「私も好きです」


「もらっちゃった!」
 さんが家に入ってくるなりそう言って見せ付けてきたのは、銀座に本店のある有名なチョコレート菓子だった。落ち着いた真紅色の包装紙に白地で書かれたロゴを自分もいつだったか目にしたことがある。コートを脱ぐよりも先に、リビングに飛び込んで椅子に座ったさんにまず洗面所に行くように促した。
「――どうしたんですか、これ」
「バレンタインですよ、京治くん」
「ああ、そういえば」
 今週末はバレンタインデーだ。仕事が立て込んでいてゆっくり街を周る時間もなかったからバレンタイン仕様に替えられたポスターや装飾なんて気づかなかった。そう言えば、当日は休日だからと言って部署の女性たちからまとめてもらった品物を思い出した。
「後で一緒に食べようね」
 残業で遅くに帰宅したさんがそう言って洗面所へと走っていったが、今何時だと思っているのだろうか。十の字を回った今、これから夕飯を食べてさらにはチョコレートを食べるなど、普通は控えたいと思うのではないか。単純な彼女のことだ。きっとそのあとの影響など考えてもいないのだろう。
 鍋に用意していた夕飯を温め直していると、部屋着に着替えたさんがキッチンへとやってきた。
「あれ、待っててくれたの?」
「俺も遅かったんです」
「そうなんだ。お互いお疲れさまです」
 正直言うと今日は定時に近い上がりだったのだが年度末は忙しらしいさんが遅くまで仕事をしているのに、彼女をおいて先に食べるのが忍びなかった。とはいえ、凝った料理を作る気もなく、簡単にシチューに決めた。
 一人暮らしを始めるときに母親が持たせてくれた赤色の鍋の中でシチューがぐつぐつと美味しそうに煮えて、湯気が立ち始める。立ち込めるクリームの甘い香りをくんと嗅いで、「おなか減ったー」とさんが腹をさすった。
 二人で向かい合って遅い夕食を摂りながら、さんの話に耳を向ける。ここ最近はずっと残業だ会議だと遅い帰宅になっているというのに、彼女は文句ひとつも言わない。中途採用の自分をしっかり指導してくる良い先輩ばかりだと前に話していた。ただひとつ、今までの無職生活のせいで睡眠時間が圧倒的に足りないことを嘆いていた。
「誰にもらったんですか、あんな良いとこの」
「チョコ?」
「そう」
 頷いた俺にさんは「うーん」と歯切れの悪い声を発した。
「何ですか」
 なかなか口にしないさんに焦れて、その先を急かす。あっちこっちに彷徨わせていた視線を一瞬こちらに向けて口を開いた言葉に思わずため息を吐いた。
「先輩にもらいました」
「わかりました。また餌付けられてきたんですね」
「そういう言い方よくないと思います!」
 前にも就職してすぐに良いところのチョコレートをもらって、浮かれて帰ってきたのを思い出した。またあいつか。顏も見たことのないその先輩とやらをさんは「優しくて良い人」というが、こちらからすると食えない相手だという他ない。
 世間一般的にバレンタインには女性から男性へとチョコレートを渡す日のはずだ。わざわざ男性からバレンタインにかこつけてチョコレートを渡すなど、本当に気のある相手にしかしないものだ。少なくとも日本では。
「……その人、外国の方ですか?」
「全然。東京生まれ東京育ちって言ってたよ」
 「京治くんと一緒だねー」と彼女は笑ったが、全然笑えない。反応しない俺にさんはわたわたと慌てたように俺の顔を覗きこもうとしていた。
「心配しなくて京治くんには明日作ろうと思ってるよ?」
「そっちの心配じゃない」
 じゃあ何だと考え込むさんをおいて、先に食べ終えた皿を流し台へ運んだ。



「では!」
 開封式だと言って、さんがもらってきたチョコレートの箱を開いた。いつか使えるかもと言って包装紙に貼られたテープを緊張しながら剥がしていたが、最初の一枚で失敗していた。折り目のついたそれを綺麗に折り直して、棚にしまう。同じ理由で保存してある包装紙やショップ袋がどんどん溜まっていくその存在をさんがいつか思い出して活用できることを願った。
「うわ、可愛い〜!」
「…………」
 開かれたそこにはダイヤモンドとハートをかたどったチョコレートが詰められていて、感嘆の声を上げるさんとは反対に自然と眉が寄るのを感じた。明らかに女性というかさん受けの良いものを選んできているし、同じ男性としてよくこれを購入できたなと敵ながら感心した。
「あっ!」
 無意識にチッと出た舌打ちをごまかすようにその中のひとつを口に放り込む。どれを食べようかと入っていたリーフレットと実物をにらめっこしていたさんが声をあげた。
「ねえ! それ迷ってたやつ!」
「もう食べちゃいました。すみません」
「思ってないよね!?」
「美味しいです」
 その先輩とやらの下心の詰まりに詰まったそのチョコレートは名が知れているのも頷けるほど美味しかった。見た目と質感に反して、口に入れるとすぐに形を崩したその固まりは甘すぎず、かといって苦くもなく舌に溶けていった。
「じゃあこのハートのやつ食べよ」
「それはダメです」
「え、何で?」
「開けたときから目つけてました」
「絶対うそ!」
 さんが手を伸ばすより先に、箱ごと奪い取ってオレンジがかったハート型のチョコレートをかじる。「あーっ!」とさんから上がった声も聞こえないふりだ。先のチョコレートとは違ったフルーツの風味のするそれもまた美味しかった。
 口を開けて呆けていたさんがはたと思い出したように耳元で「ひどい!鬼!」と喚く。そのまま口の中にハートの半分を突っ込んでやると、子どものように黙ってそれを咀嚼した。
「なにこれ美味しい」
 ごくりとそれを飲み込んださんは早速次に食べるチョコレート選びを再開した。つけられたカラーごとに味が違うらしく、あれも捨てがたいこれも捨てがたいとうんうん唸っていた。結局は全部食べてしまうというのに、こういう順番も気にするのは女性特有なのか、それとも彼女だからなのだろうか。
 やっと決まったのかホワイトに着色されたダイヤモンドの形のものをひとつ手にして、さんが気合を入れて一口でそれを口に入れた。
「んん!」
「どうですか」
「ほーひーは!ほいひー」
「何言ってるかわかりません」
 何度か咀嚼を繰り返ししっかりとそれを味わったあと、さんはごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「コーヒー味でした。美味」
 満足気な表情を浮かべてさんが言った。本当に幸せそうで、数千円のチョコレートでこんな顏を見せるのだから単純な彼女に呆れつつも、そうさせているのが自分ではないと思うとやはり妬ける。
さん」
「ん?」
「はい」
 並べられたチョコレートの中から真っ赤なハート型のものをひとつ取り出して、さんの口元に寄せた。え、と目を丸めたさんには構わず、口を開けるように促すとおずおずと彼女はそれを口に含めた。
「んっ」
 半分のところでかじろうとしたさんにそうさせまいと、ぐっと指で押し込んだ。さんは口いっぱいのチョコレートで口を開けないらしく、何か言いたげな視線をこちらに向けていた。
 自分の体温で少し溶けた赤く着色したチョコレートを舐めとると、やっぱりそれも甘かった。
「好きですよ」
「え、チョコの話?」
「チョコレートじゃなくて」
 さんが好きです。
 ずっと言いたくて、言い出せなかった言葉を口にした。さすがにここまではっきりと言えばわかってくれるだろうか。何度もその気振りは見せていたのに、全く気づかない彼女に苦笑を漏らした。
「……京治くんが」
「はい」
「わ、私?」
「はい」
 先ほどの行為で薄っすらと染まっていた頬が真っ赤なチョコレートのように色付いた。彼女のことを想って贈られたチョコレートで気持ちを伝えるなど可笑しくて笑ってしまう。違う意味でそれを取ったさんが眉を寄せた。
「冗談?」
「まさか」
 大きく息をついて両手で顏を覆ったさんにもう一度念を押すように同じ言葉を伝えた。
「……えと、京治くん」
「うん」
「私も好きです」
 両手の指の隙間から視線を覗かせたさんと一瞬目が合うと、すぐにまた視界を閉ざしてしまった。きっとその顏は真っ赤な塗料よりも赤くなっているのだろうなと想像できた。
「チョコ、食べちゃいますよ」
「……ダメ」
「じゃあ早く顏あげてください」
「それは無理」
「またひとついただきますね」
「……ピンクのハート以外なら」
 こもった声でそう言ったさんの言う通りにハート型とは違うものをひとつ手に取った。さすがに三つ目だと、いくら甘さ控えめのチョコレートだと言っても胸やけがするかと思うほど甘かった。

20160214