「そんなようなもの、です」


「――では、来週からよろしくお願いします」
 転職活動を始めて、早数ヵ月。都内のとある出版会社の事務の採用通告をもらった。
 部屋を出たその直後から思わずスキップを踏んでしまうほど、私は浮かれていた。すぐに赤葦くんに伝えなくてはとスマートフォンを取り出して、ふと考える。重大ニュースだ。直接伝えた方が良いのでは。ついでに、今夜は奮発してご馳走を作ろうと決めた。ちょうど週末だ。少し良いお酒も準備して、晩酌もしよう。
 普段、赤葦くんよりも家にいる時間が長い私が家事を担当しているのだが、結局ほとんど赤葦くんがごはんを作ってくれている。皿洗い、洗濯や掃除など他の家事はするようにはしているが、働きもしないで食べるだけという体たらくぶりだったのをこれを気に改心しようと誓ってスーパーへ足を向けた。

『急遽飲み会が入りました。先に寝ててください』
 日の沈む前に帰宅し、赤葦くんの好きな和食を作ろうと、レシピを探して奮闘しながら夕食を準備していた。火にかけていた鍋を弱火にして一息ついた時、ピコンという音でスマートフォンの画面を見ると、それは赤葦くんからメッセージ届いていることを知らせていた。
 今朝家を出るときには、何も言ってなかったから本当に急に入った予定なのだろう。残念に思いながらも『了解』と簡単に返信を送る。飲み会ということは、夕飯は要らないだろう。せっかくなら作りたてを食べてもらいたかったが、これは明日の朝ご飯とお弁当にでも使おう。



 午後十一時。
 遠慮なく、先に寝る態勢にはいる。潜り込んだ布団は冷たくて、少しでも早く暖まるように足を動かして摩擦を起こす。室内も冷える時期に入ってからは、寝る前にこれをすることが癖になったのだが、毎回赤葦くんに「子どもですか」と呆れられていた。今日はその声もない。
 赤葦くんの家に居候するようになった日、彼は私にベッドを使うようにと勧めてきたが、さすがに居候の身でベッドまで占領できないと断った。しかし、ベッド以外の寝具のない家では、ソファーで寝る以外の方法はない。元々そのつもりでいたのだが彼がそれを許すわけもなく、散々の話し合いの末、私の分の布団を購入するまでは赤葦くんがソファーで寝るということで落ち着いた。
 思えば、この布団も含めて、洋服や本、インテリアなどこの部屋に少しずつ自分のものが増えてしまっている。荷物が少なくて、シンプルな赤葦くんの元々の部屋を思うと、少々賑やかになりすぎた気がする。買い物に出るたびに「本当に必要なものだけ買ってくださいね」というのが赤葦くんのお決まりの台詞だった。お母さんか。
 仕事が始まったら新しい家を探そう。思った以上に長い期間赤葦くんのお世話になってしまったことに申し訳なく思う。赤葦くんはここにいてもいいと言ってくれたが、 定期的な収入が入るようになればここに居候させてもらう理由もなくなる。なにより自分の罪悪感がいつまでもだらだらとここにいることを許さない。
 明日朝起きたら赤葦くんと話そう。そう考えながら、目を閉じて眠りについた。



『ピンポーン』
 夢の中、遠くの方で聞こえた聞きなれた音に意識が浮上する。眠りが浅かったお陰で、目を覚ますまでに時間はかからなかった。時計を見れば、まだ0時にはなっていない時間だった。
 インターホンを押した人物には検討がついているため、迷わず玄関に向かう。鍵を使わないのは酔っているからだろうか。もう一度鳴ったインターホンに「はーい」と返事をして扉を開けた。
「……え?」
「え? あ、こんばんは……?」
 赤葦くんだとばかり思って出た先で、目に入ったのは彼ではなく私より少し年下だろうか、スーツを着た女性だった。赤葦くんはというとその後ろでぐったりと彼女の肩に凭れて立っている。
 赤葦くんと一緒に飲むことはそう多くないが、いつも酔っぱらって帰って来たとしても自分で帰ってこられないほど酔っている姿を見るのは初めてだった。とりあえず二人に部屋に入ることを促して、赤葦くんに肩を貸す。だいぶ飲まされたのだろう、ふらふらと足元が安定しない。嫌なものは嫌とはっきり言える赤葦くんをここまで酔わせるとは大したものだと、顔も知らない彼の上司たちに感心する。彼女も身長が高い方ではないのに、よくもここまで連れてきてくれたものだ。二人で赤葦くんをソファーへと誘導して、そのままごろんと横になる彼はだいぶ辛そうに見えた。
 さすがにこのまま彼女を帰すわけにもいかないし、コーヒーか紅茶でも淹れようとキッチンへ向かう。リビングにいる彼女に向けて、どちらが好きか尋ねた質問に返ってきた答えはまったく違うものだった。
「え?」
「だから、京治くんのお姉さんか何かですか?」
「……あー、そう。そんなようなもの、です」
 京治くん。そう呼んだ彼女は赤葦くんと親しい仲なのだろうか。関係を問われて「居候です」などと正直に言えるわけもなく、勝手に赤葦くんの姉と当たり障りないよう嘘をついた。人を騙すのは好きではないが、ここは仕方ない。
 不審げな表情から、私の答えにあからさまにほっとしたものに変わる彼女に、さすがの私でも気づいてしまった。
「京治くん、一緒に住んでる人がいるって言ってたけど、お姉さんのことだったんですね」
 よかった、と彼女の呟いた言葉はわたしの耳にもはっきりと届いてしまった。
  彼女は赤葦くんに気があるのだ。そうでなければ、わざわざこんな深夜に男性を送るような真似はしないはずだ。少し前に赤葦くん本人が恋人はいないと言っていたから、彼女の片想いなのだろうか。
 ――でも、もし赤葦くんも同じ気持ちだったら?
 彼女は私のことを赤葦くんの姉だと思っているが、それは事実ではないし、きっと本当のことを知ったら彼女は傷つくだろう。赤葦くんに幻滅してしまう可能性もある。それに、逆の立場だったらどうだろうか。赤葦くんが好きで、でも彼は他の女性と一緒に住んでいる。しかも無職のものぐさ女だ。想像してみると、かなり堪える気がする。
 居座っている私が悪いのだが、そのせいで赤葦くんの評判も落としかねない状況に、焦りばかりが広がっていく。赤葦くんは、ソファーの上で眠っているのかそうではないのか見ただけでは判断はつきにくいが、心配するほど酔いがひどいわけではないらしい。彼の状態を確認して、彼女に伝える。
「今日はあなたがついてあげてください」
「え?」
「あー、私は行くところがあるので!」
 「邪魔者は退散します」なんておちゃらけた態度で、捲し立てるように言った私に彼女は困惑していた様子を見せたが、そんなことはお構いなしに手早く洗面所の場所や寝衣の場所や、足りないものがあれば私の物を貸すこと、歯ブラシも新しいものがあることを伝えると、最低限のお泊まり用の道具は持っているとのことだった。
 寝衣の上からコートを羽織り、財布とスマートフォンをポケットに突っ込んで家を出る。「お姉さん!」と呼ばれたが、その声を遮断するように玄関のドアを閉じた。少し歩いて、家の鍵を持ってくるのを忘れてしまったことに気づいたが今更戻る気にもならず、そのまま足を進めた。しっかりしていそうな子だったし、きっと大丈夫。なにより彼女は赤葦くんのことを好いているのだ。悪いようにはならないだろう。自分に言い聞かせるようにして、心のなかで赤葦くんのことは大丈夫だと繰り返した。同時に、胸の奥のしたの方でずんとした重いものが置かれるような感覚がした。



「赤葦置いてきちゃったのかよ!」
「うん」
「あーあ、赤葦が可哀想」
「……無職のよくわからない女と住んでるって知られるよりいいでしょ」
「赤葦しょぼくれてんぞ、きっと」
 ここまでに至った経緯を木兎に適当にかいつまんで説明すると、目を丸くして驚かれた。
 しょぼくれている赤葦くんは想像できなかったが、何も言わず勝手に家を飛び出してきてしまったことを怒っている赤葦くんを想像するのは容易だった。
 あのあと、家を飛び出してから私はすぐに木兎に連絡した。「彼女来てんだけど!」という木兎に、やっぱり大丈夫だと伝えるより先に、電話越しの物音で外に出ていることに気づいた彼にすごい剣幕で怒られた。そのあとすぐに迎えに来てくれたおかげで、私はいま木兎の家にお邪魔している。テーブルには木兎の恋人が淹れてくれたコーヒーがゆらゆらと湯気を漂わせていた。コーヒーの香りは、自分でもよくわからないぐちゃぐちゃと混乱した頭を落ち着かせてくれる。赤葦くんに引き続き木兎の邪魔までして、自分は一体何をしているんだと情けなくなる。無意識に漏れてしまったため息に「気にしないでね」「そーだそーだ!」と明るく笑ってくれる二人のおかげで沈んでいた気分が少し軽くなった気がする。
「――で、どうすんの?」
「え? 何が?」
「今日はここにいるとして、この後、はどうすんの?」
「どうもこうも、あの二人付き合っちゃうかもしれないし、明日にでも出ていこうかなと思ってるよ」
「は!? 付き合う!? 出てく!?」
「うん、仕事も決まったし」
「マジか! 良かったな!」
 ちょうど、仕事に就くのなら出ていこうかと考えていたところだ。それが少し早まっただけのことだ。なんてことはない。自分に言い聞かせるようにして、木兎にそれを伝えた。両手で包むように持っていたマグカップは温かくて、冷えた手からじんわりと熱を全身に運んでくれた。
「でもわっかんねーな。は赤葦と住むのが嫌なのか? 赤葦は一緒に住んでいいって言ってくれたんだろ?」
「嫌なわけないよ! 楽しいし、でもこれ以上迷惑はかけられないかなって……」
 木兎は「うーん」と腕を組んで考え込むようなしぐさをする。
「とりあえずは赤葦とちゃんと話せ!」
「それはもちろん、話すつもりだけど」
「絶対だぞ!」
「……うん」
 あれだけ世話になって、こんな勝手なことをしてしまった私を赤葦くんは許してくれるだろうか。木兎は「大丈夫だ!」なんて笑うが、私は不安で押し潰されそうな気持ちを表に出さないように押し留めることに精一杯だ。
 「だから変な顔すんな」と言った木兎には、私の淀んだ気持ちも筒抜けだったようだ。こういうときばかり鋭いのだから、本当頼もしい存在だ。
「ありがとう、木兎」
「おう!とりあえず今日は泊まってけ!」
 木兎の提案で、三人で深夜までテレビゲームをして過ごした。自分から言ってきたくせに一番に寝落ちした彼を「可愛いよね」と微笑ましく見守る彼女を、なんて心の広い女性なのだろうと感激した。
 予想外にゲームが面白くて、夢中になっている間に朝になっていた。残念ながら休日出勤だという木兎は、朝方早くに家を出ていった。
 コートのポケットに入れたままですっかり存在を忘れていたスマートフォンを確認すると、おびただしい数のメール、メッセージそれに着信履歴が残されていた。家を出るときにマナーモードにしていたから全く気づかなかった。ほとんどが赤葦くんからのものでその原因ももちろんわかっているのだが、初めてのことに少し引いた。
 どうしようかと考え込んでいると、手にもったそれがちょうどタイミングよく着信を伝える。恐る恐る通話ボタンに触れれば、機械ごしに聞こえる聞き慣れた声に心臓が跳ねる。耳元ではっきりと届く盛大なため息に、吐き出す声が震えた。
「……です。えーと、ごめん」
『……それは何に謝ってるんですか』
「……うん、ごめん」
『とりあえず、早く帰ってきてください。今どこに、』
 プツッと突然途切れた音に画面を確認すれば、電池残量ゼロの表示。電源が落ちて、うんともすんとも言わなくなった真っ暗な画面を見つめながら、赤葦くんへの言い訳を必死で考えた。

20151230