ウッドブラインドの隙間から漏れる朝日が眩しくて目が覚めた。
うつ伏せになっていた身体を起こすとその振動で頭がガンガンと痛んで、そのまま顔を枕に埋める。ぼふんと音と立てて沈み込んだ枕は触れ慣れた我が家のものだった。
昨日は本当に飲みすぎてしまったようだ。友人と愚痴を溢しながら気晴らしに焼酎に日本酒に、いつもよりハイペースでグラスを空けた記憶がある。
終電にはぎりぎりに間に合って、駅で京治くんと会って――。
「――!?」
昨日、正確には今日。終電に乗れなかった京治くんを不本意にも部屋に連れ込んでしまったことを思い出した。
け、京治くんはどこに。
きょろきょろと辺りを見回しても寝室に彼の姿はない。バッと布団を捲ると、全く記憶にはないがちゃんとパジャマに着替えていた。布団の隙間から入ってくる朝の冷気にぶるりと身体が震える。ぐしゃぐしゃになった毛布を手繰り寄せて、くるまり直してから一度冷静になることにした。
ほんの数時間前の記憶を辿ろうと上げた頭を枕へ逆戻りさせて目を瞑ってみると、断片的にぼんやりと記憶が甦る。
「……え? ヤってないよね?」
ズキズキと痛むこめかみを押さえながらウンウンと唸る。
もしかしたら、やっぱりこんなのは良くないと京治くんがタクシーで帰った可能性もある。この部屋に人の気配なんか感じない、そうに違いない。半ば言い聞かせるようにしたその可能性は寝室の扉がノックの音と共に開かれたことで否定された。
「おはようございます」
「…………けいじくん?」
「はい、京治です。どうですか気分は? どうせ二日酔いでしょう」
京治くんは部屋に入ると呆れたような声色でそう言って、ベッド端に腰をかける。柔らかめのマットレスが彼の体重で片側に傾いた。
「……最悪」
「でしょうね」
京治くんは「わけわからないって顔してますね」と苦笑を漏らした。それにその通りだと頷いて、家に帰ってきてからのことが全く記憶にないことを打ち明けた。
「まあ、そうでしょうね」
「……あの、何かしでかしてしまったんでしょうか?」
単刀直入に聞きたい。昨夜、我々はいわゆる一夜の過ちを犯したのだろうかと。
本当は正座にでもなって畏まりたいところなのだが、生憎の頭痛で枕に顔を埋めたまま視線だけを京治くんに向ける。京治くんはジッとこちらを見つめて、そして小さく息を吐いた。その沈黙に耐えきれなくて、京治くんが口を開くより先に謝罪の言葉が口をついて出た。
「ご、ごめん! 酔って全然覚えてないの、本当にごめんなさ――」
「してないですけど」
「……え?」
「何もなかったです」
えっと目を丸める私に京治くんは盛大にため息を吐いた。
「昨日、家に着いてからさん着替えてすぐ布団に入ってました。自分で」
「あ、そうですか……」
多目に飲んで帰って来たときは脱衣所に直行しすぐに眠るといういつもの癖がついていたらしい。 余計な想像をしてしまったと恥ずかしくなる。 京治くんから家に着いてからの様子を聞き、迷惑をかけたわけではないとわかって少し安心した。と、同時に京治くんを放置していつも通りに眠ったという自分の神経の図太さに呆れた。
「なんかごめん……」
「いえ」
おわびのしるしに朝ごはんでもと思ったが、ずきずきと痛む頭に食欲も湧かない。そんな私を京治くんはお見通しだったようで「キッチン借りました」と淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。至れり尽くせりである。
「ありがとうございます。本当ごめんね」
「それなら明日一日付き合ってください。今日休めば二日酔いも治まるでしょ」
明日は家でごろごろするという予定を立てていたのだが、京治くんの有無を言わさぬ雰囲気と一応客人でもある彼に構うどころか世話をかけっぱなしの状況でノーなどと言えるわけもなく、彼の誘いに頷いた。
*
午前中のうちに京治くんは自宅へと帰っていった。シャワーを浴びていったらという提案もやんわりと断られてしまって、申し訳なさにそわそわとしていたが、帰り際京治くんに「明日楽しみにしてます」と言われてしゃんっと背筋が伸びた。
そのあとは一日だらだらと寝ていたら、夜にはすっかり調子が戻ってきた。地元の友人からの突然の飲みの誘いにふらっと出ていきそうになったが、ちょうどタイミングよく届いた『11時に駅前で』というシンプルなメッセージに足を止めた。
二人で遊びに行くことなんて今回が初めてではないのに、落ち着きのない前夜を過ごしてしまうのは相手が京治くんだからだろうか。こんな感覚は久しぶりだった。
翌日、セットしたアラームよりも早くに目が覚めた。洗面台に立って鏡で朝いちばんの自分の顔を確かめると、調子がいいとは言えない顔色にため息が漏れる。その時ふと浮かんだのは先週京治くんの隣を歩いていた女の子で、突然出てきた名前も知らないその子を払拭するためにふるふると頭を振って水をかぶった。
「……まだ調子悪いですか?」
「そう見えます?」
待ち合わせ場所に向かうと、まだ約束の時間には早すぎるというのにすでに京治くんの姿があった。慌てて京治くんの元へ向かうと、挨拶もそこそこに怪訝な顔でそう言われた。
もう何年自分の顔と付き合ってきていると思うのか。どれだけお肌の調子や顔色が悪くったって、普通に見せるのには自信があった。少しファンデーションが重くなりすぎたような気もするが、そこは年齢を考えて許してほしい。
京治くんは「さんが大丈夫ならいいですけど」と言って歩き出した。彼の一歩後ろを歩くようにしてついていくと、立ち止まった京治くんに手を引かれた。
「京治くん?」
「見えるとこにいてください」
見知った土地ではぐれるなんてことはないのに意外と心配症なのかなと思ったが、京治くんは手首を掴んだ手をそのままするりと滑らせて指を絡ませた。
「…………京治くん」
「なんですか」
「こういうことしちゃうと、デートみたいじゃない?」
「みたいじゃなくてデートのつもりですけど」
いつもそのつもりでしたけど。
歩きながら、京治くんは恥ずかしげもなくそんなことを言った。驚いて目を丸めて、彼を見上げていた顔を地面に向けた。
男の人と手を繋ぐのなんて初めてではないのに、じわりと熱が上がった気がした。手汗がバレるんじゃないかと思ってごく自然に繋がれている手を離そうとしたが、先に気づいた彼にさっきよりもずっと強く握られてしまった。
彼氏ではなくとも男性と二人ででかける経験なんて何度もあるのに、きっとこんなデートらしいデートというものが久しぶりなせいだ。そう自分に言い聞かせて、京治くんと並んで歩いた。
京治くんに連れられてきたのは映画館だった。以前約束していたのが行けなくなったから「どうしても観たくて」とこちらの反応を伺うように京治くんは言った。その映画は私も一人で観ようと思って結局観られず仕舞いだったからと、喜んでそれに同意した。
*
「おもしろかったねー」
「ですね。評判通りでした」
「またレンタル始まったら教えて。借りに行くから」
映画館を出てからはその映画の話で盛り上がる。公開されてから映画通の間ではとても評価が高く、観終えた今その評価にも納得できた。
京治くんとあの映画のシリーズはどうだ俳優がどうだと盛り上がる。
そうして、少し遅いランチにしようと繁華街へ向かう途中、やっぱり自然に繋がれた手に忘れていた熱がじわりと沸いた。
京治くんに恥ずかしくないの? と聞けば、「全く」と平然と答えるものだから余計に参ってしまった。
手を繋いだまま小洒落たレストランやカフェが連なる駅前の通りまで歩いてきた。さすがに人の目が気になって、京治くんに声をかけると渋々と言った様子で手が離される。
日曜日ということもあってか、私たち以外にも仲睦まじく手を繋いで歩くカップルや家族連れが多く見られた。ただ、男性に必要以上にくっついて歩いているのは見た目若い女の子ばかりで、周りを見ていないもしくは見ようともしていないような時期が自分にもあったなと昔を懐かしく思った。
「何食べます?」
「京治くんが決めていいよ」
だいたい京治くんが食べたいというものは不思議と私の候補に入っていたりするから、いつも食事のお店選びは京治くん中心だ。
京治くんが前々から気になっていたという和食のお店に入ることにした。
「では」
「うん?」
「話がしたいって言ったでしょ」
料理の注文を済ませて運ばれてきた水のグラスに口をつける。一息ついたところで、発した京治くんの言葉にそういえばとこの前の夜のことを思い出した。
「……あー」
「何を心配してるかわかんないですけど、前の子はただの同期です」
「うんうん、可愛い子だったよね」
「さん」
本当のことを言ったつもりだったのに、京治くんに戒めるように名前を呼ばれた。
それから京治くんは初めて会ったときのこと、それから今までのことを話した。
「気にならなかったら連絡なんてしませんし、誘いもしません」
「……宗教とかマルチの勧誘かと思った」
「まったく」
どれだけ疑心暗鬼なんだろうと笑ってしまう。京治くんはあからさまにため息を吐いて呆れられた。
「あ、あのねえ。こんな年齢にもなるとそうほいほいと恋愛なんてできないの!」
「さんのお友達は『恋愛はスピード勝負』って言ってましたけど」
「……アラサー女には両タイプいるの」
いくつになっても何にでも積極的な友人を思い浮かべる。彼女の場合、自由奔放な彼女に男性の方が手を焼いているような気がする。そういうところを羨ましいとも思っていた。
自分でも年をとるたびに卑屈になっているなと思う。適当にその辺の男と恋愛をすればいいと思っていた時期はいつの間にか過ぎて、一生を考えられる相手と一緒にいるのが当たり前になっていた。
「だから、言ったじゃないですか」
「数年の差なんて気にしないです」そう言った京治くんの強い瞳に射抜かれて、口ごもってしまう。
学生時代、京治くんと同じようなことを言う男友達がいた。年上が好きと言った彼は学生のうちはその彼女と付き合っていたが、年齢を重ねるごとにその彼女を「重い」だとか「まだ結婚なんてしたくない」と言って距離をおいていた。
京治くんだってきっと院を卒業して、新しい社会に出ればいろんな人と出会う。そうしたら、京治くんだって綺麗で若い女の子がよかったと思うに決まってる。
「そ、そんなの、京治くんが若いからだよ。私くらいになったらきっともっと若い子がよかったって泣くよ」
「泣きませんよ」
「泣いた男を見た」
「そんな人と一緒にしないでください。それに、俺を手放したらさんが泣きますよ」
「……それは思う」
「じゃあもう早く諦めてください」
グラスの中の氷が溶けて、カラリと音を立てた。ランチの時間帯はとっくに過ぎているのに、未だ店内は大勢のお客さんで賑わっている。注文や料理を運ぶウェイターがばたばたと歩き回っているのが見えた。
「諦める?」
「さんが同い年でも年下でも、俺はさんがいいんですよ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す私を見て「意味わかってます?」と目を細めた京治くんに返事を返さなければと口を開いたとき、ちょうど注文した料理が運ばれてきた。
とりあえず食べましょうと手を合わせた私に、またしても京治くんが衝撃的な一言を口にした。
「さんがどれだけ年齢を盾にして、離れようとしても俺にはそんなの効きませんから」
「…………」
「さん」
「はい……」
「覚悟してくださいね?」
一体何をどう覚悟しろというのか。
綺麗な動作で定食の煮物に箸をつける京治くんが「美味しいですよ」と教えてくれたが、私にはその煮物の味がさっぱりわからなかった。
京治くん相手では、もはや年下だとか年上だとか考えるだけ無意味なのかもしれない。
20160225