に収まってしまっているので、そうしたところでどうしようもないのだけど。
 それを彼は可笑しそうに笑って、首筋に唇を寄せた。時折漏れる彼の息と、サラサラとした彼の髪が耳に触れて、擽ったさに身をよじる。さっきまでの穏やかな雰囲気はどこへ行ってしまったのか、二人の間に次第に熱がこもる。
 肩口に触れていた唇が、今度は耳、頬、目尻とだんだんと移動する。次に降谷さんと目が合った時には、ついさっきまで感じていた母性なんての気持ちはすっかり消え去ってしまった。
「降谷さん……」
「ん?」
「す、するの?」
「……が決めていいよ」
「じゃあ寝ます」
 おやすみ、と服に入り込んだ降谷さんの手をしっしっと払って目を瞑ると、次の瞬間、くるりと身体が反転して目の前には、なんとまあ悪い顔をした降谷さんと見慣れた天井。
「……わ、私が決めていいって言ったのに!」
「ごめん」
 口ばっかり謝っていても、こちらを見下ろす彼は心なしか楽しそうで。ああ、これはもうダメだと早々に諦めた私は彼に手を伸ばして、首筋に甘い痛みを感じながら目を閉じた。



 結局、次の朝には私のだらしのない寝顔を存分に観察し終えた降谷さんに起こされて目が覚めた。
 間抜けな顔をしてなかった!? とかよだれが垂れてなかった!? と聞いても、返ってくるのは、いつも通り可愛かったという殺し文句のような言葉だけで、朝から恥ずかしいのと、胸がきゅんと縮こまって心臓が止まりそうになる。
 穏やかな朝をもっと堪能したいけれど、時計の針に急かされて、のそのそと居心地の良い寝室から抜け出して二人で洗面所に向かう。
 ちゃきちゃきと準備をする降谷さんの方が早く、私が部屋に戻る頃には彼が朝ごはんの支度を進めている。それに合わせて私も二人分のコーヒーを淹れる。
 出勤前、降谷さんはピシッとしたグレーのスーツに身を包む。その姿があまりに出来すぎていて、自分が彼の恋人で大丈夫なのかと余計な心配をする。
 私には本当にもったいない彼氏だけれど、降谷さんはいつもそれを否定する。
 そうかな、と自信なく聞き返すと、彼はいつも決まって少しだけ眉を下げて笑って私に小さなキスを落とす。そのときめきコンボに私は何も言えなくなってしまう。
 いつでも出られる準備が万端な降谷さんとは対照的に、家を出る直前までバタバタと慌ただしく身支度を整える私に降谷さんは、これを忘れてるぞ、あれも持ったか、とまるでお母さんのように声をかける。
 先に出ていいですよと言うのに、降谷さんは大丈夫と出る時間を合わせてくれる。

 そうして、二人一緒に家を出る。
 降谷さんの仕事は、急な呼び出しがあったり、プライベートより仕事の時間が多いくらいの大変なお仕事だ。詳しくは聞かされていないけれど、きっととても誇らしいことなんだと思う。
 エントランスで降りる私と駐車場に向かう降谷さんは、このエレベータでお別れだ。
 貴重な降谷さんとの朝の時間が名残惜しくて、さりげなく彼に近づいてみる。
 香水でもない、整髪剤でもない甘さの混じった爽やかな香りが鼻をついて、バレないようにこっそりそれを吸い込んだ。
 そうしていると、不意に名前を呼ばれて、思わずむせそうになる。
「な、なんですか!?」
「……いや、気をつけて」
「はい。降谷さんも」
「仕事中、居眠りしないように」
「そんなのしませんよ……!」
 そんな冗談を言っているうちに、ベルが鳴りエレベーターがエントランスに到着したことを知らせる。
 扉が開こうという時に、降谷さんが私の肩に手を置いた。どうしたのだろうと彼を見上げると、その香りがぐんと濃くなった。
「なっ……!」
「いってらっしゃい」
 酸素の足りない金魚みたいに口をパクパクと開閉する私の顔は、一体どのくらい赤くなっているのか。
 降谷さんは、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
 エレベーターが閉まろうとするので、慌てて外に飛び出した。
 閉まりきる扉の隙間から、降谷さんが自分の髪をくるくると指で遊ばせて、「おそろい」と口を動かすのが見えた。
 こんな人目のつくかもしれないところでいってきますのキスをする降谷さんもだが、先ほどの自分の愚行がバレていることが恥ずかしくてますます顔に熱がこもる。
 朝から長風呂で逆上せたみたいになってしまい、口元はゆるゆると締まりがない始末。
 再び開いたエレベーターの中から、別の階の住人が降りてくる。平静を装いながら、おはようございますと挨拶をしてみるものの、一人になった私は緩む口元を隠すのに苦労した。

20190422