よいのよる
 赤井さんとたまに連絡を取るようになったのは、あの事件の後。同じ日本人であり、日本語を話せるという安心感に、私が一方的に頼ってしまっていたことからだった。
 お酒を飲むのが好きだというと、この辺りでおすすめのバーやリカーショップなどを教えてくれた。赤井さんは忙しい人であったので滅多にあることではなかったが、仕事の都合が合えばお店を案内してくれたりもした。
 夜でも彼と一緒であれば安心できたし、何より酒好き同士、良い飲み友達となれた。とは言っても、彼の方が何倍も何十倍も強いので、大抵音を上げるのは私の方が先だった。
 ウイスキー党だと言った赤井さんと同じものをと付き合っていたら、日付を越える前に限界が来てしまう。

 今日もまた、赤井さんがよく来るというバーのカウンターに二人で並んで座っていた。
「赤井さんって、酔って失敗しちゃったことないんですか?」
「今のところはな」
「日本でもよく飲みに行きますけど、バーボンロックでそんなに飲める人なんていないですよ」
「ここじゃあ珍しくもないさ」
「まあ、日本人はアルコールに弱いとは言いますけど」
「君も、弱くはないが強い方ではないな」
 そう言う赤井さんが細めた灰緑の瞳の奥に、うっすらと頬を染めた私がいた。
 ビールにワインにウイスキーといろんなお酒を飲み回して、私の体内にはすでに十分なアルコールが溶け込んでいる。
 この頃にはもうすっかり赤井さんにホの字だった私は、彼の視線に耐えきれず態とらしく視線を逸らす。すぐに、少し態とらしすぎただろうかとハッと気づく。これじゃあ、一人で意識しているのがバレバレではないか。そう思って、気づかれないように深呼吸を一度。そしてまた赤井さんに視線を戻すと、彼はなんともないようにグラスを傾けていた。
 ホッとしつつも、どこか残念なような気持ちになる。こうして二人でお酒を飲むことを特別に思っているのは、きっと私だけなのだろう。グラスに残ったお酒をぐいと喉に流し込むのと同時に、携帯が着信を知らせた。
 聞き慣れない着信音に、自分のものではないと悟る。赤井さんはジャケットから携帯を取り出した。
「……お仕事ですか?」
「いや、私用のメールだ」
 失礼、と断ってから赤井さんは手短に返信を済ませていた。
 女性だろうか。全く彼の恋人でもなんでもないのに勝手に気になって胸を痛ませている自分がいる。赤井さんのような人に、特定の女性がいないわけがないだろうと思いつつも、だとしたらたまにとは言えどこんな風に私と会ってくれるだろうかと小さく期待もしてしまう。
 赤井さんはあまり自分のプライベートを話さない。
 連絡が全くつかない時もあれば、会っている途中で仕事の呼び出しだと抜けてしまうこともある。それも、結構な頻度で。
 とても忙しい会社に勤めているのだろうか。医者か、弁護士か。――その仕事をするには人相が不利な気がするな、なんて勝手なことを考える。
 初めて会った時も助けてくれたし、もしかしたらアメリカンヒーローの一員なのかもしれない。それとも私は愛人で、仕事といいつつ恋人や、家族からの電話だったりして。
 いい具合に酔いの回った私の妄想は止まることを知らず、一人勝手に暴走を始める。一体どんな仕事をしているのだろうと推測することを楽しんでいたが、はたと堅気の仕事ではない場合もあることを思い出して、考えるのをやめた。しかし、考えれば考えるほど、赤井さんがカチッとしたスーツなんかを着てサラリーマンをやっている姿の想像がつかなかった。
 意外と聞いてみたら気軽に話してくれたりもするのかもしれない。しかし、勝手なイメージだが、赤井さんのようなタイプは詮索されると引いてしまうのではないか。下手に自分の欲を出して、彼と二度と会えなくなってしまうことの方が恐ろしい。下心を見透かされて離れられてしまうのなら、都合のいい女として甘んじていた方がマシだと思った。
 溶けた氷でほとんど薄まってしまった残りをチビチビと飲んでいると、「気にするな、同僚だ」と赤井さんはしれっとした顔で追加のグラスを注文するので、思わず噴き出しそうになったのを慌てて取り繕う。
「へ、へえ」
「男のな」
「そうですか……」
 私のくだらない想像を見透かしたような赤井さんの態度に、私は途端に恥ずかしくなって無意味にグラスの中の氷をかき混ぜた。手の中で、カラカラと涼しい音が響く。そんな動揺を悟られたくなくて、目の前で氷のブロックを崩すバーテンに新しいグラスを注文した。
 一体、彼はどこまで気づいているのだろう。彼と一緒にいて、考えていることが見透かされていると感じることは多々ある。
 観察眼が鋭いのかもしれない。頭の回転だってきっと速いんだろう。
 初めて会った時も助けてくれた。何度か会って話していても、悪い人とは思えない。むしろ、私にとってはまさにヒーローのような人だ。今まで出会ったどこの男性よりも魅力的でできた人なのではないかとすら思う。
 新たな地でのロマンスの予感に、勝手に盛り上がって話をしたスクールメイトたちの反応は、応援すると言ってくれる者と怪しむ者で分かれていた。同じ日本人だからと言っても、ここらアメリカだ。君の住む日本とは全く勝手が違う。疑ってかかるということを忘れないように。そうアドバイスをもらっていたのだが、ここ最近の私にはそのアドバイスは全く意味がないと言っていいほどのものになっていた。
 彼が一体どこの誰なのか何者であるのかなんて、今更考えたところでもう遅いのだ。
 正体不明の“赤井さん“という人に私は惹かれてしまっている。
 ぐるぐると考えのまとまらない思考を放棄するかのように、出てきたお酒を煽った。


「大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶです」
「そう言うようには見えないが」
 バーを出た後、覚束ない足取りの私は、赤井さんに支えられながら歩いていた。
 吐き気はないが、ぼうっと頭が重い。連日スクールでの課題やテストに追われていて、上手く睡眠が取れていなかったことが祟ったのだろうか。
 こんなだらしない姿を見せて、酒の飲み方もわからない女だと呆れられてしまったかもしれない。いい歳をして失態を見せてしまったことが情けなく、赤井さんと視線を合わせられなかった。
 まだ遅くはない時間ではあるが、このままでは一人で家に帰ることは難しいだろう。タクシーを拾うか、近くの安いホステルにでも泊まろうかと、よく回らない頭で考えていた。
 これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、赤井さんにもそれを伝えると、彼は微かに眉を顰めた。
「この辺りは物騒なんだ」
「日本と比べたらどこも物騒ですから大丈夫です」
「そういう話じゃない」
 道脇で、静かなる攻防戦を繰り広げていると、赤井さんの携帯が再び着信を知らせた。すぐに止まらないところを聞くに、これは電話だ。もしかしたら、今回も仕事の呼び出しなのかもしれない。
「……赤井さん、早く出ないと叱られちゃいますよ」
「そうだな」
「私、赤井さんがキャプテンアメリカでもアイアンマンでも驚きませんから!」
「……残念ながら、スティーブ・ロジャーズでもトニー・スタークでもないな」
 微かにだったが、赤井さんが可笑しそうに笑ったのが嬉しくて、私はヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべた。
 赤井さんは鳴り続ける電話に出ると流暢な英語で話し始める。酔った頭で理解できたのは、ここへ車の手配をしていることだった。
「……仕事じゃなかったんですか?」
「生憎今夜は平和のようだ」
「それなら、私も安心して帰れますね」
「……君もいい加減強情だな」
 少し呆れたように、赤井さんは小さく笑った。
 もしも、赤井さんがヒーローではなくマフィアの類なら、おそらく私はここで身売りでもされるのだろうか。アルコールに侵された思考では、赤井さんに売られるならそれも本望だとバカみたいなことを考える。
 飲み過ぎだと止めに入った赤井さんに耳を貸さず勝手に酔いつぶれたのは私で、勝手に自滅したバカな日本人だと後世のマフィアたちに語り継がれていくのかもしれない。

「――Hey!」
 しばらくして、クラクションの音とともに現れた男性は、車の窓から手を挙げて赤井さんの名を呼んだ。
 じゃあ私はこれで、さようなら。などと言えるわけもなく、赤井さんに半ば押し込まれるような形で二人で後部座席に乗り込んだ。
 ペラペラと英語で話す二人の会話の何割理解できただろうか。
 渡米して数ヶ月。日常生活レベルの英語力はついたと思ったのに、どうやらそれは勘違いだったらしい。
 二人が英語で話すのを聞きながら、落ちてくる重い瞼をただそのまま受け入れた。

20180222