who loves you
 燻る紫煙にフッと息を吹きかけると、それは流れに沿って静かに空気に溶け込んでいく。
 煙草の匂いは苦手だったはずなのに、好いている相手のものだと思うと好ましいものとさえ思えた。そんな簡単に趣味趣向を変えてしまうなんて、大概単純である。
 煙草を咥えながら自前のノートパソコンをカタカタと鳴らす赤井さんの隣で、じっとその煙の行き先を目で追っては消えて、また追いかけてを繰り返していた。
 片付けなければいけない作業があると言った彼を押し切って半ば強引に家まで押しかけてしまった。実際邪魔だろうなと、若干の後ろめたさを感じながら、大人しく待っていたつもりだった。
 特に意味はなく、ほっと吐き出したため息に気づいた彼はくすりと笑って、まだ半分も残っているそれを灰皿に押し付けた。
「あ、もったいない」
「君があまりにも退屈そうだからな」
「……私が無理やり来ただけなので」
「嫌なら断るさ」
 そう言ってふっと笑みをこぼした彼に腰を引かれて、服の上からでもわかる鍛えられた身体に身を寄せる。
 仕事で忙しいらしい彼と一緒に過ごせる夜は特別だった。手が空いたと約束をしていても、急な呼び出しで会えないことも多々ある。顔を見られるだけでも、会えただけでも良いのだと、そんな可愛いことが言えるような良い女であればよかったのに。
「会えない恋人ですまないな」
「恋人っていう自覚はあったんですか」
「なんだ、違うのか?」
「違わないけど……」
 この関係が、期間限定での恋ではなかったのなら、飛んで喜ぶほど嬉しい言葉だっただろう。
 いつか離れ離れになってしまうのに、終わりの決まっている恋にのめり込んでしまった自分はその時を受け入れられるのだろうか。
 みなまでは聞いたことがない。海外暮らしの長い彼と、日本生まれ日本育ちの私では恋愛の感覚が違っていても当然だ。
 せめて、最後の日までこの関係が続きますように。
 そう願いを込めて、煙草を香を強く残す彼に身を委ねた。



 彼、赤井さんとの初めて出会ったのは、ここアメリカである。
 ほんの一年ほど前、ふと思い立ったままに仕事を辞めて、アメリカ留学へと飛び出した。英語で全てのコミュニケーションを取ることはなかなかに難しかったが、意外と上手くやれそうだと気楽に考えていた。
 滞在してから数週間、ようやくここの生活に慣れてきた頃に事件は起こった。
 スクールの仲間と楽しく飲んできた帰り道、いつも通る大通りから自宅への近道を抜けてしまった。薄暗い住宅街の裏道に、若い女が二人。かっこうの的だったのだろう。一人の若い男に声をかけられたと思ったら、その後から数人の男たち。ああ、これはやばいやつだと気づいときにはもう遅く、同じ下宿先の留学生と震える足で暗闇を駆けた。
 日本の治安は特別に良いのだと外国に詳しい友人が言っていたのだが、本当にその通りだと思う。最悪の事態を想像してしまい、半泣き状態で逃げながら遠く日本にいる家族や友人たちに思いを馳せた。
 ふと、後ろから追いかける足音がピタリと止まり、何か英語で言い争っている声が聞こえた。
 恐怖でいっぱいの頭でその言葉を理解することは難しく、振り返ることもできない。
 まだいくつか車の走る大通りに飛び出して、やっと後ろを振り向くと、すぐ後ろに黒づくめの、おおよそ堅気ではないような雰囲気のアジア人男性が目に入る。
 振り切ったと思っていたのに、驚いて思わずルームメイトと抱き合いながら叫ぶと、一瞬目を丸めた彼は穏やかな低い声で日本語を話し始めた。
 恐怖から解放されたのと、久しぶりの聞き慣れた懐かしい言葉に安心しきった私は声をあげて泣いた。それを見てギョッとした様子の彼が「もう大丈夫だ」と繰り返し宥めてくれていたのを覚えている。
 つまりは赤井さんに助けられたわけなのだが、犯人扱いをするというひどい誤解をしてしまった挙句にいい年をした女が大泣きするという見苦しい姿を見せてしまったのだった。

 その後、名前も住まいも知らない恩人の彼に街で偶然再会し、カフェでたまに話すような仲になった。
 彼は多くを話さないので、正直名前と仕事が忙しそうであるということ以外に私は何も知らなかった。素性のよくわからない人ではあったが、異国の地で同じ日本人である赤井さんに惹かれていくのにそう時間がかからなかった。たまに会ってはランチやお茶をしたり、バーに行ってみたり。何度か会うのを重ねて行くうちに、こちらでできた友人たちや出かける先の人に「素敵なボーイフレンドね」なんて言われるようになった。
 その辺のカフェの店員にもいい男だとナンパされるような人だ。私なんか到底釣り合うわけがないだろうと、毎回否定するのがお決まりだった。
 ある日も、いつも通り赤井さんと出かけていた。
 小さな、とは言っても日本人の感覚では大きすぎる公園でテイクアウトしたコーヒーを飲みながら、たわいもない話をする。
 天気の良い休日は外に出る人も多く、この公園も子どもからお年寄りまでいろんな人で賑わっていた。
「おじさんとお姉さんは恋人同士なの?」
「ブッ…!」
 突然かけられた声は、小さな可愛らしい男の子のものだった。
 コーヒーを吹き出しそうになって慌ててハンカチを取り出す。
 小さな指を咥えて首をかしげる男の子にどう答えようものかと思案していると、赤井さんが「そう見えるか?」と彼に尋ねる。
「うん」
「じゃあ、そうかもしれないな」
 赤井さんはその小さな彼のブロンドの髪をくしゃくしゃと撫でた。男の子はニッコリと可愛らしい笑顔を浮かべて「パパとママが向こうにいるんだ」と、無邪気に走っていく。その方を見ながら何事もなかったようにカップに口をつける赤井さんの隣で、私は一人で勝手に頬を染めていた。
 冗談など言わさそうな人なのに、赤井さんはたまにこういう読めない発言をする。
 少ししか年の変わらないはずなのに、いつも余裕な赤井さんの言葉や行動に一喜一憂してしまう。
 この人の恋人になるなんて、それは大変な夢物語だと思っていたのに、今ではこうして空いた時間を一緒に過ごせるようになっているなんて不思議だった。



 ふふ、と思わず漏れた笑いに、赤井さんから「どうした」と声が落ちる。
「赤井さんと出会った時のことを思い出してました」
「ああ。偶然通りがかったんだが、危ないところだった」
「本当に、命の恩人です」
 ありがとうございます、と改めてお礼を言うと、彼は「あの時の君は忘れられなかったよ」と笑いを堪えたように言うものだから、途端に恥ずかしくなって、私は当時の羞恥を思い出して引っ張り上げたシーツに包まるようにして顔を隠す。
「可愛いと言ったんだ」
「とてもそうには聞こえませんでした……!」
「そうか」
 恥ずかしさでいっぱいな私とは反対に、楽しげな声の赤井さんは、なんと私を包んだシーツごと持ち上げると、ベッドから降りてスタスタと歩き出した。
「うわっ! えっ、何ですか!」
「シャワーでも浴びるか」
「なんでそうなるんですか!」
「あのままでは、恥ずかしがり屋の君は当分出てきてはくれなかっただろ」
「だからと言ってなんで……!」
 ジタバタと抵抗してみるも、自分が巻きつけてきたシーツのせいで逆に身動きが取れなくなってしまった。
「恥ずかしいです!」
「だから誘ってるんだ」
 必死の抵抗も虚しく、軽く降ってきたキスに借りてきた猫のようにしゅんと大人しくなってしまった私を見て、赤井さんはまたおかしそうに笑うのだった。
 ああ、神様。今だけの関係だとわかっていても、いっそう彼に溺れていく私をお許しください。アーメン。

20180208