「ねえ! 雪だって!」


 日曜日。新しい仕事に就き、カレンダー通りの生活を送っている今、とても貴重な休日である。転職活動という名のニート期間を経て晴れて再び社会人という称号を手に入れたが、毎日が休日だった以前と比べて休日が週に二日しかないと思うと大変億劫だ。それをそのまま赤葦くんに伝えたところ、蔑むような目で「普通です」と一喝されてしまった。自由な時間をだらだらと怠惰的に浪費してしまったことをとても後悔した。
 赤葦くんと映画でも観ようと話をして金曜日に借りてきたDVDを広げる。その日も帰宅してから早速再生してみたのだが、どうも私には難しすぎたらしい。全く理解できずに中盤に入る前にいつの間にか寝落ちていた。レンタルショップの店員がおすすめだと可愛らしいポップまで貼り出されていたのに、まったく期待はずれの作品だった。残りの作品はラブストーリー、コメディやアクション。そこまで退屈しなさそうなラインナップだ。「どれでもいいです」に甘えて、パッケージで選んだラブストーリーを手に取った。テレビの電源をいれると、昼間の天気予報が翌日の天気を報じている。「低気圧に伴い、明日は雪が降る恐れ」キャスターが伝えた予報に、思わず赤葦くんを振り返って声をあげた。
「ねぇ! 雪だって!」
「みたいですね」
「やったあ!」
「……子どもですか」
 地元は元々滅多に雪が降らないし、東京で何度か雪を経験したがやはり雪が降ることにわくわくした気分になってしまうのは仕方がないと思う。天気予報に釘付けになる私に、背後の赤葦くんがため息を吐いたのが聞こえた。
「明日絶対電車混むよ」
「あっ……」
「雪で喜んでる社会人なんて、さんくらいじゃないですか」
 赤葦くんの言葉で、何年か前に数センチばかりの雪で交通機関が大混乱大混雑したことを思い出した。都会の雪の恐ろしさをこの時知ったのだ。しかも明日は月曜日。天候による交通機関への影響を考慮して早めに行動する者がほとんどだろう。
「明日は朝早く出ますからね」
「えー!」
「当たり前ですよ、まったく」
 雪だるまのマークを並べている関東地域が映し出されたテレビを見ながら、雪が降らないようにと祈った。せめて雨にでもなればいい。こういう場合はてるてる坊主の効果はあるのだろうか。画面の中で美形な外国人の男女が仲睦まじくきゃいきゃいと海辺で遊ぶ傍ら、テーブルに五つの坊主たちが並べられた。



「降ってきましたね」
 ぐずぐずと鼻をかみながらエンドロールを眺める。感動させてやろうとしている脚本には気づいていたのに、終盤でまんまと泣かされてしまった。てるてる坊主に使ってしまったせいで、ティッシュ箱の底が近い。新しいものを取りに行ってくれた赤葦くんが、窓の外を見て言った。
「うそ!?」
「ほんとですよ」
 急いで赤葦くんのそばに駆け寄って、並んで外を見るとぱらぱらと小さい綿のような雪がはらはらと空中を舞っていた。積もってほしいという好奇心と積もったら出勤が大変だという現実的な不安との間で気持ちが揺れる。心なしか気温も下がったように感じて、きっと大きく変わってはいないのにソファーに戻ってブランケットにくるまった。

 しんしんと降る雪で、黒いアスファルトを白く色を変えたのは日が落ちきってからだった。窓の外を眺めてうずうず逸る気持ちを抑える。外はきっと寒いだろう。でも雪に触れる貴重な機会を堪能したい。
 結局好奇心が勝り、外に出る準備を始めたわたしをぎょっとした顔で赤葦くんが見ていた。
「まさかその格好で出る気じゃ」
「うん」
 頷いた私あからさまに呆れた表情を見せて、赤葦くんは別の部屋に入っていった。手袋はないから、マフラーとニット帽と。必要なものを準備して、いざ、外に出ようと歩き出したとき、戻ってきた赤葦くんに襟元を掴まえられて引き戻された。
「ぐえっ」
「これ着てください。風邪引きますよ」
 ばさっと頭の上から被せられたのは、聞いたことのあるアウトドアブランドのマウンテンパーカーだった。遮られた視界に慌ててそれをどけると、目の前には同じく防寒着に身を包んだ赤葦くんがいた。
「あれ、どっか行くの?」
さんの雪遊びに付き合うんですよ」
「えっ、嬉しい! それなら雪合戦しよう」
 シャカシャカとしか自分には少しばかり大きい上着を羽織る。服に着られている感じが否めないが、さあさあと赤葦くんの手を引いて家の外へ出た。
「……さっむ」
 低い声で呟いた赤葦くんはエントランスの屋根の下で冷気に身を震わせていた。借りたジャケットを渡そうとジッパーに手をかけたら「何のために貸したと思ってるんですか」と断られ、風邪引かないようにねとかけた声は「こっちの台詞です」と返されてしまった。
 マンション脇の開けた広場で、まだ誰も踏み入れていない白い地面に足跡をつけて回った。花壇に積もった雪に触れれば、空気よりも冷たくて、しかし体温でじわりと溶けていく。さらさらと降り続けている雪がニット帽に染み込んでいくのがわかり、慌てて払い落として赤葦くんの上着のフードを被る。たくさん着込んでいると言えど、やはり寒かった。吐き出す息は、外の空気に触れた瞬間に白く空中に散っていく。鼻の頭もつんと痛い。しゃがみこんで、雪のかたまりを作っていると、ザクザクと雪を踏み込む音と一緒に赤葦くんが同じように隣にしゃがみ込んだ。少し水を含んでいる雪は固まりやすく、そのためにぎゅうぎゅうと手で押さえつけるとあっという間にカチコチの雪の塊になった。これで雪合戦をしたら危険だ。死人が出る。早々に雪合戦は諦めて、少し前に上映されたアニメに使われた曲の鼻唄を歌いながら、雪だるまを作った。
「けいじくん」
「何ですか」
「違うよ、この雪だるまの名前」
「はあ」
 きれいな丸にはならなかったが、周辺の雪をかき集めて作った雪だるまは自分でも立派はものができたと思う。落ちていた木の枝を両脇に差し込み、小さな石ころで目を作る。ふと足元にちょうどよい大きさの葉の切れ端を見つけて、石ころの上に貼りつけた。
「完成!」
「おめでとうございます」
「赤葦くんに似てる」
「…………」
「『似てねえ〜!』って思ったでしょう」
「はい、思いました」
 きっぱりと言い切る赤葦くんと雪だるまの『けいじくん』を見比べて思う。そんなに似てないかな。今度木兎にも見てもらおう、そう思いスマートフォンのカメラでパシャリと写真を一枚撮った。こうしている間にも雪は降り続けて、赤葦くんの頭や肩にところどころ雪が積もっている。きっとわたしも同じだろう。
 さよなら、けいじくん。雪の寒空の下、彼をひとり残していくのは忍びないが、「戻りますよ」と本物の赤葦くんに手を引かれて泣く泣くその場を離れた。
「やっぱり冷蔵庫に……」
「入れません」
「ですよね」

 エントランスに入ると壁があるだけでも風を避けてくれて、寒さが少し和らいだ。お互いに上着についた手で雪を払う。暖房の効いた暖かい部屋に思いを馳せて、急ぎ足で家へと戻る。雪に触れていた手を温めようと代謝がはたらいて、指先がじんじんと痺れた。
さん」
「ん?」
「俺も『京治』ですけど」
「知ってるけど」
 突然声をかけられて赤葦くんを見上げると、なんだか不満でもあるような顔でこちらを見下ろしていた。
「『赤葦京治』くんでしょ」
「そうです」
「どうかした?」
 珍しくむすっとした様子の赤葦くんを不思議に思って首をかしげる。何か気を悪くするようなことを言ってしまったかと自分の言動を振り返るが、特別赤葦くんが気に障るようなことは言っていないはずだ。
「……もしかして、あの雪だるまが似てるって言ったから怒ってるの?」
「はあ?」
「ごめんって」
「そんなことで怒りませんけど、ていうか怒ってないです」
 赤葦くんはそう言って、盛大なため息と片手で顔を覆っていた。怒っていないのかと安心する反面、赤葦くんの言わんとすることを考えてみたがやっぱり思い付かない。払いきれていなかった雪が溶けて、水滴となって手のひらを伝う。
「……さん」
「うん?」
さんも、名前で呼んでください」
「ん? 京治くん?」
「はい」
「なんだ、そんなことか」
 たしかに、もう数ヵ月の付き合いなのにいつまでも名字呼びでは他人行儀すぎる。赤葦くんの言うことももっともだと、うんうんと頷いて納得した。
「京治くん」
「はい」
「京治くーん」
「……遊んでますね?」
 じと目で見つめられて面白がってまた名前を呼んだら、頭に手刀を落とされた。どんっとした重さに貴重な細胞が減ったらどうしてくれるんだと思いながらも、手加減されているせいで全然痛くはない。衝撃でズレたニット帽を引っ張って、毛糸に滲みきれていない水滴をぱたぱたと払う。
「京治くん、このあとは何を観ましょうか」
さんが観たいやつでいいですよ」
「そう? うーん、何にしようかな」
 明日の朝はきっといつもよりもうんと早くに家を出なければならないだろう。アクション映画は興奮して眠れなくなる可能性があるし、別のものが良いだろうか。
 部屋に戻ってから暖まった部屋と淹れたコーヒー、それにお風呂上がりで温まった身体のせいで、結局観ようと思って再生した映画はほとんど話が進まないうちに眠ってしまったらしい。


20160118