夢枕の終わり
 セックスをするだけの男女の関係って何?
 仲の良い友人に聞けば、決まってセフレなんてやめなと忠告される。そのたびに、はっきりしない言葉を返す私を親切な友人たちは呆れを含んだ苦笑を漏らす。
 いつか本命にしてもらえるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、どんどんのめり込んでしまって気づいたら好きが大きくなりすぎた。
 何度もこの中途半端な関係をやめようと思った。こんな関係を馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも期待して抜け出せない自分がいる。「もうやめよう」この一言を、次に会ったときに言おう。そう決めて貴大くんに会いに行くのに、彼の前ではその一言だって出てこないのだ。

 帰りのSHR中、担任からの連絡事項はほとんど耳に入ってこなかった。机の下に隠した携帯からもうすぐ終わります、とメールを送信するとすぐに『わかった』と一言だけの返信が届く。ここから青葉城西までは二駅ほど先だ。貴大くんと二日続けて会うなんて初めてのことだし、学校帰りの制服姿で会うのも初めてだ。そのせいか、舞い上がるような気分と妙な緊張感が入り交じった複雑な心情だった。
 SHRが終わったらすぐに教室から飛び出せるように帰る準備は万端だ。学級委員の号令で軽く頭を下げて、クラスメイトたちへの挨拶もそこそこに教室を後にした。
 玄関先で別のクラスの友人の姿を見つけて、手を振ると声をかけられたので立ち止まる。その彼女がとんでもないことを言うので、思わず眉をひそめた。
「校門の前にいる人、青城の制服じゃない?」
「え?」
知ってるんじゃん? 前一緒にカラオケ行った人」
「――あ、」
 ガラス越しに校門の方へ目を凝らせば見たことのある、つい昨日会ったばかりの人が校門の石壁に背中を預けて立っていた。
 「なに、デート? うらやまし〜!」と友人がからかうような口調で言う。そんなんじゃないよ。自分で言って、勝手に落ち込んだ。
 アッ、と声をあげた友人に顔を向けると遠巻きに見ていた女子生徒が数人、貴大くんへ声をかけていた。
「ちょっと! ナンパされてんじゃん!」
「ね」
「ね、じゃないよ。『私の彼氏です!』くらい言ってこなきゃ!」
「彼氏かあ……」
 適当な相づちに友人は 「いいの!?」なんて自分のことのように怒っているようだった。軽く興奮した様子の友人をどうどう、と宥めようとするとそれが余計に彼女を逆撫でさせてしまったようだ。
「私が代わりに言ってこようか?」
「大丈夫だって」
「もう!」
 憤慨した様子の友人を言い宥める。これから部活動があると言った彼女は納得のいかない様子のまま、その場を後にした。
 校門先では、相変わらず貴大くんと女子生徒たちが話をしている姿が見える。
 例えば、自分があの場へ出ていって何て言えばいいのだろう。貴大くんは私の――。彼氏と言うには関係が確立しているわけではないし、身体をだけの関係を公言するなんて恥もいいところだ。
 物陰に隠れてその様子を少しの間見守っていると、彼女たちは貴大くんに手を振って帰っていく。完全に女の子たちが見えなくなるところまで確認してから、貴大くんの元へ向かう。こちらの気も知らず貴大くんはのんきに携帯をいじっていて、近づくと顔をあげて「おつかれ」と軽く手を振った。
「来ちゃった」
「……私が行くって言ったのに」
「早く終わったから」
 恋人を校門で待つというシチュエーションに憧れて、それをお願いしたのは私だ。けれど、貴大くんがこちらに来るとなったら話は別。
 青葉城西の制服で女子高前に立つなんてかっこうの的になることを、貴大くんならば知らないはずがないのに。新しい女の子でも探しに来たのかな、なんて悲観もいいところだ。もちろんそんなことは本人に聞けるわけもない。けれど、意図せずいつもより単調に出てしまった声が隠していたはずの心情を表出させた。
「……怒った? 勝手に来て」
「別に怒らないよ」
「にしては機嫌悪くない?」
「…………私が青城行きたかった」
 腰を屈めて顔を覗き込む貴大くんを避けるようにそっぽを向く。
 「え、そんなに?」と意外そうに言った貴大くんは私の懸念にまるで気づいていない様子だ。
「ごめんって」
「今度は私が貴大くんのこと迎えにいく」
「え。 や、いーよ」
「なんで?」
「なんでも?」
 質問に語尾を上げて返されて、じっと貴大くんの横顔を見上げるとわかりやすく視線が逸らされる。そんな貴大くんの様子に消極的な考えばかりがぽんぽんと浮かんでいく。
 誰? と聞かれても説明できないから。公言できるような関係ではないから。そんなところだろう。現に私だって、そうやって言葉を濁した。
 校門前の目立つ白色に興味本意にチラチラと向けられる周りからの視線に耐えかねて、貴大くんの袖を掴んで逃げるようにその場を離れた。

 学校から少し離れて、駅前の繁華街を二人で歩く。貴大くんを連れるように早歩きをしていたのに、いつの間にか自分が貴大くんに引かれるようにして歩いていた。一歩前を歩く彼を見つめていると、ぐっと腕を引っ張られて、大きく一歩前に出る。
「隣、歩いてよ」
「ああ、うん」
 掴んでいた腕はいつの間にか指先を絡めて繋がれていて、これではまるで恋人同士ではないかと錯覚を起こしそうになる。
「ねえ、どこ行くの?」
 貴大くんは「ん〜どうしよっか」と他人事のように笑っていた。
 こんな風に街を歩きながら手を繋ぐことなんてないから、慣れなくて、繋いだ手がじんわりと熱くなっていくのを自覚する。それ以上のことは何度もしたのに、全く不思議だ。
 意識しないようにすればするほど、しっとりと手に汗が滲む。恥ずかしくて、たまたま通りがかったパティスリーのショーケースに近づいて、手を離した。少しばかり不自然だったかもしれないと思えたけど、目の前のケーキたちがあまりにもキラキラと宝石みたいで夢中に眺めてしまった。
「うまそー」
 腰を落として隣にしゃがみ込んだ貴大くんが独り言のように呟いた。
 普段、二人で会うときは無難なファミレスやファーストフードで済ませてしまうし、だいたいどこかのホテルに入ってしまうから、貴大くんがこういうものに興味を示すことが意外だった。
「……意外。こういうの好きなんだ?」
「いや俺甘いもんめっちゃ食うよ」
 ショーケースの中を一通り眺めて、貴大くんはすっくと立ち上がった。内側にいた若い男性の店員さんにアレとコレと、と注文をし始める。慌てて立ち上がると「はどれにする?」と聞かれて困惑している間、店員さんと貴大くんから向けられた視線を感じて目の前のショートケーキをひとつ指さした。
 いくつかのケーキが詰められた持ち帰り用の白い箱ケースには金色で店名の箔押しがされていた。貴大くんが会計をしてくれている間、それを別の女性店員さんから受け取る。
「デート? いいわねえ」
「エッ!?」
 ふんわりと微笑んだ女性店員さんの言葉に思わず箱を落としそうになる。傾きそうになる箱に気づいて、瞬時に横から伸びた手に支えられてケーキの無事は守られた。「あっぶね」と焦る貴大くんにゴメンと呟いて、今度はしっかりと両手で箱を持つ。
 店員さんからの爆弾発言にあからさまに動揺した様子の私をその女性は口元を手で隠しながら「あらあら」と目を丸くした。
 貴大くんは男性店員さんと気さくに話をしているし、恥ずかしくて誤魔化すようにショーケースに視線を泳がせた。店員さん二人はご夫婦で、二人でこのパティスリーを経営していると話した。ご主人の母校が青葉城西であったらしく、貴大くんとご主人はその話で盛り上がっていた。
「若いわね。まだ付き合ってないの?」
 何種類ものケーキをいったりきたりする視線を上げると、奥さんが内緒話をするように声を潜める。ちらっと横目で見た貴大くんたちの話はまだ終わりそうにない。できる限りショーケースに身体を寄せて、奥さんに近づくようにする。
「で、できたら付き合いたいんですけど……」
「彼の方から言ってくれないかしら。そういう風に見えるけど」
「あ〜……、どうなんでしょう」
「お似合いだと思うけどね」
 貴大くんを見やった後、ぱちっと可愛らしくウィンクをしてみせた奥さんは案外お茶目らしい。そうだといいんですけど。なんとも自信のない言葉しか返せずにいると、奥さんは「そういう悩みも若くっていいわあ」と微笑んだ。
 ちょうど、ご主人と貴大くんの方も話題にひと段落ついたようだった。
「落とすなよー」
「落とさないよ!」
 こちらに向き直った貴大くんがニヤニヤと先ほどの失態を責める。しっかりと掴んだところが見えるように箱を掲げて見せると、「気を付けてね」とご夫婦にも一緒に笑われてしまった。
「また彼女さんと来てくださいね」
「あ、ちが――」
 別れ際、ご主人の言葉に訂正のため口を開くと貴大くんの大きな手がそれを遮る。
「ハーイ、あざっす」
 貴大くんに背中を押されながら振り返って見ると、奥さんが手を振りながら「がんばってね」と口だけを動かした。ケーキの箱を揺らさないように片手に持ち替えて手を振り返す。
 先の商店街を少し歩いて、また自然に手が繋がれる。見上げた先の貴大くんは何も言わない。
「……私って貴大くんの彼女だったんだ?」
「あ〜……、ゴメン」
「何で謝るの?」
「勝手に彼女ってことにしたから」
 からかうのと探るつもりで問いかけた言葉に、貴大くんは気まずそうに後頭部に手を当てる。
「そうなら、すごく嬉しいんだけど」
「え、マジ?」
「マジ」
 セフレだと思ってたから。
 繋がれていない、片方の手に持つケーキの箱に視線を落として言うと、貴大くんは目を丸めた。そのあと、すぐに大きくため息を吐いた。それにびくりと反応した指先に気づいた貴大くんに「違う違う」と宥められる。
「やっぱり、そう思ってたかってこと」
「うん。もう会わない方がいいと思ってた」
「……マジか」
 あぶねえ、と息を吐いた貴大くんが立ち止まり向き合わせになるように位置を変える。商店街の道端でどうしたんだろうと様子を伺っていると、貴大くんは腰を折って肩口に顔を埋めた。
「た、たかひろくん」
のこと好きだよ。だから、ちゃんと俺と付き合って」
 人目が気になって慌てたが、貴大くんは普段とは少し違う、落ち着いた静かな声で呟くように言った。その言葉が、すっと耳の奥で響く。
 そんなのこっちのセリフだとか私の方がもっと好きだよとか言いたいことはたくさんあったのに、喉より先へ言葉が出てこなくて頷くだけしかできなかった。もう、進展できない関係だと思っていたのに、貴大くんからの言葉に目頭が熱くなる。
 繋いだ手から貴大くんの普段より高い熱が伝わって、同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、どうしようもなく胸が苦しい。けれど、それは以前までの胸の重さではなかった。
「もっと早く言いたかったんだケド」
「もっと早く言ってほしかった」
「……デスヨネ」
 往来の真ん中でくっついて笑う私たちに好奇の視線が向けられて、こっぱずかしくて二人でまた笑った。
「ていうか、ケーキどこで食べるの?」
「ん〜、うち来る?」
「いきなり? ハードル高くない?」
「彼女だからいいんじゃん?」
 二人にしては多すぎるケーキを持って、貴大くんの家へ向かって歩く。もう、二人で並んで歩くことや繋ぐ手に疑念を持つことはないと思ったら、身体中が軽くてすっきりとした気分だ。
 インスタントの苦いコーヒーと少しだけ崩れたおしゃれなケーキで、二人の新しい関係にささかやな祝杯をあげた。

20160518