誰も春を止められない
 サラサラとペンを滑らせる焦凍くんと反対に、私は目の前の数式や数列をとっくの前に見飽きていた。もうダメだとペンをコロンと転がす。その音に気づいて、同じテーブルでノートを広げている焦凍くんが顔を上げた。
「なんだ、もう終わったのか」
「ギブアップです!」
「わかんねえとこがあるのか?」
 どれもこれも全部わからないと不貞腐れて言うと、焦凍くんは私のノートを覗き込む。
「……全然進んでねえ」
「わからないもん」
 わからないもんじゃねえ、と呆れた息を吐いて焦凍くんは私の問題集を手に取った。
 ここの公式を当てはめて、ここがああでこうでこうなって――。
 せっかく焦凍くんが説明してくれているのに、そんな数字の話は右から左に流れていく。
 ノートに顔を向けたため、焦凍くんの髪がさらりと揺れた。個性も強ければ顔もいいのにキューティクルまで完璧なのか。スキンケアなんて絶対気を遣ってるわけがないのにキメが細かい肌にまつ毛は影を作るくらいに長く伸びている。一般的にイケメンと言われる部類に入る彼は、あのエンデヴァーを父に持つ。家も良し、顔も良し。そしてあのヒーロー育成の最高峰とも言える雄英高校への推薦入学。
 かっこよくて、強くて、頭も良くて。私なんかが焦凍くんと恋人をやっているということがいまだに信じられない。
 焦凍くんとは家が近所で幼馴染。小さな頃から一緒だから、そんな情だから付き合ってくれているのかもしれない。こういうことはあまり考えすぎると泥沼に嵌る。焦凍くんは私のことをどう考えているのかわからないが、こうやって幼馴染の延長みたいな恋人関係になれただけでも奇跡だと思う。
 何を食べて生きてきたらこうなれるのだろうと羨まし気にじっと見つめていると、不意に焦凍くんの視線とかち合った。
、聞いてんのか」
「聞いてなかった……」
「……明日当てられても知らねえからな」
 それはまずい。その辺りに転がったペンを握りなおして、もう一度と姿勢を正した。
 焦凍くんの説明はわかりやすいとは思うが、やっぱりどうしても数学というものを受け付けない性質らしい。ハテナマークをふわふわと飛ばしている私に根気よく教えてくれる焦凍くんのおかげでなんとか問題を進めているが、こんなのもの社会に出ても本当に活用する場なんてあるんだろうかなんて疑問に思ってしまう。もし私が大人になって働くときには数学を使わないような仕事に就きたいと思う。
 睡魔に負けずに授業を受けていてもサッパリなのに、なんて事のないようにスラスラと問題を解説していく焦凍くんに感嘆の息を漏らさずにいられない。テストだって、試験勉強もろくにせずともクラス上位の点数をキープしてしまうらしい。なんだそれずるい。
「授業聞いてるだけでクラス上位って頭どうなってるの……?」
「? 普通に授業聞いてりゃわかるだろ」
「レ、レベチ! 私も聞いてるだけで理解できる個性が欲しかった!」
「……わけわからねえこと言ってねえで早く手ェ動かせ」
「はい……」
 仕方なくと課題のノートに向き直る。カリカリとお互いのペン先が紙の上を走る。やっぱりスラスラと解いていく焦凍くんと違って、私は基本的な問題にも頭を抱えた。

「うっ、やっぱり頑張れない……」
 早々に再び根を上げた私に、焦凍くんは今度は顔も上げずに手を動かしていた。
 やはり数学とは相容れない。どうしてもこの課題を終わらせないといけないのならば、せめて何かこうモチベーションが上がるようなものを――。
「あっ! わかった!」
「そうか、よかった。じゃあ後は自分でやってくれ」
 閃いて声を上げると、焦凍くんからは冷ややかな言葉。もう完全に相手にしない態度を決め込んでいるようだった。
「じゃなくて、頑張るからご褒美ちょうだい」
「は?」
 突拍子もない私の閃きに焦凍くんは眉を顰める。
「いやほら、やる気出すために何かあると嬉しいじゃん? 犬だってしつけ通りにお座りとか伏せができたら撫でてもらったりおやつもらえたりするでしょ」
「いや、よくわかんねえ。けど、なるほど……。たしかにそうだな」
 ふむ、と焦凍くんは顎に手を当てて何かを思案する。
「わかった」
「えっ、何くれるの?」
「終わってからな」
 なんでもいいと言われたら今度ゴディバのショコリキサー奢ってもらおう。学生に買えない値段ではないが、気軽には手が出しにくい。学校帰りにゴディバでドリンクなんてちょっとした贅沢だ。
 ひとりでまだもらえるかもわからないご褒美にうきうきしながら問題に視線を向ける。
 結局わからないところは焦凍くんに教えてもらいながらなんとか問題を解いていく。頭を使うからか、甘いものを欲してしまう。チョコレート食べたいなあなんて考えていたら、焦凍くんに集中しろと言われてしまった。
 
「お、終わった!」
「……すげー時間かかったな」
「ごめんね、ありがとう」
 なんとなく疲れた様子で息を吐いた焦凍くんには、流石に申し訳なく思う。
 ご褒美を、なんて強請ってみたが、逆に私が焦凍くんに礼をしなければいけない気がしてきた。
 ちょうど課題がひと段落したこのタイミングで、下から夕飯だと声がかかる。
「あ、もうそんな時間?」
 焦凍くんはノート類をまとめて帰り支度を始める。夕飯の美味しそうな香りが漂って、お腹の虫が小さく鳴いた。それが聞こえたのか聞こえていないのか、思い出したように焦凍くんが口を開く。
「姉さんが今度久しぶりにも飯食べに来いって」
「え、行く行く!」
 冬美さんの作るご飯は絶品なのだ。
 食い気味な私の返事にふわりと柔らかく笑う。普段の彼はあまり感情表現が豊かな方ではない人だから、こういう時にたまに見せる焦凍くんの顏にはドキッとさせられる。

 呼び止められて、部屋の扉を開けようとドアノブに触れたその手を上から握られる。
「え、」
 振り返り見上げた先でほんの一瞬触れた唇はほんのりと冷たくて少しカサついていた。視点の定まらない中で焦凍くんがふっと口角を上げる。
「ご褒美だろ?」
 焦凍くんは何でもないという顔をして、じゃあなと部屋を出て行った。その顏は、全くいつもの通りの焦凍くんだ。
 普段と変わらない様子でいる彼とは対照に、私は頭で湯でも沸かしてるのかと思うくらい熱を上げた。
 私が変な声をあげている間に、焦凍くんはすたすたと階段を降りていく。うるさいわよ!なんていう母の声を聞きながら、私の頭の中は大混乱で、さっき教えてもらった数式が頭の外で弾き出されていく。
 先ほどの大声とは一変して、あらあらまあまあと心なしか高めの声に変わった母の声が聞こえた。
「お邪魔しました」
 玄関先から聞こえる焦凍くんの声に我に返り、慌てて階段を駆け下りる。そこでまた母に家が壊れる!なんて怒られてしまうのだが、私は家を出る寸前の彼を引き留めなければと必死だった。
「おやすみ」
 口元に指を当てて内緒だと静かに笑った彼に、私は内側から心臓が鷲掴みにされた心地だった。
 ゆっくりと玄関の扉が閉まって、母は感嘆の声を漏らす。
「は〜、焦凍くん、本当にかっこよくなっちゃったわね」
「死んだ」
「何言ってんの。ほら、ご飯食べるわよ」
 その後、ドキドキとうるさい心臓を治めながら食べた夕飯の味はほとんどわからなかった。



「何ご褒美って! ゴディバかと思った! 死ぬかと思った!」
「ゴディバの方が良かったか?」
「ゴ……! ディバより良かった……」

20200314