「また連絡する」その言葉を信じてずっと待っていたのだが、待てども待てども赤井さんから連絡がくることはなかった。
私がこの国にいる時間も残り少なくなってきた。そろそろ帰りの飛行機だって手配しないとならない時期だ。
忙しい人だということはわかっているから自分から連絡を取ることは憚られたし、一度行ったきりの彼の家はどこにあるのかわからない。知っていても、突然会いに行くだなんて、そんな勇気は私にはなかった。
帰国する前にどうしても、一目だけでも会いたいと思うのは私の我儘なんだろうか。
少しずつ帰国の準備を進めるため、今日も賑わう街に繰り出していた。ようやく慣れたこの街ともあと少しで離れなければならないと思うと、寂しさも感じる。
赤井さんと出会ってから、彼と会った回数はそれほど多くないのに、飲みに行ったお店だとかドライブをした道だとか強く記憶に残っていた。甘酸っぱいようなその思い出は、きっとこの地を離れる時には終わってしまう。
お気に入りのバーで、顔見知りになったマスターと顔を合わせながらカウンターに腰掛ける。
餞別だと渡されたカクテルは、赤井さんと一緒だった時にも飲んだもので、また彼を思い出してきゅうと胸が熱くなった。
「今夜はあのクールなボーイフレンドは一緒じゃないのか」
「……ぼ、ぼーいふれんど」
マスターの誤解に一人照れて顔を赤くしていると、「酔うのが早いぞ」なんて茶化された。
赤井さんとはそういう関係ではなく、健全な飲み友達だと拙い英語で伝えるが、マスターに「ハイハイ」と聞き流されてしまう。
ボーイフレンド、どころか恋仲になれたら嬉しいが、結局私は日本に帰る身。赤井さんはアメリカでの生活があるし、奇跡が起こって上手く行ったとしてもすぐに別れなければいけないのだ。
それなら最初から望みのない方が楽なのではないか、と思い始める。
――最後に、一目会えるだけでもいいのに。
わざとらしく大きくため息を吐いてカウンターに突っ伏した。前髪をひとつまみして、この間赤井さんが触れた感触を思い出す。やっぱり一目会うだけでなんて諦められるわけがないと心の隅っこで気持が逸る。
「お、嬢ちゃん。例の彼じゃないか?」
伏したまま無意味にグラスをくるくると回す私に、マスターのひそひそ声が落ちる。
ばっと顔を上げると、紛れもなく、赤井さんその人がお店の扉をくぐっていた。駆け寄って名前を呼びたい衝動を抑えて、深呼吸して迅る心音を落ち着かせた。
「「あ……」」
マスターと声が重なる。
赤井さんの隣には、スレンダーな金髪美女。長身でタイトなドレスを着た彼女は、赤井さんの隣にとてもよく似合っていた。
声をかけようとして開いた口は貝のように閉じて、赤井さんに気づかれないようにと静かに背を向けた。
しかし、気になるものは気になる。私はグラスに口をつけるふりをして、横目で二人の様子を伺った。少し離れた隅のテーブルに座る彼らは、全く映画の中の恋人たちのようでお似合いと言わざるを得ない。
「マスター……あの美女は誰ですか」
「うーん、あんまり見ねえ顔だな……」
カウンターに高さを合わせて屈んだマスターにひっそり耳打ちすると、どうやらあの美女は馴染みではないらしい。
今では馴染みのこの店は、赤井さんに教わった。彼も気に入りのところだなんて言っていて密かに特別感を感じていたのに、もしかしたら私だけではなかったのかもしれない。彼の特別でもないくせに一人で勝手に落ち込んでしまう。
だめだ。気にしても仕方がない。そう自分に言い聞かせても、気になってしまってしょうがない。不自然に背後の二人にチラチラと視線を向けてしまう私を、マスターは苦笑まじりに新しいお酒を作っていた。
「――ねえ、君」
「…………」
「ねえってば」
「……あ、私ですか」
ふと、突然肩をつついて声をかけてきたのは、カジュアルにジャケットを合わせた同年代か少し上くらいの男性だった。
くるりとした大きなロイヤルブルーの瞳が、バーの薄い暗がりの中でキラキラして見えて思わず一瞬見惚れてしまう。ほうけていた私の顔の前で手を振る彼にハッとすると、くしゃりと目元を細めて笑う。外国人らしくくっきりとした顔立ちをしているのに、案外可愛らしく笑うのだなと呑気なことを考えていた。
「どうしたの? 一人?」と尋ねた彼は、私の返事を待たずに隣に腰を下ろすと、マスターに注文を通していた。
「彼は?」
「彼? 連れならいないよ」
「そう。じゃあ飲もう」
ノリのいい彼は、カチンとグラス同士を合わせるとストレートのそれを一気に喉に流し込んだ。
そして、彼はまたすぐ次の酒を頼む。
やっぱり背後が気になるが、突然現れた彼のおかげで、沼の底にいたような薄暗い気持ちが少し気が和らいだ。
赤井さんと美女がどういう関係か知らないが、ただの留学生で飲み友達の私が気にすることではない。お似合いの彼らのことは忘れて、ぐいぐいとペースの速い彼に合わせて私もお酒を進めることにした。
「君のこと、ここに来た時から気になってた」
「そう? 暗いから、いくらかマシに見えるだけかも」
「あり得ない話じゃないかもね。外に出てみたら、あっ違った! って」
可笑しそうに笑って彼がそういうので、私も可笑しくて一緒になって笑ってしまった。
心地よく喉を潤すアルコールが底を尽きる頃、タイミングを見計らったように彼が新しいグラスが差し出した。
素直に「ありがとう」と受け取って気づく。ジンとベルモットを組み合わせたそれに、ほんのり甘く香るチェリー。可愛らしい笑顔の下に隠れる下心が見えて、私は彼に視線を向ける。
「君がよければ飲んで」彼の瞳はそう言っているようだった。
こんな風に誘われたのは初めてで、異国の男性はなんてスマートな誘い方をするのだろうかと感心すらしてしまった。
いつの間にかすぐ近くに寄せられていた身体に、お互いの肩が軽く触れる。
すでに何杯かのアルコールでぼうっとした頭は、すぐそばでこちらを見つめる深い青に溶けてしまいそうな気分になる。まぁ、いいか。こういうのも旅の思い出くらいにはなるだろう。
そう思ってグラスを持ち上げると、不意に後ろから伸びてきた手にそれは奪い取られてしまう。
「あ、」
「……悪いな。彼女はこう見えてアルコールはあまり強くないんでね」
低く心地よく響く声は、紛れもなく赤井さんのもので、私はゆっくりと後ろを振り返る。
赤井さんは、手にしたグラスを傾けて一気にそれを空にする。下心を隠したその暗闇のカクテルは、ゴクリと上下した赤井さんの喉に流し込まれていった。
あまりの突然のことに、私は赤井さんにしか目がいかず、いつの間にか隣に座った彼がいなくなっていることに気づくことができなかった。
「赤井さん……」
「久しぶりだな。仕事が立て込んでいたんだ」
「……もう、会えないかと思いました」
久しぶりに近くで見る赤井さんの姿に、アルコールのせいも相まって目蓋がじんわりと熱くなる。それを赤井さんに見られまいと少し俯いた私を、彼は前のように前髪に触れて「元気にしていたか」などと宣った。
連絡がなかったこととか、会いたいと思ったりていたこととか、また赤井さんにもう一度会えたら言いたかったことも全部忘れて、私は静かに彼の手に触れた。
触れる赤井さんの熱も、ふわりと香る彼の煙草の香りも、そんなに長く会っていないわけではないのに全てが懐かしく感じていた。
すっかり二人だけの空気だと思い込んでいた私の耳に、親しげに彼を呼ぶ声が飛び込んでくる。
「シュウ!」
「…………」
カツカツとヒールを鳴らしてこちらに向かってくるのは、赤井さんと一緒にいた金髪美女だった。
近くで見れば見るほど、長い睫毛に高い鼻、手入れの行き届いたサラツヤのブロンドに、ボンキュッボンの完璧なボディライン。
あ、負けた。勝負にもならない勝負を勝手に始めて勝手に負けた。
勝手に比べて勝手に落ち込んで、そんな虚しさから、赤井さんから手を離して私は慌てて立ち上がった。
「あの、帰ります。お邪魔しました!」
カウンターにドル紙幣を何枚か置いて、バッグを持って慌ただしく動き始めた私を止めたのは、私の腕を掴む赤井さんだった。
「ちょっと待て。何か勘違いをしているな?」
「お似合いだなと思ってるだけです」
「ホー……」
赤井さんは一瞬目を丸くした後、すうとその目を細めた。
なんだか嫌に緊張する。もやもやとした複雑な気持ちを胸に抱きながら、もう最後になるかもしれないと、赤井さんの姿を胸に焼き付けなければと考えていた。
「あら、何。この子、私たちのこと誤解してるの?」
「どうやらそのようだな」
「もしかして、シュウのことをアメリカンヒーローだと思ってるのってこの子のこと?」
「ああ、可愛らしいだろう」
「まあ、なんというか、面白くはあるわね」
ネイティブな赤井さんと金髪美女は私ごときではとても聞き取れない速さで二人で会話を続けていた。
それでも私だって、さすがに一年近くもいたのだ。このくらいのネイティブの会話くらい聞き取れなくてどうします。しかし、流暢な二人の英会話に、混乱したままの私は一部の単語を聞き取ることで精一杯だった。
「シュウと私は同僚よ。FBIの」
腰に手を当てた美女が、ご丁寧にこちらに口元を見えるようにゆっくりとした口調でそう言った。
「え、えふびーあい?」
「そう」
FBIって、あの。あのFBIだろうか。
空を見つめるようにして、いつだか外国のドラマで見た捜査官たちを思い出す。そう思えば、赤井さんの今までの態度や行動も納得できるような気がしないでもない。
ぽかんと口を開けたままの私に、その美女はこう続けた。
「だから、私と彼はあなたが思っているような関係じゃないの。残念ながらね」
「え?」
FBI捜査官だというその美女は、すらりとした身体を反転させて、「先に戻るわ」と後ろ手にひらひらと手を振った。
赤井さんが、FBIだなんて知らなかった。
聞いてもいないし教えられてもいないのだから、知らなくても仕方がない。
アベンジャーズだの、キャプテン・アメリカだの言っていた自分が恥ずかしい。最も、私の認識的にはFBIだろうが、アベンジャーズだろうがそう大して変わらないものだったのだが。
アルコールが溶けて染まった頬を、手のひらで覆って隠す。意味のない悪あがきだが、少し熱を持ったそこにひんやりとした手が心地よかった。
「君はもう少し危機感を持て」
「あ……その、ありがとうございました……」
「酔ったアジア人を捕まえて、人身売買される場合も少なくない」
「え? そんな感じの人でしたか……?」
そういう人には見えなかったのだけど。そう言い淀むと、赤井さんは小さく眉根を寄せた。
FBIである赤井さんが言うのなら、きっとそういうことも多くあるのだろう。赤井さんがいなければどうなっていたか。今後、一人で飲むときには気をつけようと心に誓う。
そして、私はこの国で赤井さんに二度助けられたのだ。
「……ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
今回と、これまでの感謝を込めてぺこりと頭を下げてお礼を言うと、赤井さんは表情を変えず、黙ったままこちらを見下ろしていた。
「赤井さん……?」
「いや――日本にはいつ帰るんだ?」
「来月には」
「……そうか……」
一度だけ、最後に。何度もそう思ったのに、一度会ってしまえば、もっとと欲が出てしまう。
「次の日曜は非番だ」
「はい」
「どこか出かけたいところがあれば付き合うが」
「……え?」
思わぬ赤井さんからの提案に、私は呆けた顔のまま彼を見上げた。
「ど、どういう?」
「君は、ここで最後の別れをするつもりか?」
「え、いや、そんなことは……。会えたら嬉しいですけど……」
「そうか」
赤井さんにまた会えることは嬉しいのだが、彼の意図が読めなくて、私の頭上にははてなマークが浮かんでいた。
これは、帰国までに何度か会えるということなのだろうか。また、こちらから誘ってもいいのだろうかと淡い期待を胸に抱く。
そりゃあ、男女の仲で付き合うことができたら、それはそれは幸せなのだが、きっとそれは叶わない。たとえ奇跡が起きたとしても、たった一ヶ月の関係だ。吹っ切れるわけがない。
一人悶々と考えている私に、追い討ちをかけるように赤井さんが口を開く。
「……君はいつもああなのか」
「……? “ああ”とは?」
「ちょっと甘い顔をしただけの男に、簡単について行くような女なのか?」
「なっ……!?」
先程は、ちょっとヤケになっただけのことだ。あれは、ちょっとした気の迷いだったが、あそこだけ見れば確かに常習犯として認識されてもおかしくはないだろう。
責めるような口調と、じっとこちらを見つめる赤井さんの強い視線に、私は気まずいのと恥ずかしいのとで視線を逸らす。酒で口説いてきた男に、気軽く乗るような女だと思われたことが恥ずかしかった。
「ちが、いつもはあんなこと……」
「ホォー……。この間、オレの前で酔って潰れたのも君の作ではなかったわけか」
「そんなわけ!」
慌てて弁解をする私に、赤井さんは口角を上げる。必死に口を開く私を楽しんでいるかのように笑う赤井さんに気づき、私はムッと閉口する。
「すまない。しかし、隙がありすぎる君も悪い」
「……ハイ。すみません。今後気をつけます……」
いつの間にか煙草に火をつけた赤井さんはため息とも取れる息を煙と一緒に細く吐き出した。
素直に謝ると、赤井さんの大きな手が頬に触れる。ビクッと震えた身体を悟られないように平静を装ったが、おそらく彼は気づいただろう。
こうやって、赤井さんが私を甘やかすから。その声で、手で甘く触れるから私は抜け出せないところまで堕ちてしまう。
こんな風にされて、惚れない女はいないということに彼は気づいていないのだろうか。だとしたらとんでもない天然タラシだ。
顎骨にそって頬をなぞる赤井さんに不審げに視線だけを向けると、彼は私の心中など全く気づいていない様子で首を傾げた。
「……どうかしたか」
「……そういうことされると、すぐ勘違いされちゃいますよ」
「勘違い?」
「好きになりますよ、こんなの……」
私だって。付け加えた言葉ははっきりと声にならずに、口の中でボソボソと消えていった。
私はとんでもないことを言ってしまったのではないかと、口を閉じるがもう遅い。バクバクと波打つ心音がうるさくて、さっきまで賑やかだった店内の声やBGMが全て消えてしまったような感覚になる。
「それは都合がいい」
「そうですよ。都合がわる……、え?」
「それより、君とはとっくにそういう仲だと思っていたが違うのか」
「…………え?」
彼の言葉がうまく思考に交わらず、困惑でぽんぽんぽんといくつものハテナマークが頭上に浮かんでいく。アルコールで鈍くなった脳が、赤井さんの言わんとしていることを理解したのは、それから何秒も後のことだった。
「う、うそ……」
赤井さんが? いつから?
目を丸くする私を見て、反対に赤井さんは柔らかく目を細めた。
思い起こせば、外国の恋愛ものの映画やドラマなんかでは、告白なんて形式じみたものは何もなく、気づいたら恋人同士になっていたという展開も少なくない。ていうか、ほとんどそれだ。
「……日本じゃこんな展開ありません!」
「ホォー。知らなかったな。君の日本ではどうやるんだ?」
「う……」
試すような赤井さんの言葉に、私は口を噤んだ。
私の背丈に合わせて屈んだ赤井さんから、ふわりと香る煙草の苦みがツンと鼻の奥をついた。
「……好き。赤井さんが好きです」
震えた唇から精一杯吐き出したその言葉は、重ねられた唇に溶けた。
ハッとした時には、それは離れて、私は一人で茹でられた蛸のように真っ赤になっている。
「これで付き合ったことになるのか」と尋ねる赤井さんに、嬉しいやら恥ずかしいやらで赤井さんの顔を見られないでいると、視界の端で私たちの様子を伺っていたマスターとお客たちが、ヒューヒューと音を鳴らして囃し立てていた。
20180410