「赤葦くんに彼女ができるのが嫌」
赤葦くんの部屋の玄関に着いてから、インターホンを押せないまま数十分が過ぎた。きっと怒っているだろう彼を思いながら、頭のなかで何度もシミュレーションした台詞を繰り返す。もし、昨日の彼女がいたらすぐに帰ろうと決めていた。とっくの昔に引き払った自分の家はすでに他の人が住んでいるし、帰るところなどないのだが。
いざ、決心してインターホンに手を伸ばすと、ちょうど良いタイミングで玄関のドアが開いた。
「あ、」
目を見開いた赤葦くんとほんの少しの間見つめあったあと、無言のままの赤葦くんに腕を引かれた。会ったら一番に言おうと思っていた言い訳どころか挨拶すらまともにさせてもらえないまま、彼の部屋に引き込まれる。靴を脱ぐこともままならなくて、さすがに土足であがるわけにはいかないと無理矢理脱いだ靴が玄関先に転がる。
部屋は昨日と変わらないままで、赤葦くんの着替えだけがソファーに乱雑にかけられていた。ふわりと香った部屋の匂いに、一晩帰らなかっただけなのに鼻がつんと懐かしさに刺激されて、すっかりこの部屋に慣れてしまった自分の感覚に自嘲した。赤葦くんが、私がこの家にやって来るずっと前から使っている柔軟剤、休日でかけるときにしか使われないメンズものの香水、いつだかのビンゴの景品でもらったというルームフレグランスの香り。その全てが入り交じった香りを感じるだけで、脳内に赤葦くんが形成される。赤葦くんと過ごしたこの部屋にいつの間にか愛着が湧いてしまっていて、家を出なければいけないと思うとすっと心が冷えていくような寂しさを感じた。
恐る恐る部屋を見渡す私の行動の意図を察したのか赤葦くんは、ハァと態とらしく大きくため息をついてから「タクシーで帰しました」と言った。赤葦くんの言う通り、この部屋に他人の気配はない。
腕を掴まれたままの状態でリビングに沈黙が流れる。窓の外から聞こえる街の喧騒が、今日は休日だと思い出させてくれた。
「……どこに行ってたんですか」
「木兎のところ」
彼女もいたけど。それは伝えずに赤葦くんの次の言葉を待っていると、ぐっと掴まれた腕に力がこもった。
「木兎さんの家に泊ったんですか」
「う、うん」
ワントーン低くなった赤葦くんの声に、身を竦ませた。正確には木兎と彼の彼女と三人で過ごしていたから何も疚しいことはないのが、初めてありありと感じる赤葦くんの機嫌の悪さに無意識に足が後ろへと下がる。しかし、それすらも彼の周囲の温度を下げる要因となってしまったらしい。眉を寄せた赤葦くんに、後退した分よりさらに距離を詰められる。
「なんで逃げるんですか」
「に、逃げてなんか――」
逃げるつもりはなくても、身体が勝手に赤葦くんから逃げるように動く。そう広くないこの部屋では数歩下がった身体は行き場をなくし、壁へとぶつかる。どん、と壁に手をついた赤葦くんに上から見下ろされて影に覆われる。見上げた先の赤葦くんは何も言わない。この無言の状態にいたたまれなくて、何か言おうと口を開いた。
「……えと、ごめんなさい」
「それは何に対して」
「え、夜中に出歩いたこと?」
「それもありますけど……」
「潰れた赤葦くんを置いてったこと?」
「そうじゃなくて」
「……あの人に勘違いさせたこと?」
「は?」
眉間に皺を増やした赤葦くんから思わず視線をそらした。
昨日のことを思い出して気分が沈む。昨日の女性はみなまで言わないまでも、赤葦くんに気があるのは初対面の私でも理解した。それほど赤葦くんを慕っているのだと思う。赤葦くんは勘が良いから、もしかしたら彼女の気持ちに気づいているのかもしれない。
「何言ってんの?」
「なにって……」
「昨日の人はただの同僚で、向こうが勝手に送ってきただけなんだけど」
「そんな言い方……! 彼女、赤葦くんが心配で来てくれたんじゃん」
「だからってさんが出ていく必要もないだろ」
責め立てるような赤葦くんの言い方にカチンときて、ぐっと唇を噛む。赤葦くんの機嫌が悪いのはわかるが、何に怒ってるのかはっきりと言ってくれないとわからない。彼と違って頭が良い方ではないのだ。昨日だって私なりに赤葦くんの体面を考えてとった行動だというのに、こんなにも非難されるなんて不公平ではないか。そもそも、赤葦くんがあんなにも飲み過ぎて帰ってこなければ良い話だし、そうすればあの人だってわざわざ家に来たりなんかしなかった。会社の飲み会は仕事のうちと言われているからそれは仕方がないことだが、私だって赤葦くんのために慣れない料理をして楽しみに待っていたというのに、帰ってこない赤葦くんだって悪いのだと言ってやりたい気分だった。
「……さん?」
すっかりうつむいて何も言わない私を不思議に思ったのか、膝を折って表情を窺おうとする赤葦くんを振り切って、壁と赤葦くんの間から抜け出した。屈んだせいで壁についていた赤葦くんの手は緩んでいて、簡単にそこから逃げ出すことができた。
「何で私ばっかり怒られるの?」
「は、何言って」
「もう知らない! 赤葦くんのばーか!」
何年ぶりに使ったであろうか、子どものような捨て台詞を吐いて赤葦くんから逃げた。まさか『ばか』なんて言われるとは思っていなかったのか、面食らった様子で一瞬ぽかんとした赤葦くんは反応が遅れたようだ。名前を呼ぶ赤葦くんの声を背に、玄関先に転がった靴を引っ付かんで裸足で飛び出した。
*
全くの考えなしに家を飛び出してきたことを後悔した。赤葦くんに謝るために家に戻ったのに、余計に怒らせて、しかも暴言まで吐いて逃げた。自分の行動を早々に後悔して、さきほどから口からはため息しか出ない。ポケットに入ったままのスマートフォンは朝から充電が切れて真っ暗なままだ。
このまま戻る気分にもなれなくてふらふらと適当に三十分ほど歩くと、見慣れない風景が広がっていた。いつも最寄りの駅から赤葦くんの家までの範囲でしか行動していなかったから知らなかった。住宅街の真ん中にある桜の木に囲まれた公園には、中央にブランコと滑り台がぽつんと設置されていた。今は葉も落ちて裸木の状態であるが、春になればここ一帯は桜色に染まるのだろう。赤葦くんと、家の近くにある桜の並木道もきっと春になれば綺麗だねと話していたことを思い出して、目の前が涙で少し滲んだ。
また少し歩くと、道の先にいくつかの屋台が見えた。わいわいと子どもたちの賑やかな声と、醤油やバターの 芳ばしい香りに誘われるようにそのまま足を進めた。
小さな神社を囲むように屋台が設置されていて、脇の道路には『本日通行止め』と看板が立てられている。どうやら古くからある地元の神社のお祭りが行われているらしい。近所の子どもたちなのかみんなで塀や境界ブロックに座って、ゲーム機で遊んだり、選りすぐって買ったのであろうたこ焼きやからあげ、バナナチョコレートなど分けて食べている姿があった。子どもたちだけではなくて、制服を着た男女やお母さんたちらしき女性も輪を作って話し込んでいる。
人は多くはないが境内で参拝したり、おみくじを引いている人の姿もある。神社に入っていく人たちに倣って私もお詣りをすることにした。何の神様なのかさっぱりわからないが、財布の中にあるありったけの小銭をすべてお賽銭にして、手を合わせて今日のことを懺悔した。こんなことを聞かされても、神様はきっと困るだろうに、赤葦くんへの謝罪と仲直りできますようにと強く繰り返し願った。帰りの参道で「随分熱心だったね」と白装束を纏った年配の男性に声をかけられて、そんなに必死だったかと少し恥ずかしくなった。
祭りの雰囲気にどこか懐かしさを感じて、神社の周りをぶらぶらと歩く。子どもの頃はこういう屋台が出れば喜んで買いにいった。いま思えば少々高めなのだが、祭りの、心踊るような雰囲気は屋台あってこそなのだろう。そう思いながら醤油の香りに引き寄せられていか焼きを買った。
複数ある子どもたちの集団の隙間に座れそうなブロックを見つけて、そこに腰かけていか焼きを口に含む。格別に美味しいとは言えないが、お腹が空いている今私にはご馳走のように思えた。
「お姉さんひとりなの?」
あどけない声に不意に声をかけられて、視線をあげると小学生ほどの男の子だった。「そうだよ」と言うと「さみしいね」と返ってきた。ほっとけ。
「これあげるよ」
「え、でもおこづかいで買ったんでしょ?」
「おれ、いまお年玉もらってリッチだから」
「そうなんだ」
何度か断ってみるもどうしてもと言って聞かないため差し出されたリンゴ飴を受け取ると、男の子は満足そうに仲間たちの輪に戻っていった。わざわざ手提げのビニール袋までつけてくれるとはありがたい。随分可愛いナンパだったなといか焼きを頬張りながら顔を綻ばせた。
「……知らない人から食べ物をもらっちゃいけないって、子どもの頃に習わなかったんですか」
「……!」
ざっと砂利を踏む音と、身体に影がかかって上を向くと、今会いたくて、会いたくない彼だった。
急いで立ち上がろうとするが、ほぼ地面と同じ高さに腰かけてしまっているせいで上手く立ち上がれない。膝を曲げてしゃがみこんだ赤葦くんを見ると、かすかに額に汗を滲ませていた。よく見れば息も荒い。もしかして走って探していてくれたのだろうかと思うと口元が緩みそうになった。
「逃がしませんよ」
いか焼きを持っていない方の腕を掴まれて、きっともう逃げられないだろうなと悟った。
*
「………」
「………」
赤葦くんが朝から何も食べていないというので、近くの屋台でたこ焼きを買って二人で食べた。中はしっとりだが、外もしっとりでふにゃふにゃしているたこ焼きは正直微妙だった。子どもたちが遊ぶ傍で、大の大人が二人で無言で座っている姿はきっと気味が悪いだろう。
「それ」
先ほど男の子にもらったリンゴ飴の入った袋を指さして、赤葦くんが口を開く。
「……あげないよ」
「いりませんよ」
まったく、と言って赤葦くんは大きく息を吐いた。
「連絡もつかないし、心配しました」
「……あ、ごめん」
「木兎さんたちに聞いても知らないって言うし家の周りにもいないし、本当に心配しました」
「うん、ごめん……」
次に会ったらしっかり謝ろうと決めていたのに、口からでるのはぼそぼそと頼りない声ばかりだった。赤葦くんの方を見れなくて、すっかり冷めたたこ焼きをぶすぶすと爪楊枝で刺した。
あんなひどいことを言ったのに、心配して探し回ってくれたという事実がただ嬉しかった。迂闊にも口元をニヤけさせてしまうと赤葦くんに「なに笑ってるんですか、アンタのせいですよ」と一喝された。その通りだと、返す言葉もない。恐る恐る顔をあげて赤葦くんへ視線を向けると、声色とは反対にあまりにも柔らかな視線を向けられていてびっくりして思わずすぐに顔をそらした。
「な、なんで怒ってないの?」
「怒ってますけど、叱られたいんですか?」
「いえ……」
気恥ずかしくて、意識をまたたこ焼きに向ける。何度も串刺しにされたそれは、原型を留めておらずただの炭水化物のかたまりに成り下がっていた。はみ出たたこはほんの欠片ほどしかなくて、やっぱり屋台はこんなものか、とわかっていたが少しがっかりした。
「……怒らないから、さんの思ってること教えて」
「えっ」
「あれだけ威勢よく出ていったんですから、なんか言いたいことがあるんじゃないんですか?」
赤葦くんの言葉にうっと声を詰まらせる。
赤葦くんに言いたいこと。言いたいことはたくさんあるが頭は全然まとまっていなくて、また意図せず喧嘩腰になってしまったらと思うと恐かった。ぐるぐると一人で考える私に、赤葦くんの手がそっと頭に乗せられた。一瞬驚いて肩を竦めると「全部聞きますから」と言った赤葦くんの柔らかな声に、一人で考え込んでいた頭も少し落ち着いた気がした。
「……私は多分察しが悪いから、赤葦くんが何に対して怒ってるのかわかんなくて、でも、それで赤葦くんが嫌な気分になってるのはわかる、から、謝る。ごめん」
「それは、俺もすみませんでした」
「すごく自分勝手だからまた怒らせちゃうかもしれないけど、赤葦くんに彼女ができるって思ったら嫌だったの。でも赤葦くんは彼女ほしいって言ってたし、」
「ちょっと待ってください」
「うん?」
「もう一回言ってください」
「赤葦くんが彼女ほしいって言ってた」
「もっと前」
「自分勝手だから?」
「その後」
「赤葦くんに彼女ができるのが嫌」
二度目のその言葉に、自分でも恥ずかしくなって両手で顔を覆った。何も言わない赤葦くんの反応が気になって指の隙間からちらっと覗くと、赤葦くんも同じように顔を手で覆って俯いているから驚いた。
「ご、ごめん。怒った?」
「怒ってません」
「でも、声が怒ってる」
「怒るわけないだろ」
少しきつくなった赤葦くんの声に反射的に「ごめん」と呟いた。大きくハァと聞こえたため息に、また謝ろうとすると赤葦くんの手が伸びて口を塞がれた。
「なんで、変に気遣ってるんですか」
「いや、だって、いつも迷惑かけてるし……!」
「遣いどころがおかしいんです」
赤葦くんがまた息を吐く。しかし今度のそれは、顔をあげた赤葦くんの頬がほんのり赤く染まっていることで怒気を含んでいないものとわかり、私は何度目かになるかわからない「ごめん」を口にして笑った。
「ね、赤葦くん、一緒にお詣りしてから帰ろ」
つい先ほどまで家出間際の喧嘩をしていたというのに、今まで通りに赤葦くんと一緒にいられることが嬉しくて、無意識に鼻歌を口ずさむ。
これが神様のご利益かはわからないが先ほどうるさくお願いをしてしまったこともあり、感謝とお礼を兼ねて再び境内に向かった。立ち上がるときに差し出された手は、並んで歩くうちも離されることはなく自然に繋がれていた。
20160108