※社会人設定 ※喫煙描写あり
三月に入って暦の上ではもう春だというのに、春にしては寒すぎる風が吹き荒れていた。幸いなことに今までに花粉症とやらには悩まされたことはないからその苦しさはわからないが、寒いくせに大量の花粉が風に運ばれてくるのだから友人はいつも嘆いていた。
ソファーに適当にかけられていたパーカーを羽織ってベランダに出る。カラカラと音を立てて窓が開かれると暖房で暖まっていた部屋に一気に冷たい空気が流れ込んだ。奥の寝室で寝ている彼は大丈夫だろうか。私がベッドから離れるときにはきっちりと布団に丸まっていたから大丈夫だと思いたい。百円ショップで買った安っぽいサンダルに足を突っ込むと、冷え切ったサンダルが靴下の布を通して身体を冷やす。
ぶるっと身震いをして手すりに身体を預けて、真っ黒いケースから一本の煙草を取り出した。中身が残り一本となったそのケースをパーカーのポケットに突っ込んだ。煙草なんて臭う、健康に悪い、お金のかかるの三重苦で大嫌いだったはずなのに、別れたはずの元カレの愛用の煙草をすっかり手放せなくなってしまった自分に呆れてしまう。
安物のライターで火をつけて紫煙をくゆらせる。
懐かしい香りにじんわりと胸の奥が熱を持つ。『恋愛に対して男は名前をつけて保存、女は上書き保存』なんて多くの人が言うが本当にそうなのだろうか。どうしてあんなのと付き合っていたのだろうと思うのに、過去の男の顔を思い出して胸が締め付けられるような気持ちになるのはどうしてだろう。
白い息とともに吐き出した紫煙が日の昇り始めた空の中に溶けていった。
「うわ、さっみ〜」
「あ、ごめん。起こした?」
窓を開けて室内からベランダに顏を覗かせたのは花巻だった。自分の身体に腕を回して「寒い寒い」と身体を縮こませているが、寝間着用のスウェットのまま出てくるせいだ。爪先を丸めてその場で足踏みをするように身体を動かしている。あくびを噛み殺しながら花巻は私が手に持っていた煙草の残りを確認するとそれをひょいっと奪い取る。あ、と声をあげたときにはもう灰皿の上に押しつけられていた。あと三回は吸えたのに。文句を言おうと口を開く前に手を引かれて室内に引き戻された。
「風邪引くだろ」
「ちゃんと着てるから平気」
「俺が」
「それは大変」
部屋に入った拍子にサンダルが片方ひっくり返って乱雑にベランダに転がった。
「朝メシ食べよ」そう言って台所に立つ花巻にお願いしまーすと手を上げる。それにため息を吐く彼に二つマグカップを手渡される。コーヒーを淹れろということだろう。いつだったか何かの景品でもらったコーヒーメーカーにカプセルを入れてピッとスイッチを入れた。丸っこくて可愛らしいフォルムのそれは花巻が来たときにしか使われていない。すぐに漂うコーヒーの香りに急に空腹感が強まっていく気がする。
花巻は冷蔵庫の中にちょうど二つ残っていた卵と、封が開けられて乾燥しかけたベーコンで目玉焼きを作ってくれた。あとは常備してある食パンをトースターにかけて、バターとジャムの瓶をテーブルに置く。これがいつもの私たちの朝食スタイルだ。
「貴大くんがお料理できて助かります」
「焼くくらいでもできるでしょ」
「……めんどくさい」
「貴大クンはチャンがちゃんと一人で生きていけるのか心配です」
目玉焼きに醤油かソースか、はたまたコショウか。何度目かわからないやりとりをして、いただきますと二人で手を合わせた。
半熟でない黄身に文句を溢すと「いつの卵かわかんねーもん」と言われてしまってもう何も言えなかった。
毎週、金曜日の夜に花巻が転がり込んできてそのまま週末をだらだらと過ごすのがお決まりになっていた。たまに外に誘われることもあるが、基本的に人混みが苦手なので家にいることの方が多い。せっかく顔が広いのに他の仲間たちと出掛けてこればいいのにと思う。
空になったお皿にシンクの水につけて、花巻は二杯目のコーヒーを淹れてソファーに移動していた。
「……ねみぃ」
「まだ朝早いもん」
週末はお昼ギリギリまで寝ていることの方が多かったが、今日は普段よりも少し遅いくらいの時間に目が覚めた。窓を開けた私のせいで起こしてしまったのなら申し訳ないと思う。花巻は目をしぱしぱと瞬きさせてまだ熱いはずのマグカップに口をつけた。
暖房からの暖かい風にパーカーを羽織ったままだったということを思い出す。ソファー前のローテーブルに煙草のケースを置いてパーカーを脱いだ。
私がマグカップを手にするのと同時にマグカップを置いた花巻がそのケースに手を伸ばす。
「お前タバコやめろよ」
「やめたい」
「じゃあやめろ」
「いつもこれで最後って思うのに、気づいたら買っちゃうんだよねぇ」
へらへらと笑う私とは対照的に花巻の顏は真剣だった。
「次買ったら罰金千円払ね」
「高っ! ていうか、花巻だって前は吸ってたじゃん」
「もうやめた」
言いながら花巻はぽいっと適当にケースを投げた。喫煙者が周りにいるとどうしたって興味を持ってしまうのは仕方がないと思う。同僚なんて喫煙所でコミュニケーションを取るために吸ってるだけだなんて言い訳を繰り返している。一度手を出してしまったら、なかなか逃げ出すのは難しい。そう思うと花巻はよくキッパリとやめられたものだ。
「何でタバコやめたの?」
「健康に悪いから」
「何で吸ったの?」
「若気の至りってやつ?」
「ふーん」
寿命が五年縮んだわ、と決まり悪げに苦笑を漏らした。
「は?」
「うん?」
「何で吸ってんの?」
「えー、なんでだろ。口寂しいから? かな」
わからない、なんてよくもとぼけたものだ。口寂しいとは言っても一日に煙草を加える回数なんて一、二回あるかないかだ。やめようと思えばやめられるはずなのに、そうできないのは多分、過去の思い出に縛られているせい。
テーブルのケースを開けたり閉めたり、意味もなく手の上でくるくると動かす。
花巻は全部気づいているのかもしれない。
気づいているのだとしたら、よくこんな面倒くさい女と付き合っていられるものだ。
花巻とは大学生の頃に知り合った。三年生のときにサークルの飲み会で酔いつぶれた私を家まで送り届けてくれたのが花巻だった。全くその時の記憶はないが、それがきっかけで絡むようになったというのが私たちの馴れ初めである。
お互いに恋人はいたし良い友人だったはずなのだが、私が前の彼氏にこっぴどく振られてから花巻はこの家に頻繁に出入りするようになった。
好きだとか付き合ってくれとは言われていないから友人のままでいた方がいいのだと思う。一度寂しさに負けて体の関係を持ってしまったこともあったが、それ以降花巻は私に手は出していない。それでもこの関係が変わっていないのはお互いが大人になったからなのか。
「匂いってさ、忘れられないんだよね」
「あー、らしいな」
「うん」
「俺も未だに前の彼女が使ってた香水の匂い嗅ぐと思い出すわ」
どこか懐かしむような、複雑そうな笑みを浮かべて花巻は言った。
私の場合それが煙草だ。未練なんてないと言い聞かせても、無意識に嗅覚に記憶されてしまっているせいでいつまで経っても忘れられない。
付き合い始めた秋に香った金木犀の香りも、喧嘩してバカみたいに泣いた日の雨の匂いも全部。忘れたいはずの記憶を一緒に運んできてしまう。
「はまだソイツのこと好きなの?」
「それはない、はず」
振られてからものすごく落ち込んだが今はもう吹っ切れている。好きという気持ちはないし向こうにだって新しい彼女がいる。友人伝で耳に入る彼の話も、よかったねぇと他人事のように聞けている。その人に、というよりはその人と過ごした時間に未練がある。
「へぇ」
花巻は私の手からケースを奪うと最後の一本を取り出して口に加えた。
「え、ちょっと花巻……」
「ライター」
私のことなんてお構いなしに加えた煙草の先をこちらに向ける花巻にしぶしぶライターに火をつけた。
「まっず!」
「じゃあ吸わなきゃいいじゃん」
「がやめらんないっていう程がどんなもんかと思って」
花巻が息を吸い込むのに合わせてじりじりと先端の炎が赤く燃える。ゆっくりと時間をかけて紫煙を吐き出す仕草が、煙草を持つ手が指が、色っぽくて思わず見とれてしまった。その視線に気づいた花巻にニヤリと笑われて慌てて視線を逸らした。
「見惚れた?」
「……花巻のくせに」
「なんだそれ。これ、もういいわ」
「え、」
紫煙を吐き出しながら花巻は煙草を口から離すと、開いたままの私の口に無遠慮に突っ込んだ。
「……ねえ、危ないよ」
「うわー、絶対今ので寿命が一年縮んだ」
花巻は苦虫を潰したような表情を浮かべて、口直しとばかりにコーヒーを口に含んでいた。
「こんなん早くやめた方がいい」そう言う花巻も少し前までは私の何倍もの量を日常的に吸っていたというのに、銘柄が違うだけでここまで嫌悪するものなのだろうかと思った。吐き出すたびに部屋に広がる白い煙に部屋の中では吸わないようにしていたのにな、と一人ごちる。かといって今更外に出る気にもなれなくて諦めた。三回目に息を吐き出したところで、花巻がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「なに?」
「煙草吸ってるときのお前の顔好きだけど嫌い」
「……なに突然」
「」
名前を呼んだ花巻が突然にぐっと近づいて、またしても咥えていた煙草を奪うようにして取りあげられる。
「ちょっ」
代わりに唇に触れたのは花巻のそれで、あまりに驚いて何も反応できなかった。はっと我に返って花巻の肩を押すがびくともしない。
何度か触れて離れてを繰り返すキスを終えるとお互いにゆっくりと離れた。花巻が手に持っていた煙草から灰がソファーにこぼれ落ちる。一筋の煙をゆらゆらと揺らすそれはまだ半分も残っているのにすぐに灰皿の上でぐしゃぐしゃになった。あぁ、もったいない。あとでソファーの灰を片付けるのが面倒だとぼんやりとした頭で思った。
「コーヒーとかの使ってるシャンプーとか、俺はもうそれでお前のこと思い出すよ」
「……で?」
「で、じゃねぇよ。お前なぁ……、こんなん未練がましく吸ってるからいつまで経っても忘れられないんだろ」
いつもより近い距離に身体を捩ると、それ以上に近づかれてしまって諦めた。
「これでもう終わりにするよ……。たぶん」
「たぶん?」
「買いません」
「よろしい」
テーブルに置かれた空のケースをぺしゃんこに潰すと、花巻は余裕の笑みを浮かべる。花巻が離れるときにふわりと鼻を擽る香り。昨日使ったお揃いのシャンプーでもなければ煙草の香りでもない。
「……その顏なんか腹立つな〜」
「何だって?」
「なんでもないです〜」
誤魔化すように口をつけたコーヒーはすっかり冷え切ってしまっていた。
20160307