好きの飽和
毎度、切り替えの早さに感心する。ハロウィンが終わると、街はすっかりクリスマスモードになっていた。花屋の前はポインセチアで赤く染まり、街路樹にはささやかにイルミネーションが飾り付けられている。ショップで流れている音楽もクリスマスソングばかりで、今年の終わりを実感した。京治くんと一緒に住み始めてから、気づけばもう一年が経っていた。去年買ったクリスマスツリーを玄関先に飾り付けながら、そう遠くない懐かしい日々を思い出した。
お互いに年末に向けて仕事が立て込んでいたせいもあって、二人でゆっくりと過ごす時間があまり取れずにいた。帰る時間はバラバラだし、休日出勤も当たり前のようにあった。帰って顔を合わせても疲れてすぐ眠ってしまう。風邪も流行りだしたこんな時期に体調を崩してはいけないと、休息睡眠優先が暗黙の了解だった。
とはいえ、せっかく一つ屋根の下。好きな人と暮らしているのに、すれ違いばかりでは寂しいというのが本音だった。凍えそうな寒さの帰り道で、いちゃいちゃと身体を寄せ合うカップルたちが余計に孤独感を助長させる。京治くんという相手がいるのに、彼らを羨ましく感じてしまう。こんなことを言ったら、プロ独身を突き進むと開き直っていた会社の先輩に怒られてしまいそうだ。
都会の冬の星空は、地上から溢れる光のせいでぼんやりと薄明るい。白い息を広げながら、ヒールを鳴らせて家までの道を足早に歩いた。
暗くひんやりとした部屋は、吹く風がない分外よりはマシだが、寒くないとは言えなかった。ストッキング越しの足裏から冷たさが全身に回りそうで、つま先立ちで急いでリビングに向かう。一番にヒーターの電源を入れて、それからテレビをつければバラエティの明るい声が部屋に響いて一気に賑やかになる。暖かい空気が広がって、ようやく着込んでいたコートを脱いだ。
寒さで強張った指先でスマホを開くと、家主ももう少しで帰宅できるというメッセージが届いていた。時計は九時に向かって針を進めている。一般的に考えて、早い時間とはとても言えないが、久しぶりに夕食を一緒にできるらしい。普段ならソファーに転がって部屋が暖まるまでだらだらとスマホゲームでもして過ごすところだが、浮足立ってキッチンなどに立っていた。
十分ではなかった食材を掻き集め、レシピサイトという裏技を使い、京治くんが帰る頃に合わせて用意した夕食を並べて出迎える。外の冷たい空気を引き連れるようにして部屋に入った京治くんに駆け寄って飛びついた。予期しない衝突によろけた京治くんの冷えたコートに体が震えそうになったが、それよりも何よりも先にこれを言わなければと口を開く。
「おかえりなさい!」
寒暖差に鼻の頭を染めた京治くんの腕が背後に伸びてきたので、そのまま胸元にぐりぐりと頭を押し付ける。久しぶりの京治くんとのふれ合いは、なんだか照れくさい。
「さん」
京治くんの声に顔を上げると、額に触れた柔い感触。目を細めた京治くんの「ただいま」の声に、ここしばらく感じていた寂しさを押しのけるようにして湧き上がる慕情に胸がいっぱいになる。ぎゅうと、さらに腕の力を込めた。
「夕飯、作ってくれたんですか」
その言葉にはっとして、帰ってきたばかりだしご飯食べたいよねと、名残惜しいがゆっくりと身体を離す。
「ありもので作っただけだけど…」
「いえ、ありがとうございます」
京治くんはぽんと軽く撫でるように頭に手を乗せて、コートやバッグを片付けるため部屋に向かう。温かなごはんの香りにすっかり腹ペコだと身体は知らせるのに、その夕飯が邪魔ものにすら思ってしまった。
美味しいとも不味いとも言われない夕食を済ませたあと、ソファーの上で食後のお茶をすすりながら、年末に向けた特番を適当に流していた。集ったお笑い芸人が賑やかにトークを展開していくのを聞くふりをしながら、意識は隣に腰を沈めた京治くんに注がれていた。
こうしてテレビを見て過ごすのも、二人でソファーに並ぶのも、いつものことなのにどうしてかそわそわと落ち着かない。無意識にちらちらと向けてしまう視線を、なんとかテレビに縛りつけるように意識するのだが、テレビの音など右から左なので笑うタイミングも突っ込むタイミングもわからずに不自然にうろうろとするだけだった。
良い雰囲気とは、どうやって作るものだったっけ。前まではどうしてた? がっついて引かれるのがこわい。欲しがっているのは自分だけだと知るのもこわい。でも、もっと触れたい触れられたい。テレビなどそっちのけで、ぐるぐると落ち着かない自分の思考に、いい歳をして初恋中の中高生かと自嘲する。
微かに触れる肩口に、意識が集中する。手持ち無沙汰にと、とりあえず握っていた空のマグカップは、すっかりと温度をなくしていた。意を決して、あの、と口を開いたところで、京治くんの視線がこちらに向いていることに気づいた。
「ど、どうしたの?」
「さんこそ」
「どうもしないよ。あの芸人さんおもしろいなーって」
慌てて誤魔化して笑ってみると、テレビの中ではネタが滑った芸人のせいで変な空気が流れていた。電波を通して微妙な空気まで持ち込んでくるなんて、本当にやめてほしい。司会の大御所芸人に突っ込みという名のフォローを受けて、弁明をする後輩芸人を心の中でなじってやった。
京治くんは、自分の半分ほど残ったマグカップをテーブルに置くと、私から取り上げたペアのそれを隣に置いた。
「さん」
「はい」
「何かあるでしょう」
「何かって…?」
「さっきからずっと見てるから」
「や、テレビを…」
「俺をですよ」
ぎくりと、わかりやすく息を呑んだ私に、京治くんは探るような視線を向けていた。
「何かあるなら」
「な、ない!」
「……本当にですか?」
言葉は強くないのに、じっと向けられた視線に尋問でもされているかのような居心地だ。きまり悪さに視線を逸らすと、伸びてきた手に頬を掴まれる。柔い肉を強調させるように摘まれたあと、もう片手で反対側を挟まれる。責められているような、それにしては耳や顎に沿うようにそっと撫でられる手があまりにも優しくて、わけがわからないまま京治くんから目が逸らせなくなる。一見細くみえるのに、触れてみると男らしく骨ばった長い指とか大きな手のひらの感触に、会えない間に奥の方にしまい込まれていた言い知れない熱がじわじわと込み上げてくるのを感じた。
これはまずい。
慌てて取り繕うように腕を払って、テレビに向き直る。たいして面白くもなさそうなコーナーが始まっていたが、無理やりアハハと笑ってみる。視界の端に映る京治くんが何か言いたげにこちらを見ていたが、見ないふりをすることに決めた。
すると、隣から小さくひとつため息が耳に入る。どきりと嫌に心臓が揺れて、それでも視線はテレビへ向けたままにしていた。
「え、あっ…」
ブツリ、と電気の切れる音とともに、テレビの映像は途絶えた。犯人は、言うまでもなく京治くんだ。観ているようで観ていなかったので消されても良いのだが、他に注意をそらす場がなくなったのは問題だ。他に何か、と探った先のマグカップに手を伸ばす。私の手が取手を掴むより先に、京治くんの手に捕まってしまった。
おそるおそる様子を伺うと、京治くんからはとんでもない言葉を口にした。
「さんからしてください」
え? なんだってよく聞こえなかった。テレビの賑わいもなくなった静かな部屋で、京治くんの声はしっかりばっちり私の耳の奥まで届いていたのだが、白々しいジェスチャーが表に出た。
「聞こえてただろ」と、京治くんはムッとしたように小さくこぼした。
「しばらく会えなくて寂しくしてたのは俺だけですか」
「え、」
「久しぶりに会えたさんに触れたいと思うのは俺だけですか」
「ま、待って!」
責め立てるように言葉を連ねる京治くんに、私は慌てて彼の口元を両手で抑えた。
眉を顰めてこちらを見やる京治くんの言わんとしていることは理解ができるのだが、それを素直に、ハイやってみせましょうと言うことは私には難しいことだった。
「な、なにを…」
「そんな物欲しそうな顔で見られたら、欲しくなるでしょう」
「そんな顔…!」
そんな顔はしていないと、自信を持って言えたなら良かったが、残念ながら自覚はあった。しかしそれを、京治くんに見られて、さらにその胸のうちまで察せられていたとなると、これほど恥ずかしいことはない。
かっかと照る顔が熱くて、情けなく赤くなったこの顔も見られてしまうと思うと、より辛抱たまらない。
ソファーの肘掛け、背もたれ、それに反対側には京治くんの腕に囲まれて、逃げることは許されないらしい。人間、切羽詰まると開き直るのが吉というが、まさしくいまがその状況だった。ごくりと唾を飲み込んで、京治くんの名前を呼んだ。
「……京治くん」
「はい」
伸ばした腕を首に回して、少しだけ背伸びをして触れた先は、久しぶりの甘い感触だった。
顔を見られるのが恥ずかしいのと気まずいのとで、唇を離してすぐに肩口に顔を埋める。さみしかったと小さく呟いた声が京治くんの耳に届いたかどうかはわからない。ふざけて身を寄せることは簡単なのに、素直に自分の本心を見せるという行為はどうしてこうも難しいのだろうか。
大げさに息を吐いた京治くんに、間違えたかと内心焦っていると、回された腕に力がこもった。
「それだけ?」
「え?」
「それだけでさんは満足ですか?」
切羽詰まったような、甘く低い声に、びくりと身体が震える。そんなわけはないと、口には出せないが小さく首を振った。
ゆっくりと身体がソファーに沈んで、額から頬から、首筋へと落ちていく唇に、どうしようもない気持ちで溢れかえりそうだった。うるさいくらいの心臓の音が京治くんにも聞こえてしまわないかハラハラする。
「…さん、明日仕事は」
「お休みだけど」
「じゃあ、ゆっくりできますね」
わざと耳元に落とされた言葉に、身を震わせた。、京治くんのいう「ゆっくりできる」というのは、私の思う休息と果たして同じ意味だろうか。“ゆっくりする”ことの解釈が違っているような気もしなくもないが、ルームウェアから入り込んだ指先が肌を撫でて、どうやら考え事をしている暇はないらしい。
こうなったらとことん充電させてもらうしかないと覚悟を決める。週が明ければきっとまた忙しくなるだろう。反応する身体をからかうように触れる京治くんに、お返しとばかりに頭を持ち上げてキスを落とした。
20161222