パラディーゾ
今夜の京治くんはどうも機嫌が悪い。
喧嘩をしたわけではない、と思う。けど、原因は私にあった。月末で忙しくしている京治くんの帰りが遅いのを良いことに、仕事帰りにこっそりと不動産屋さんを回っていることがバレたのだ。
アパートやマンションの賃貸物件の詳細が書かれたチラシがテーブルの上に広げられている。会社の沿線上の駅から徒歩十分。築三年、1K、光熱費込み家賃八万円と少し。一人暮らしには十分なところだ。しかもオール電化な上、ウォークインクローゼットまでついている。不動産屋のお兄さんにも「いや〜、自分が住みたいくらいですよ」と営業スマイルを向けられて、前向きに検討しますね!と意気込んでチラシを持って帰ってきてしまった。
京治くんと一緒に住んで数ヵ月。付き合い始めてから一ヶ月と少し。 京治くんと一緒に住んでいることが当たり前になって、新しい家を探すということをすっかり後回しにしてしまっていた。
京治くんは一緒に住んだままでいいと言ってくれたが、仕事も落ち着いてきたし今はもう貯金だってする余裕もある。それに、恋人同士になったことで、変わってしまった居候生活に私は焦っていた。
「…………」
「……あの、京治くん」
テーブルを挟んで向かい合って座る。
おそるおそる京治くんを見れば、眉を寄せて不動産のチラシに視線を落としている。
「さんは、ここを出たいんですか?」
「……出ようかなと思って探してみたんだけど……」
そう言うと京治くんは、眉間の皺をさらに深くした。
「……質問を変えます。俺と一緒に住むのは嫌ですか?」
京治くんに見据えられて、どきりと胸が縮んだ。
この家を出るというのは、京治くんとの関係が変わってから、ずっと考えていたことだった。今の今まで二人きりで過ごしておいて何を今更と思うのだけど、好きな人と生活を共にするということがとんでもなく軽率な行為だったと気づいてしまったのだ。
たとえば、朝起きて寝起きの姿やお風呂上がりを見られてしまうこと、ベッドは分けていたとはいえ一緒の部屋に寝ていること。素の自分をさらけ出しすぎていて、それを見られ知られていることが急に恥ずかしくなってしまった。
それに、はじめは仕事が見つかるまで、収入が安定するまでを条件に住まわせてもらっていたはずだった。京治くんと恋人同士という関係になった今、世話になりっぱなしであることが、彼の恋人として不甲斐なさと後ろめたい気分になったのも理由のひとつだ。こんなことなら最初からちゃんとしておけばよかったと遅い後悔をするのだが、そもそもちゃんとしていたら京治くんとも一緒に住むことはなかったなと思い返す。
京治くんは私の答えるのを待つ間、じっとこちらに向けた視線ははずさなかった。
「京治くんとは一緒にいたいけど……」
「けど?」
「そ、そろそろ一人で住みたいかなーって。引っ越し資金も貯まったし」
心なしかぴりぴりとした空気に耐えかねて、へらりと笑ってみる。
京治くんは一瞬目を細めた後、「そうですか」とだけ残してリビングを出ていった。バスルームの扉の音が聞こえたので、おそらくお風呂にいったのだろう。
京治くんの抑揚のない声が、家を出なければという決意を揺るがせる。
京治くんが出るのと入れ違いにシャワーを終えてリビングに戻ると、京治くんはリビングのソファーにもたれ掛かって座っていた。もうすっかり先に寝ていると思っていたからのんびりとシャワーを浴びてきてしまった。別に、私を待っていたわけじゃなかったかもしれないけど。
「寝ないの?」
「もう寝ます」
そう言うのに、京治くんはその場から動かない。
洗面所に戻って、タオルで頭ごと髪を包んだ状態で歯磨きを済ませる。そのあと、髪を乾かすのがいつもの順番だ。マイナスイオン付きのドライヤーは、 私が持ち込んで置かれるようになったものだ。初めて京治くんがこれを使ったとき、いつもの跳ねた髪が落ち着いて妙な感じになっていたのを思い出した。結局、朝起きたら元に戻っていたけど。それを思い出して笑っていると、いつの間にか洗面台の鏡越しに背後に立つ京治くんの姿が映っていた。
鏡に向かって一人で笑う私を訝し気に見て、京治くんは「あんまり遅いから手伝いに来ました」と言った。
のんびりしていたとは思うが、シャワーを出てからそんなに時間は経っていないはず。時計を確認したくても、あいにくここには時間のわかるものは置いていない。
京治くんは、テキパキとドライヤーとブラシを準備して、髪を乾かし始めた。
「もう寝ます」なんて言っていたのに、なんだかんだ待っていてくれたのかと思うと京治くんの優しさに温まった身体の内側ががさらにじんわりと温かくなる。
自分よりもひとまわりも大きな手にわしゃわしゃと髪を混ぜられる。 いつも、京治くんのブローは手際がいいのに丁寧で心地いい。思わず目を閉じていると「こんなところで寝ないでくださいよ」と呆れられたから、わかってますぅと重い目蓋を必死に持ち上げた。
付き合い始めてからも、寝床を別にするというのは譲れない条件だった。ときどきその時の雰囲気で一緒に寝ることがあっても、基本的には別々だ。
いつもとは微妙に違う空気の中、おやすみと言えば「おやすみなさい」と返ってくる声があることにほっとした。
自分用の布団に手をかけると、京治くんに名前を呼ばれて振り返る。
「わっ」
腕を引かれて、ダイブしたのは京治くんのベッドだった。
「……京治くん」
「はい」
「寝るんじゃなかったんですか……?」
「寝ますけど」
寝ますけど、なんて言いながら腕を回してさらには足を絡めて身動きのとれないようにしているのはどこの誰だ。
私からしたら大きめのベッドだけど、身長のある京治くんと二人で乗れば広いとは言い難い。ギシリとベッドのスプリングが二人分の重みで軋む。
さりげなく胸を押して京治くんから距離をとろうとしてみても、その分以上に引き寄せられる。その勢いで胸板に鼻をぶつけて、少し、いや結構痛かった。ゆっくりと息を吸うと、自分のものと同じ柔軟剤の香りがした。
「……もしかして、寂しくなっちゃったんですか〜?」
「はい」
「エッ」
なにも言わない京治くんに、頭をぐりぐりと押し付けながらからかって言うと予想外に肯定の返事が返ってきたので驚いた。頭を上げようにも、胸に押し込められるようにされているのでそれもできない。どう返事をすればよいかわからなくて、少しの間沈黙が流れた。
「ここにいるのが嫌なら止めません。でも、それ以外の理由なら却下します」
京治くんは、はっきりとそう言った。
リビングで話したときには、しぶしぶと納得してくれたのかと思っていたのに、どうやら違ったらしい。
「いやでも、元々ここに来た理由が理由だし……その、申し訳ないというか……。そもそも、いきなり男女が二人で住むってどうなのかなって……」
「今更気づいたんですか」
「う……」
京治くんの大きな呆れを含んだ声に声が詰まる。
「ていうか、一人暮らしするって、さん一人で生きていけるんですか? 仕事から帰ってそのまんまソファーで爆睡してる人はどこの誰ですか。アンタ一人じゃ食事も適当だし、この前俺が出張行ってる間、メシちゃんと食ってなかったの知ってますからね」
「うっ……」
京治くんの口から出てくる自分が、私の思うダメ人間のそれとほとんど同じでぐうの音も出ない。
触れた肌の奥から、規則的な心臓の音が眠気を誘う。頭に置かれていた手が滑るように移動して、代わりに鼻先を埋められたような気がした。
「……さんが考えていること、ちゃんと聞かせてください」
静かに、諭すような京治くんの言葉に、以前ちょっとしたすれ違いがあったことを思い出した。
これが機となってまた喧嘩になってしまっては本末転倒だ。ごくりと唾を飲み込んで、ゆっくり開いた口から出た声は二人の間にくぐもって聞こえた。
――京治くんと一緒にいたい。けれど、近すぎる距離にいらない意識ばかりしてる自分が恥ずかしい。京治くんの彼女として、一人の大人として、恥ずかしくないようにしっかりと自立したい。京治くんの負担になりたくない。
「というわけなんですが……」
ともかく、京治くんにこれ以上幻滅されるのが恐いのだ、と伝えると、京治くんはここ最近で一番と言っていいほど特大の溜息を吐き出した。
「却下」
肩を押されて、ほとんどくっついていた二人に距離ができる。
一言だけ言い放った京治くんは、見慣れている呆れ顔というよりは、困ったように眉を寄せた。
「そういうとこなんですけど」
「そういうとこ?」
「さんの言う、ダメなとこも含めて好きですよ」
「っ!」
頬骨に沿うように添えられた両手のせいで、京治くんの視線から逃げられない。無意味に京治くんの服を掴んでは離し、すっかり皺が寄ってしまっている。
骨張った、でも柔らかな手にがっちりと捕まえられて、私はの熱が急上昇していくのは京治くんにはバレバレだろう。
「そ、そういうこと言われると、出て行けないじゃん……」
「出なきゃいいんですよ」
「う……、でも掘り出し物の物件って言われたのに……」
都内で、あの条件の物件はなかなかないと不動産屋のお兄さんも言っていた。今ではなく、いつかここを出る時に同じような物件が見つかるかわからない。そう思うと、もったいない気もする。
言い終わる前に、落ちてきた影に先の言葉は飲み込まれた。
「ここ以上に条件のいい物件なんてないでしょ」
暗闇に包まれた寝室でもわかるほど、顔が赤い自信がある。「ね?」と口端を上げた京治くんに心臓を鷲掴みされたような気分だ。
家賃は半分こで一人暮らしをするよりももちろん安い。二人で住むと思うと十分すぎるとは言えない広さだけど、料理、その他家事の得意な恋人が一緒にいてくれるこの家がこの世界で一番の物件らしい。
20160827