目が覚めると、見慣れない天井。寝返りのたびにギシギシと軋む下宿先のベッドとは違う、肌触りのいいシーツとマットに身を沈めていた。
ぼうっとした頭で記憶を辿っていると、どこか覚えのある煙草の香りに気がついた。
「――!?」
勢いよく身体を起こして辺りを見渡すと、やはり思い違いではなく、私は知らない部屋にいた。
扉を隔てた隣の部屋から聞こえてくるのは、冷静な口調でニュースを読み上げているキャスターの声。微かに鼻を擽ぐるコーヒーの香りと人の気配。心当たりは、ある。あるのだが、いやでも、そんなまさか。
肌着で寝ていたところは気にかかるが、身体に違和感はないし、何か事に及んだとは考えにくい。そう思いたい。
万が一、何か間違いがあったとして、こんな風に知り合ったばかりの男性と寝てしまうような軽い女だと思われたかもしれないという絶望と、赤井さんほどの男性であれば一晩限りといえど一回でも寝てくれたことが奇跡なのではないかという考えがぐるぐると脳内を駆け巡っていた。なぜ覚えていなかったのか。こんな機会、二度となかったかもしれないのに。
「――起きてたのか」
もんもんと頭を抱えていると、ガチャリと扉が開いて部屋に入ってきたのは予想通り、赤井さんだった。
咄嗟にシーツを口元までたくし上げてこの情けない姿を隠す。メイクや髪は、とっくに崩れてひどい有様だろう。
「おはよう」
「お、おはようございます。あの……、」
「ああ、すまない。洋服なら洗濯中だ。俺のもので悪いが、とりあえずこれで我慢してくれ」
赤井さんはなんともない様子でクローゼットからシャツを取り出すと、放心する私に着替えてリビングに出るように促した。
渡されたシャツに袖を通すと、微かに赤井さんの煙草の香りと外国特有の強めの柔軟剤の香りがした。
バスルームで顔を洗ってリビングに出ると、テーブルにはシリアルとコーヒー、いくつかのパンが適当に並べられていた。
「あまり料理はしないんでね」
「いえ、お構いなく……」
赤井さんは、何本目かの煙草にまた火をつけながら、英字がびっしりと並んだ新聞に視線を落とす。
私はといえば、大人しくコーヒーのマグに口をつけながら、恥ずかしさと申し訳なさのあまり、赤井さんの方に目を向けずにいた。
思い出せ思い出せ、と自分の記憶に命じてみても、覚えていないものは覚えていない。気になる男性と共に楽しくお酒を飲んで、酔っ払って良い気分の夜だった。家に帰る手段を赤井さんと言い合って、私はどうやら押しに負けたのだろう。車に乗った記憶はある。
固めのパンを齧りながら、生活感のない部屋を見渡す。
ものは最小限に、シンプルな造りのこの部屋は赤井さんその人を表しているように思えた。
ちょうど良い温さになったコーヒーを喉に流し込んで、意を決して口を開く。
「あの! 赤井さん、その……」
声をかけて、顔を上げた赤井さんがあまりにも真っ直ぐこちらを見てくるものだから、すっぴんを見られてしまったとか、ああやっぱりかっこいいなとか、こんなことを聞いて軽薄な女だと思われたりしないだろうかといろんなことがぐるぐると頭を巡った。
口篭った私が話し出すのを、赤井さんはただじっと待ってくれていた。
「あの、私たち昨日、何か間違いなど犯してはいないでしょうか……」
やっと発した声はボソボソと小さく、彼に届いたのかわからない。
赤井さんはきょとんとしたような顔で私を見るので、私は恥ずかしくなってあからさまに視線を逸らせた。
「あまり見ないでください…」とだけ赤井さんは「すまない」と言いながら、喉の奥でくつくつと笑いを耐えているのがわかる。
意を決して聞いたのに、一体何が可笑しいのかと思わずムッとした。
「……なんで笑うんですか」
「いや……。大丈夫だ。君の心配しているようなことは何もなかった。安心してくれ」
何もなかったと言われるとそれはそれでなんだか寂しいような気がしてしまうのは、都合が良すぎるだろうか。
「それに、とても気持ち良さそうに眠っていたしな」
「見たんですか!」
「見えてしまったんだ」
仕方がないと赤井さんは肩を竦めた。外国の映画やなんかでよく見るジェスチャーだったが、赤井さんがやると不思議と様になる。
「何かあった方が良かったのか」
「………」
「それはまた君の都合がいい時に」
「えっ」
「冗談だ」
特に表情を変えることなく言った言葉に、期待した心臓が跳ねた。それが冗談だなんて、赤井さんのセンスがよくわからない。これが本場のアメリカンジョークというやつなのだろうか。
少しさみしい気持ちになっていることを悟られないように、ちぎったパンを口に放り込んだ。
赤井さんと一緒に家を出る頃には、陽はすっかり真上に近いところまで昇っていた。
赤井さんと会うのは夜が多いのだが、昼間に見る彼もやっぱりどこかその辺の男性とは違い、現実離れした雰囲気を纏っている。きっと堅気の人ではない。やっぱりそう思えて仕方がないのだが、本人にそれを聞く勇気はなかった。
赤井さんはこれから仕事に向かうというので下宿先の近くまで送ってもらうことになった。
左ハンドルの車に乗るのは初めてだった。正確には、昨夜の車も左ハンドルだったのだが、記憶が曖昧なのでカウントしないことにした。外国車の助手席は慣れない。走る方向も違えば、信号や標識だって日本とまるで違う。スイスイと車を走らせる赤井さんにとっては当たり前の日常なのだろう。その違和感が、自分と彼の距離の遠さを示しているようにも思えた。
近くの通りで車を停めると、先に降りた赤井さんが車のドアを開ける。そういうちょっとした行動に、特別扱いをされているようでいちいちドキドキしてしまう。きっとそれも、レディーファーストという文化のおかげというだけなのだが。
赤井さんにお礼を言うと、車にもたれ掛かった彼は持っていた煙草に火をつけた。どうやら、一服していくらしい。
車の中で吸えば良かったのに。そう言ったら「では次からそうしよう」と小さく笑ったので、私はまた次があるのだということに嬉しくなる。
煙を燻らす姿が様になる。煙草なんて、身体に悪いし匂うし、どちらかというと好きではない方だったのに、好きという気持ちはそれだけでなんでもありにしてしまうから恐ろしい。
昨夜のことを、何もなかったとは言え覚えていないことを心底後悔した。
「どうした。気分が悪いか?」
「そういうわけではないんですけど」
悔しさを隠しきれていなかった私に、心配した赤井さんが手を伸ばす。
顔にかかる前髪を優しく指で払い、へらりと笑った私を確認するとふっと口元を緩めた。
柔らかな灰緑色にぎゅっと胸が締め付けられてどうにかなりそうな私をいよいよ迎えに来たのかと思うほどタイミングで街中に救急車のサイレンが響いた。
「――いや、あれは警察だな」
「あ、パトカーか」
日本のものと音が違うため、すぐに判断が難しい。
赤井さんが、まだ残っている煙草を車の灰皿に押し付けるのと同じくらいに彼のポケットの携帯が震えた。
「悪い、仕事だ」
「えっ、あ、はい」
「ちゃんと迷わず家に帰れるな?」
「帰れます……! すぐそこですよ」
「それなら安心だ」
なんだか子ども扱いをされていることに、少々ムッとして答えると、小さく笑って赤井さんは車に乗り込んだ。
「また連絡する」そう言い残して走っていく車を見送りながら考える。
「やっぱり、アベンジャーズ……?」
呟いた言葉は、サイレンの混じる都会の喧騒に溶けていった。
20180407