あれから数週間、特に何の変哲もない日々を過ごしていた。相変わらず仕事はだるいし、出会いもなければ、飲みに行く相手すら見つからない。週末の誘いを旦那と旅行とか式場の打ち合わせだとかでことごとく断られて、結局一人で過ごすことになりそうだ。
定時で仕事を上がって、今日は週末に見る映画でも借りて帰ろうと思い、いつもとは違う改札口から駅を出た。最寄り駅の、家の方向とは逆側にある大きめのレンタルショップは品数ももちろんだが、なかなかに良い品揃えだった。以前来たときにオススメとして集められていた作品は、どれも私の好きなものばかりでこの店員とはきっと気が合うだろうなと思った。
アクションにドラマ、コメディにSF。ホラーは一人で観る勇気はないから今回はパスだ。五本で千円と書かれた貼り紙に惹かれてしまって、ここぞとばかりに見たかったものをすべて手に取った。
何度見ても飽きないお気に入りの作品も加えると結局六本になってしまったが、週末二日間何も予定がないのだし、一日中引きこもってこれを観ることに決めた。ちょうどレジには私一人で、男性店員のいるレジカウンターの前に向かう。
カウンターにディスクを置いて会員カードを取り出すために鞄に財布に視線を落としたとき、聴き覚えのある声が耳に入った。
「これ好きですよね、さん」
突然かけられた声にパッと顔を上げると、声の主はつい先週末あの店で会った京治くんだった。
「えっ」
「いらっしゃいませ」
「え、あの、京治くん?」
「はい、京治です」
『赤葦』というネームプレートを付けた店員はたしかに、あのときに出会った京治くんで、ただ少し違うのは今日の彼は眼鏡をかけていたことだった。
「……なんでここに」
「バイトしてるんで」
「え、あぁ、バイト」
学生なのだから、アルバイトくらいするだろう。
あの日あの場所だけの出会いと思っていたのに、この店の揃いの制服を着てレジを売っているのだから本当に驚いた。あまりに驚きすぎて、カードを渡すのを忘れていた。慌てて財布からそれを取り出して京治くんに手渡す。慣れた手つきでピッピッとバーコードを通して「ブルーレイですがお間違いないですか?」「返却日は一週間後です」とマニュアル通りに接客する彼を見つめていた。
彼からディスクの入ったレンタル袋を渡されて、ちらっと後ろを確認するとレジに並ぶ客はいない。
「びっくりしたよ」
「気づいてないなとは思いましたけど」
「全然」
「はは」
「ここはもう長いの?」
「大学のときからですかね」
このレンタルショップには頻繁とまではいかないが、それなりによく通っていた。それなのに京治くんのことは全然知らなかった。そもそも、それほど店員を気にして見ていないから当然かもしれない。
「家近いの?」
「いえ、学校と家とちょうど間くらいで」
「ああ、なるほど」
その場で京治くんと少しの間話をして、レジに向かう客の姿を見つけてそれじゃあねと手をあげた。すると、京治くんはそれを引き留めてカウンターに置かれたメモ用紙にさらさらと何かを書いて手渡した。
「じゃあまた」と言ってすぐに、京治くんは次の客の対応をしていた。
何だ何だとよれた紙を広げると、よく見る十一桁の番号だった。
こういうとき、もう少し若ければ浮かれたりもしたのだろうが相手は学生である。正直、どうしようかと困惑した。さすがに捨てるわけにもいかず、レジで接客用の笑顔を浮かべた京治くんを横目に財布にその紙を仕舞いこんだ。
*
「え〜、すごい偶然! 京治くんって、ちょっと落ち着いてた子でしょ? いいじゃん!」
「いいじゃん、って簡単に言うね」
「だって簡単でしょ。連絡すればいいじゃん」
「えー……」
「言っとくけど、もうこの先あんな若い子に声かけられることないんだからね! 売れ残り同士、妥協に妥協を重ねて生きていく運命しかなくなるから」
「怖いこと言わないでよ」
「だってそれが現実でしょ」
仕事終わりに飲み出かけた友人と彼のことを相談した。彼女なら京治くんとも話をしているし、何かアドバイスをもらえればと思ったのだが、友人からは「連絡しろ」とこればかりだった。
「……宗教とか、遊びだったらどうすんの」
「この歳だしそういうの心配するのもわかるけどさ。あの場だけだったらともかく、もう素性知れてるわけでしょ? いいじゃん」
先ほどから「いいじゃん」しか言わない友人にため息をつく。「騙されたらそんときは笑ってあげる」とすでに笑っている友人を一瞥する。
他人事だと思って。
そう言えば「他人事だもん」なんて返ってくる。残っていたグラスのお酒を一気に飲み干して、友人に向かってもう一度、大きくため息をはいた。。
「いや、には幸せになってもらいたいよ? でもさ、こいうのはチャンスと思ってどんどんいかないと。本当に何もなくなっちゃうよ」
そういう友人の言葉は痛いほど理解していた。
これまでも、決めあぐねて逃がしてしまった魚たちを何度後悔したかわからない。
しかし、わかってほしい。若いうちなら騙されたり、遊ばれたりしてもそれは笑い話になるが、今、この歳で同じ事をされて立ち直れる自信はない。三十に近い女が、学生の男の子に弄ばれるなんて、恥ずかしいどころの話ではない。そんな私の悩みも友人は「そんなの賭けでしょ」ときっぱりと言う。
「とりあえずさ、連絡してそのあと決めたらいいじゃん。もう子どもじゃないんだから、大丈夫な人か悪い人かなんて自分で見て決めな」
「……うん、そうだね」
「はい、じゃあ連絡して」
「えっ! いま!?」
「当たり前じゃん。ったら一人になったらまたどうせ悩むんだから」
さすが、昔からの気の置けない友人である。私の性格をよく理解している。
財布から京治くんにもらったメモ用紙を取り出して、書いてある番号を自分のスマートフォンに入力した。端末からはプルプルと電子音が鳴り、三十秒。出ない。六十秒ぴったりのところで私は電源ボタンを押した。
「うーん、出ない」
「えー、バイトかな? お店行く?」
「行かないから!」
昔から友人の行動力には本当に驚かされる。
こうして着信履歴に入れておけば、また向こうから何か反応があるだろう。もしなければないで、これで終わりでいい。
そう決めて、新しいお酒を注文した。
友人と別れた後、一人になったときに折り返しの電話があったらどうしよう。折り返しがあるかすらもわからないが、そのときに私はその電話をとれるだろうか。友人が言った、一人で悩むというのはまさにその通りだ。ぐいぐいとお酒を煽って、少しでも前向きになるようにとアルコールに頼った。
その日は平日の真っ只中であり、今夜は終電よりは少し早めに解散となった。
友人と分かれて最寄り駅に着くと、さすがに飲みすぎたのか足元がおぼつかない。改札を出て、構内の壁に手をついて息を吐いた。気持ち悪くなることはないが、足の運びに不安がある。少し休んでから歩くこうと、そのままそこに身体を預けた。
「――さん? 」
閉じていた目を開けると、先日再開したばかりの京治くんがいた。
驚いて「大丈夫ですか」と顔を覗き込む彼を凝視した。
「京治くん……」
「はい」
「な、なんでここに」
「バイトの帰りです」
ああ、バイトか。頷いて、先程彼の話をしていたせいか勝手に気まずく思って彼から視線を逸らした。
「電話すみません。今夜は遅いから明日にでもかけ直そうと思ってました」
「えっ? あ、いや、おかまいなく……」
友人と一緒にいるときに京治くんの番号にかけたことをすっかり忘れていて、思わず口籠った。
やっぱり番号をもらったからといって調子に乗ってかけるのはまずかったかもしれない。こんないくつも年下の男の子に、内心では浮かれてしまっていた自分を恥ずかしく思った。
「飲んでたんですか?」
「……少しだけね。じゃあ」
その場を離れようと、早口でそう伝えて壁から体重を移動させる。前に立つ京治くんに取り繕った笑顔を向けて通りすぎようとした、が、そのまま京治くんに腕を掴まれて身体は動きを止めた。
「ふらふらじゃないですか」
「大丈夫、いつも通り……」
「いつもこんなに飲んで帰るんですか?」
「……いや、今日はちょーっとだけ飲みすぎた、かな」
へらへらと笑ってそう京治くんに伝えると、彼は少しの間考え込むような表情を作った。
京治くんが乗るだろう方面の電車の発車時刻まであと数分だ。それを伝えると、京治くんは「そうですね」と顔を上げて言った。
「送ります」
「えっ! だっ――」
「ダメって言われても送ります」
掴んだ腕をそのまま引かれて、彼のあとをついて歩く。京治くんにはまだ二回程しか会ったことはないが、初めて会ったときもこういう意固地なところがあった気がする。
「家、どっち」と聞く京治くんに、素直に家の方を指差した。
駅から家までの約十分間、 二人で並んで歩く道は特に話が盛り上がることもなく静かだった。その沈黙がどこか気まずくて何か話さなければと焦って口を出た言葉も、二、三度交わせばすぐに沈黙に戻る。
駅前の賑やかな通りを抜けると、閑静な住宅街が広がる。沈黙が余計に際立って、ただ二人の足音だけが響いた。
男性慣れしていないはずはないのに、なぜか京治くんの隣は気が落ち着かなかった。外見からは遊び人には見えないのだが、やはり学生という肩書きと出会った場所がそうさせるのだろうか。
変わらない涼しい顔をした京治くんの隣で、手に汗を滲ませ、心臓は普段よりもいくらか早く鼓動を打つ。せめてそれを悟られないように表情は平静を装った。
「あ、ここです……」
「はい、じゃあまた」
「えっ」
「なんですか?」
「いえ、なんでもないです……」
一つ角を曲がって見えたマンションの前で二人立ち止まった。京治くんは「また連絡しますね。おやすみなさい」とそれだけ言って、 そのまま来た道を引き返していった。
送り狼だったらどうしようと失礼なことを考えていたが、自意識過剰だったかもしれない。予見していた通りになっても困るのだが、気が抜けたというのもまた事実だった。
20160131