「だって、すごい物欲しそうに見てた」
今日は早く帰ろうと目論んでいたのに、昼休み木兎さんからの『飲みに行くぞ!』というこちらの返答を伺いもしない、すでに決定されている誘いを受けて終業後会うことになった。さんにそのことを連絡すれば、彼女も新しい職場での飲み会に出かけるとのことだった。『楽しんできてね!』という届いたメッセージを確認して、早めに仕事を終わらせるために書類に向き直った。
木兎さんの指定した居酒屋に入ると、呼び出した張本人の他に黒尾さんの姿が目に入り思わず眉を寄せた。席につくと開口一番に「赤葦って意外とわかりやすいよな」と笑われて余計にイラついた。注文した生ビールが三つ届き、乾杯の合図もそこそこにとりあえず渇いた喉を潤す。
「いやー、よかったな赤葦!」
ジョッキの酒を煽って一息ついたとき木兎さんが満面の笑みで言った言葉に、何のことだかわからなくて頭の上にハテナを浮かべる。
「? 何がですか」
「のこと!」
「さん? ああ、仕事が決まったって」
「ちげーよ! そっちじゃなくて!」
お通しの枝豆を口に含んで、木兎さんが声を出すものだから食べかすが飛んでこないかと冷や冷やする。
さんはめでたく再就職を決め、二週間ほど前から新しい職場に出勤している。ある日、さんが近所の少し値段の張るという噂のケーキ屋の箱をさげて帰ってきたものだから何事かと尋ねれば、自分の就職祝いだと言った。一人一切れずつのものを買ったのかと思えば、箱を開けたら二人で食べるには大きすぎるワンホールケーキだった。ずっと仕事を探していたのは見てきたし、就職先が決まったことは素直に喜ばしい。しかし、あまりの考えなさにおめでとうよりも先に説教を垂れることになってしまった。目に見えてしょんぼりした彼女に昔に誕生日用にもらって使わず保管しておいた蝋燭を出したら、目を輝かせてそれを刺していたから本当に彼女は単純だと思う。結局二人でワンホールは食べ切れず、残りはさんの翌日の朝ご飯になっていた。朝からあんなに甘いものを摂取するだなんて俺には理解できないと思った。
ぎゃんぎゃんと騒ぐ木兎さんが言いたいのは俺とさんが上手く収まったかということだったらしいが、残念ながら俺たちは付き合っていない。いまのところは。そのことを伝えると、驚いた木兎さんの声が店内に響いた。思わず視線だけで周りを確認してして、彼を制する。もともと声が大きいのだから、突然の大声を出すのはやめてほしい。
「なんだよー、なんかイイ感じだと思ったのに!」
「……まぁ、悪くはないと思いますけど」
木兎さんには、さんがいなくなった際に協力してもらっていたしその時に「今度詳しく聞かせろよ」なんて言っていたが、まさか今日の集まりはこのためなのだろうか。ものすごくめんどくさい、そう思って小さくため息を吐いた。
「えっ、赤葦とちゃんイイ感じなの?」
「黒尾さんには関係ないでしょう」
「……お前、ちゃんのことに関してはホントに俺に当たり強いな」
「自分の言動を思い返してください」
「独占欲の強い男は嫌われるぞー」
そう言いながら、黒尾さんは店員に追加の注文をしていた。すでに一杯目を空にしている彼らに、酔いがまわって調子の上がる前に早いところ話を済まさないともっと面倒くさいことになると悟る。
「結局は赤葦んとこ出るのか?」
「しばらくうちにいるみたいです」
「なーにが『みたいです』だよ。出す気もないくせに」
目の前に座り、口端をあげて笑う黒尾さんにジト目を向ける。新しく届いたジョッキもすでに半分近く減っていて、それでも全く顔にでないのだから羨ましい。木兎さんも最初のビールを飲み終わり、今日は早々にハイボールを注文していた。
「別に、引っ越すのもタダじゃないし、再就職してお金貯まってからでいいんじゃないですか」
「まあ、それはあるな」
納得しながらも「いい口実があってよかったな」と相変わらずのニヤつき顔で言ってくるものだから、この人は何か煽らないと気が済まないのかとまたカチンときた。この人の挑発に乗れば彼の思うつぼだ。自制するために話題を変えて口を開いた。
「そういえば、さんの次の職場、出版関係らしいんですが」
「それ俺んとこの子会社」
「……会社名言ってませんけど」
「人事に聞いたもーん」
「すげーな黒尾!」
もうすごくめんどくさい。そんな顔を隠すこともせずに、二人が話すのを聞いていた。さんに聞いた話によると、出版関係と言っても製作や編集の実務経験がないため『なんかよくわかんないけど事務』を任されるらしい。話を聞く限り、黒尾さんはそこの大元で広告営業の仕事をしているらしかった。
「今度様子見に行ってみるか」
「……ほんとに、余計なことしないでくださいよ」
「どうしよっかなー」
「ほんと面倒くさいなこの人」
「おいおい赤葦クン、心の声が漏れてますけど?」
「わざとです」
黒尾さんに同調してからかう木兎さんを適当にいなして、机に並べられた料理をつまんだ。黒尾さんは調子に乗ってきたようで熱燗を頼んでいたが、明日も仕事だというのに大丈夫だろうか。まだ十時を回る前だが、正直もう帰りたかった。そのまま、この先輩がたちが出来上がっていくのをちびちびと自分のジョッキを傾けながら見ていた。
*
終電より早くお開きになって家に帰ると、すでにさんは帰宅していた。「飲み過ぎちゃった」とリビングに座る彼女の頬はほんのりと赤く染まっている。
「赤葦くんしっかりしてるー」
「そんなに飲んでないんで」
酔いのせいか少しばかり上機嫌にみえる彼女は、帰り道購入したのかミネラルウォーターを飲んで一息ついていた。
「さんの職場」
「ん?」
「黒尾さんのとこの会社らしいですね」
「あ、みたいだね。知らなかったんだけど、今日聞いてびっくりしちゃった!」
「気をつけてくださいね」
「何に?」
「いろいろ」
首をかしげたさんが座るソファーに近づくと、位置をずらして座るスペースを開けてくれたためそこに腰かけた。新しい職場での仕事や上司がどうとか、饒舌にするさんの話に耳を傾ける。これまで仕事をするさんを見たことがなかったから、仕事の話をする彼女は新鮮だった。思わず「さんって仕事できるんですね」と呟いた言葉は、隣に座る彼女にばっちりと届いてしまって目に見えて膨れてしまった。
「でもみんな親切な人ばかりでさ、仕事しやすいと思う」
「良かったですね」
「うん、これから楽しみ」
新しいことに期待に胸を膨らませて、子どものような笑顔でさんは言った。
そういえば、とさんはおもむろに立ち上がり、仕事用のバッグを掲げて戻ってくる。バッグから取り出されたのは、有名な洋菓子店のロゴが書かれた袋状の包みだった。
「じゃーん!」
「……何ですか」
「いただきました」
会社の先輩に。そう嬉しそうにその包みを見つめるさんに心なしか胸がざわついた。
「ここのお菓子すっごく好きなの」
「それは知ってますけど」
「その話を会社でしたら、次の日にご褒美だってくれてね」
「……聞きますけど、それ男ですか?」
「そうだけど」
さんの話によると、中途入職者につく教育係の先輩は三十代半ばの男性だという。なんで早速餌付けされてるんだこの人は。さんがいとおしそうに持つその包みを今すぐ奪い取って放ってやりたかった。
「その人、仕事の教え方も上手いし、優しくて良かったー。中途にもこんな気を遣ってくれるなんてなかなかできないよねー」
「…………」
さんはそう言いながら袋を開けて、銀紙に包まれた丸いチョコレートをひとつ取り出した。そいつの本心は知らないが、こちらとしてはそのチョコレートが下心の塊にしか見えなくて、思わず眉間に皺を寄せた。
「赤葦くんも食べる?」
「結構です」
「えー、すっごく美味しいのに」
世間一般的には深夜という時間帯に突入したというのに、さんは躊躇なく次々とチョコレートを口に放り込んでいく。見ているだけで胸焼けがしそうだ。じっと運ばれていくチョコレートたちを見ていると、視線に気づいたさんがまた新しい包みを開けて、そのチョコレートをこちらに差し出した。
「え」
「や、食べたいのかなって」
「いや、」
「だって、すっごい物欲しそうに見てた」
そんな風にしていただろうかと数十秒前の自身の行動を思い出す。考える間にも目の前に差し出されたさんの手はどんどん近づいてくる。
「……そういうところですよ」
「え?」
「気をつけてって言ったの」
計算か天然か、きっと後者だろうが、彼女の行動はあまりにも無防備すぎる。いい加減に自覚を持ってくれ、とチョコレートを持つさんの腕を掴み、引き寄せた。
「あ、赤葦くん」
「食べさせてくれるんですよね?」
「そうは言ってない!」
「俺はそう受け取りました」
カカオの香りが鼻につき、ほろ苦いビター風味のあとにとろけるような甘さが口に広がる。体温で溶けたさんの指についたチョコレートを舌で舐めとると、予想外のことに驚いたのか手を引っ込めようとするが掴まえているせいでさんのそれは叶わずに終わる。
「ッ!」
「やっぱり甘いですね」
そう言って手の力を緩めると、瞬間すごい早さで手を後ろへと引っ込められた。ぱくぱくと口を開閉して言葉の出ない様子のさんは真っ赤でまるで金魚のようだ。唇についたチョコレートを舌で舐めると、さんがさらに頬を染める様子に口端が上がる。
「な、なにを……!」
「ご馳走さまでした」
「……赤葦くん酔ってるでしょ」
「さぁ、どうでしょう」
「やだこの酔っぱらい!」
ソファーの上に体育座りをして、両手で顔を覆うさんは耳まで赤くて湯気が出そうなほどだ。
「すみません」
「赤葦くんといるとときどきすごく恥ずかしい……」
「そうですか」
「……私の方が年上なのに」
ぼそぼそと手の中でこもるさんの声を聞いて思う。見たこともない相手に嫉妬心を燃やして独占欲でいっぱいになる子どもみたいな俺に、彼女はきっと気づきもしないのだろう。今度就職祝いと今回のお詫びも兼ねてスイーツバイキングに連れていってあげようと、熱の落ち着いたさんにそのことを伝えると飛び上がって喜んでいたからやっぱりこの人は単純だ。
20160116