グラスを掲げろ
※社会人設定

「いーわーいーずーみー!」
「……うるせえ」
「ハイ、飲んで飲んで〜」
「うるせえ、飲んでるわ」
 ぐいぐいと可笑しいほどに空けられるグラスに、アルコールを注いでいく。あからさまに面倒くさいという顔をした岩泉に内心苦笑が漏れる。
 ガヤガヤと騒がしい安い居酒屋での会社の飲み会なんて、全く乗り気ではなかったのに珍しく岩泉が参加をするというのを人づてに聞いた。途端に面倒だと憂鬱だった気分は消え、期待がぽんぽんと胸を弾ませる。
 岩泉は、就職した先の同期としてそこにいた。一目見てこの人だ!と思った。社内恋愛禁止だなんて書いていなかったし言われてもいないから、遠慮なくアピールをしていたというのに全く気づかないのだから笑ってしまう。二人で飲みに行く仲にもなったというのに、そこから進展する様子もなし。子どもみたいに地団駄を踏めば、さすがの岩泉でも気づいてくれるだろうか。 いい年をしてそんなことはできないが、そうしてやりたいくらいこの男は恋愛というものに無関心であった。もしこちらの気持ちに気づいていてこういう態度をしていると言うのなら、なんという策士だと感心する。しかし、他の同期に相談してみたところではその可能性は低いようだ。
 乾杯から今まで、変えずにビールを喉に流し込む岩泉に「違うのもあるよ」「ハイ、お注ぎしますね〜」と忙しなく世話を焼いていたら、しびれを切らした岩泉が声をあげた。
「ッだーもう! 勝手に飲んでるからほっとけ! 向こうで部長の酌でもしてこいよ」
「えーやだー」
 ふざけて口を尖らせると、岩泉の眉がくっと眉間に寄せられた。
 周りの社員たちも私の事情はわかってくれているので、「俺らのことは遠慮なく」とこちらの様子を観察しながらニヤニヤと酒を煽っていた。
 ムッとした様子でジョッキに口をつける岩泉の調子はいつもと変わらないのに、耳がほんのりと色付いている。
「ねえ、酔った?」
「……………」
「岩泉くーん?」
「あー、酔った酔った。酔ってるからお前、少しは静かにしろ」
 しっしっと犬や猫にやるみたいに、手を揺らして岩泉は息をつく。
 呆れられてあしらわれているというのに、にやにやと口元は緩んでしまう。あんまり言うと本当に怒られてしまいそうで、ひとまずその場を離れることにした。近くに座る先輩方にべろべろにしちゃってくださいね!と親指を立てると「まかせろ!」とノリの良い返事が返ってくる。
 立ち上がったところでちょうど上司に声をかけられたので、そちらの方へ向かう。少しの間、上司のご機嫌でも取ってくることにしよう。


 ビールに焼酎、日本酒、ワイン。飲まし飲まされて、ほどよく酔いが回ってきた。盛り上がっているテーブルをそろそろと抜けて、岩泉の元へ戻る。
「岩泉〜」
「あ?」
「酔ってますねえ」
 ふざけてけらけらと笑ってみると、振り返った岩泉の顔は、赤かった耳から伝染したように頬まで赤みが広がっていた。
 宴もたけなわの頃。酔っぱらいしかいない会場内はひどく騒がしい。岩泉の周りに座っていた同期や先輩達もイイ具合に酔っぱらってテンションが上がっている。酒に強くない者は先に抜けたりもしていたが、テーブルに突っ伏して寝る者もちらほら見られる。
「岩泉ってお酒強いんだね」
 感心して呟くと「ほどじゃねえわ」と返されて、うう〜ん、と眉を下げる。
「……何だよ」
「岩泉が思ったより強いから」
「飲めたらワリーのかよ」
「や、全然?」
 テーブルに置かれた徳利に手を伸ばす。ほとんど冷めてしまったそれを振ってみると残っていた酒が揺れる感触がした。岩泉が手にしていたものと、近くにあった誰のものかわからないお猪口を並べて酒を注ぐ。
 まだ飲むのかよ、と言いたげな岩泉にそれを差し出して、カンパーイと陶器同士をぶつける。
「私は言うほど飲んでないもん」
「……こっちはしこたま飲まされたわ」
 岩泉は、そう言いつつもお猪口を煽る。同じように自分のものを舌で掬う程度に舐めてみると、 つんと匂うアルコールの香りと比べ思ったよりもさらっとした味が舌を撫でた。その後に広がる苦味に思わず顔を歪めると、岩泉がそれを見てくつくつと笑った。
 えー、と口を開きかけて岩泉を見ると、酔いせいか赤みがかった目元を緩めて笑うその表情は知り合ってからはじめて見るもので、思わず口を開けたまま見つめてしまう。いつもは気にならないのに、無意識に出てしまう東北訛りも。別に、普段の岩泉が全く笑わないわけというわけではないのに、いつもより気の緩い雰囲気が新鮮だと思った。
「なんだその顔」
「え、いや、岩泉かわいい顔するなって」
「は?」
「いつも酔っぱらってなよ」
「イヤおかしいだろ」
 そうしてまた珍しく幼い笑顔で可笑しそうに笑うから、ますます目が離せなくなってしまった。
 もう無いとわかっているのに徳利を傾けてみると、一滴だけ零れ落ちたそれはポタ、と小さく波紋を広げた。
「岩泉って潰れるまで飲むことあるの?」
「あ? あ〜……、」
「あるんだ」
 彼と飲みに行くたびに思うのだが、酔い始めるのは早いのにひどい酔い方をしている様は見たことがない。だいたいいつもお互いにほろ酔い以上にはならない。それより先に落ちる前に解散するか、岩泉に止められてしまうのだ。
 ちょっとした好奇心だ。そんな彼が酔いつぶれた姿が見てみたい。過去にそういった経験があるのかと問えば、苦い思い出でもあるのだろうか、歯切れの悪い岩泉に勝手な推測を立てた。
「え〜、今日は?」
「潰れるかよ」
 チッとわざとらしく舌打ちを溢すと、それもおかしいのか岩泉は破顔してほとんど一滴も残っていないはずのお猪口に口を付けた。
 ちょうど店員がラストオーダーの時間を告げに来て、各テーブルで最後の注文を取っていく。
「まだ頼む?」
「や、もう十分」
 そう言いつつも、テーブルの少し離れたところに置かれた別の徳利を手にし注いでいるのだからこの人を潰すには相当の時間と酒の量が必要だと覚り苦笑が漏れた。

 宴は日付が変わる前にお開きになった。二次会だー!と別の会場へと向かう先輩や同期たちの背中を見送る。アルコールが入り体温の上がったせいで、吐く息が熱を持つ。酔っ払いしかいないこの周囲は心なしかアルコールの香りが漂う。
は? 帰んのか?」
「うーん、そのつもり」
 岩泉は二次会へは行かないと言ったからとりあえず残った。彼が帰ると言えば帰るし、飲み足りないと言うならば喜んで付き合おうと思っていた。
 ここの最寄りからいくつか先の駅に自宅はある。もう少し距離があれば、終電が早ければそれを理由に誘うこともできた。しかし、私の知る岩泉という男はどれだけアルコールが入っていても、女性の終電は逃さないし、例え逃したとしてもそれを機にどうにかしてやろうという気を起こさない奴なのだ。だからこそ、その逆をしてやろうと思っていたのに。
「送るわ」
「飲みに行かないの?」
「飲みすぎだろ」
「私が? 岩泉が?」
 岩泉は私の質問には答えず、持っていたバッグを奪い取るように持つと駅の方向へ足を進めた。慌てて追いかけて隣に並ぶと、わかりやすく足の速度が緩んだから、嬉しい反面内心ため息が漏れた。
 きっとこの男はこういうことをどこの誰にでもやってのけるし、そうして向けられた好意を気づきもしない。モテないモテないと騒ぐ会社の男性陣に紛れているが、全く自分のことをわかっていない彼に呆れてしまう。
 腕時計の針は確実に進んでいるのに、正確に一秒一秒を刻む速さに焦れったい思いがする。早く終電の時間になってしまえ。今の時間では、家に私を送り届けて岩泉の電車の時間も十分に間に合ってしまう。
 我ながら阿呆な考え方だと呆れるが、この鈍感男を意識させるには多少強引な方法もやむを得ないと許されてもいいのではないかと思う。
「あー、帰りたくない!」
「うるせえ酔っ払い」
 ドラマで観た女の子は「帰りたくないの……」と上目遣いで訴えて、相手の男は一発KOだったのに。おかしい。岩泉はこちらを見ることもせずに一喝した。
 駅に向かう人の疎らな道に響くヒールの音。意識ははっきりしているものの、身体中に回ったアルコールが、足をふらつかせた。家までの距離をそんな様子で歩いていたので、終始岩泉は「あぶねえな」と呆れ顔で眉を顰めていた。
 最寄り駅を降りて数分、目の前に建つマンションを見上げる。我が家です、そう手を向けた。
 結局最後まで持ってくれていたバッグを受け取り、まさに今、ぎりぎりまで期待していたのに「おう」と岩泉は足を返す。
「えー!」
「……なんだよ」
「部屋に着くまでに倒れるかもしれない」
「倒れとけ」
「ひどい!」
 終電前の時間にしろ、一般的にはもう就寝の準備を済ましているような時間。こんな深夜に騒いで近所迷惑と怒られるかもしれない。岩泉は露骨に面倒くさいという表情を浮かべる。ここまで来ればどうにでもなれ、だ。
 少しの間、岩泉と見つめ合うようにしていると、根負けしたとでも言うように、彼は大きくため息を吐いた。そして、腕を引っ掴まれてオートロックの入口まで引っ張られる。パスコードを入力する手が震えてしまうのを見られないようにするので精一杯だった。
 つかつかと足早に向かう岩泉についていくとコンクリートの床にヒールが引っかかる。部屋の前について、手を出されたので部屋の鍵を渡すと重い音を立てて扉が開く。
「おわっ」
 少々乱暴に肩を押されて、部屋に押し込められる。狭い玄関口に並べられた靴に足がもつれて、思わず岩泉の腕を掴んだ。
 そうしてそのまま、岩泉のシャツに手を伸ばすとバランスを立て直そうとした足が玄関を踏み込んだ。自分でも稀な俊敏な動きを見せたと思う。身を乗り出して岩泉の背後に手を伸ばし、扉を閉めた。
 閉められた室内にガチャリと金属音が響き、岩泉が目を細める。
「お前……」
「え、へへ」
 扉に手をついて岩泉を見上げる。
 流行りの壁ドン、ではないが、初めての近すぎる距離に、酔いのせいではなく脈は速くなるのを感じる。
「帰る」
「終電間に合わなくない?」
「ふざけんな」
「本気だもん」
 お互いに普段よりも高い体温のせいで、二人の間に籠る熱でじっとりと汗が滲む。乾いてカサついた唇を舌でなぞると、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえる。それが自分のものなのか、岩泉のものなのかわからない。
 最後に見えたのは、悔しそうに舌を鳴らす岩泉の瞳だった。

20160610
この後返り討ちに遭う模様