「赤葦くん酔ってるよね?」
日の沈む頃には涼しい風が感じられるようになった夏の終わり。高層ビルの合間から見える東京の空にも秋空が広がっていた。
この日はリクルートスーツを身に纏い普段しないメイクもナチュラルにし、珍しく就職活動中をしていた。何社かの事務所を訪れ、普段遣わない気を遣って疲労感たっぷりである。
茜色に染まった空が沈みかけた太陽により綺麗なグラデーションをつくっていた。高層ビルが建ち並ぶ都内を歩き回りじんわりと汗をかいていた。ひんやりとした風が肌を伝う汗を冷やして心地良い。最後に訪れた会社から電車で数分の場所に、最近すっかり世話になりっぱなりしである赤葦くんの会社がある。今朝、先に家を出る赤葦くんに面接のため都内へ出ることを伝えると、ちょうど面接会場と職場が近いということで夕食を約束していたのだ。バッグからスマートフォンを取り出しメッセージを送ると、少しも待たずついた“既読”の文字。まもなく返信がきたことを知らせるポップアップが表示された。
『俺も終わりました』
すぐに返信をしようと操作するが、入力し終えるよりも先に新しいメッセージが届く。それを確認し、彼の勤め先である高層ビルのそばまで近づくとちょうど入り口に彼の姿が見えた。手を振って駆け寄る。いつも赤葦くんのスーツ姿は見ているが、外で見るとはまた違った雰囲気を感じる。
「うん、やっぱスーツいいね」
「なんですか急に」
「5割増し」
片手を広げて五本の指を立てて話す。何言ってるんですか、という赤葦くんからの冷たい視線を感じながら少し歩いた先にある居酒屋へと入る。職場でクールビズを推奨しているのかネクタイはつけておらず、ジャケットを脱いでシャツのボタンを開けている赤葦くんは控えめに言っても色気がある。女の私よりも艶やかに色気を振りまく、赤葦くんがうらめしい。
「……赤葦くんモテるでしょ」
「また唐突ですね」
「年上にモテそうだなーって」
「…………」
赤葦くんはジッと彼を見やる私に呆れたような視線を送り、私の言葉は適当にあしらわれた。いつものことだ。ちえっとむくれる私をよそに彼はさすがというかテキパキと注文を済ませていた。その間も凝視する私の視線に怪訝そうに眉を顰める。
「……なんですか」
「赤葦くん彼女作らないの?」
「は? まあ、ほしいですけど」
爽やかに額に汗をにじませながらはたはたとシャツを扇ぐ姿も色気があって、本当に年下だろうかと疑いたくなる。彼のとらえどころのない雰囲気からあまり恋愛などは興味がないのかと思えば、案外そうではないらしい。合コンでも行ってしまえば一発だろうに。
自分のことは棚にあげて哀れみの視線を向けると、その胸中を悟ったのか赤葦くんがムッと眉を顰めた。
「……失礼なこと考えてるでしょう」
「もったいないなあ」
「何がですか」
「赤葦くんに彼女いないのが」
意外だと驚けば、彼は苦虫を噛みつぶしたような表情でこちらを見る。まあ、たしかに彼の家に私が住みついているのだから彼女ができても家に連れ込めないだろう。何かと面倒見の良い赤葦くんに頼りきってしまっていたが、そろそろ家を出たほうがいいのかもしれない。赤葦くんに声をかけようとしたところで、ちょうど注文した飲み物と軽いおつまみが運ばれてきた。
「あー!赤葦!」
お互いビールを片手に乾杯、とジョッキを合わせたところで店内に響く聞き慣れた声に思わず中身を溢しそうになる。「ゲッ」と顔と声に出ている赤葦くんの視線を追えば、私の友人であり赤葦くんの先輩にあたる木兎が立っていた。
「何でお前ら一緒にメシ食ってんの!」
「ちょうど近くに来たから」
「なんだよ俺も声かけろよー!」
赤葦くんが比較的物静かな分、木兎ひとり加わっただけでテーブルが一気に賑やかになる。当たり前のように隣の椅子を引いて座った木兎は私の背中をバンバン叩きながら言った。
「赤葦も久々だよな!」
「先週練習試合で会いましたけど」
「そうだっけ! ていうか、は何でスーツ?」
「今日面接だったの」
「おー、お疲れさん! あ、ちょっと待って!」
木兎はひとしきり騒いだあと、ガタガタと音を立てて自分の席へと戻った。赤葦くんの方へ視線を向ければはぁ、とひとつため息を吐き出していた。高校時代の彼らのことは直接見ていたわけではないが、きっと赤葦くんはあの木兎のお世話もしていたのだろう。知り合ってからの二人のやり取りを見ていると高校時代から苦労していたのかなと思う。
もともと、赤葦くんとのきっかけは木兎の紹介であった。大学の同期である木兎が久々に会おうというので出て行ったらその場にいたのが赤葦くんだった。面倒見の良い彼は木兎とさらには私のお世話までしてくれている状態である。頭が上がらない。ジョッキに入ったビールを早いペースで煽り、赤葦くんは2杯目を注文した。一緒に過ごしててわかったことだが、涼しい顔をしているように見えて彼はあまりお酒が得意ではない。酔っぱらった赤葦くんは少々たちが悪い。ほろ酔い程度でとどめてくれるよう心の中で祈った。
「一緒に飲もーぜ!」
木兎が自分の席からお酒入ったジョッキと、彼の連れなのか同じくらいの長身の男性を連れて戻ってきた。180センチ後半にもなる成人男性が二人並べばさすがの威圧感だ。赤葦くんから二度目の「ゲッ」が出ていたことは聞かなかったふりをした。
「よお」
「……お久しぶりです、黒尾さん」
どうやらこの木兎の連れの男性とも面識があるらしい赤葦くんは、二人がそれぞれわたしたちの隣に座る様子を眉を潜めてまたひとつ息をはいていた。赤葦くんの隣に座った黒尾という男性がそれを見てニヤニヤと目を細めた。
「オイオイ、さっきからなんだよ。ため息ばっか吐いてると幸せ逃げんぞ」
「いえ別に」
じとり目で黒尾さんと会話を続ける赤葦くんを横目で見やりながら木兎と枝豆をつっつく。木兎からの話で高校時代の部活仲間で他校でライバルだったが、同じ東京地区同士で合宿や練習試合を通して三人とも気が置けない仲だということがわかった。それぞれが話をしている間にも男性陣のジョッキはあれよあれよという間に空いていく。結構な量のアルコールを取り込んでも顔色の変わらない彼らに感心しつつもちびちびと冷えたビールを喉に通した。
「噂のチャンでしょ?」
「あ、はい」
いつの間にか会話の中心にいたらしく、突然黒尾さんから声をかけられて箸で掴んでいた豆腐を自分の皿の上へこぼした。あ、と皿を見ると形を崩した豆腐。味は変わらない、そう思って細かくなった豆腐をさっさと口へ運んだ。
「俺黒尾、よろしく。タメだから敬語ナシな」
「はーい。黒尾くんね、よろしく」
「へえ、全然いけるじゃん。色気は足りねーけど」
黒尾くんのなかなかに失礼な言葉に目を向けると、彼はにこりと人のいい笑顔を浮かべていた。これは、褒められているのだろうか。とりあえず前向きに受け取ろうと思い、同じようににこりと笑ってみせた。
「は?」
黒尾くんの言葉に信じられないといった声を出したのは、なぜか赤葦くんだった。そんなに怖い顔しなくてもいいのに、さすがに少し傷ついた。
そんな私たちを気にせず黒尾くんと木兎はそのまま話を進めている。
「中の上?上の下?まあまあ可愛いんじゃね?」
「上なんてはじめて言われた! 嬉しい!」
「調子乗らせないでください」
「はイイ奴だぞ!」
「ニートですけど」
「就活してるもん! ていうかなんなの赤葦くんひどくない?」
一応、褒めてくれているらしい黒尾くんと木兎に横やりを入れてことごとく否定していく赤葦くんに口を尖らせる。
「赤葦くん酔ってるよね?」
「酔ってません」
普段、試合以外は悠然とした態度である赤葦くんであるが、今日はアルコールも入ったせいか少しムキになっている気がする。飲みの場でも自分で制御して飲めるはずであるのに珍しいなと向かいに座っている赤葦くんを見れば、心なしか目元が赤く染まっている。ふと合った視線だがすぐに逸らされた。これは少々、いや結構酔っているな、と赤葦くんを心配しつつ、近くを通った店員に自分のハイボールを注文すると「オレも」と残りの三人が手をあげた。
「チャン、いま赤葦の家なんだって?」
「そう。でもそろそろ出なきゃと思って」
「えっ、なんで?」
ボロボロと箸からこぼれる豆腐と格闘していた木兎が箸を止めて不思議そうに目を丸めた。目の前でほとんど入ってないジョッキを煽る赤葦くんが目に入る。
「私がいたら赤葦くん彼女できないなーと思って」
「エッ」
「ぶっ!」
「…………」
「……なに、みんなして」
ここに着く前に話していたが、それよりも先にずっと考えていたことだ。家でも何度も赤葦くん本人から繰り返し「自立しろ」と言われている。私の言葉に驚いたようにさらに目を丸くした木兎と、口に含めたハイボールを吹き出す黒尾くん。むせこみながら笑っている黒尾くんに「きったねー!」と言いながらおしぼりを押し付ける木兎、そんな騒がしい二人の横で赤葦くんは聞いているのかいないのか、黙ってハイボールを煽っていた。
「あー、苦し。だってよ、赤葦クン」
「…………」
「赤葦の家出たらどこ行くんだ?」
「就活しながら家探しもしてるよ」
「ほー。んじゃ、オレんち来る?」
「えっ」
予想していなかった提案をしたのは、向かいに座る私ではなくなぜか隣の赤葦くんを見てニヤニヤと笑っている黒尾くんだった。それを聞いて私より先に反応したのは、だんまりを決め込んでいたはずの赤葦くんだった。
「……何言ってんスか、黒尾さん」
「赤葦クンはどっかで彼女作るみたいですし」
気のせいか、声のトーンをひとつ下げた赤葦くん。そんな彼の反応をみて黒尾くんがさらに笑みを深めた。彼らの意図が把握できていない私をよそに隣で木兎がそわそわと二人のやりとりを見ている。これは私の話ではなかったのか、本人はおいてけぼりでわけがわからない。
「作りません」
「え、でもさっき、」
「さんは黙っててください」
「えぇ……」
少しきつめの声で制されて、ジョッキを置いた赤葦くんはいよいよ酔いが明瞭になってきていた。店員にこっそりと「お冷お願いします」と声をかけるが赤葦くんの耳に届いてしまったようで赤みの差した視線が痛いほど向けられていた。そんなわたしたちを知ってか知らずか木兎と黒尾くんが熱燗を注文する。木兎はすっかり頬を染めているが、自制を効かして飲める方だった。二人ともさすが企業の営業だ、飲み慣れている。
「赤葦くん飲みすぎ」
「……」
「帰る?」
「……さんは?」
「わたし?赤葦くんが帰るなら一緒に帰るけど、」
「じゃあ帰ります」
そのまま立ち上がった赤葦くんはちょうど運ばれてきたお冷一杯を一息に飲み込んで「それじゃあ」と二人に一言告げてわたしの手を引いた。慌てて財布を取り出そうとしたが、黒尾くんに「いいよ。面白いもん見れたしな」と断られる。赤葦くんがこう酔っているのを見るのは珍しくはあるが、どこがどう面白かったのかと首を傾げる。ぐいと急かすように手を引かれて「ごめん、ありがとう」と残して、すたすたと歩く赤葦くんに合わせて速足で店を出た。
180センチを超えた男性の歩幅に合わせて、慣れないヒールに足が絡まる。少し前を歩く赤葦くんを見上げれば、ちょうどチラリと後ろを伺ったように向けられた視線と重なった。申し訳なさそうに「すみません」と歩幅を狭めてゆっくりになり、ようやく隣に並んだ。
外に出れば空はすっかり夜の色で繁華街のネオンの光でぼんやりと白みがかっていた。昼間は太陽の光で暑いほどだが、日が落ちれば気温も下がり、少し肌寒く感じる。お互い酔いのせいか繋がれた手の体温が高くて心地良い。
「赤葦くん怒ってる?」
「心あたりがあるんですか?」
「う……」
怒らせるようなことをしたのか、むしろいま赤葦くんが怒っているのかそうでないのかも見当がつかなくて言い澱むと、ハァと赤葦くんからため息が漏れた。そのまま言葉は発さず拾ったタクシーに乗り込み、いつ離されてしまうのかと思った手は予想に反して家に到着するその時まで離れることはなかった。
玄関の扉を開ければ当たり前に部屋は真っ暗だった。部屋にあがり、ソファーの脇に二人分の鞄を放り込んだ。赤葦くんはそのままソファーの上にスーツのジャケットも脱がずに横なる。額に置かれた腕の隙間から見えた目元は先ほどよりは赤みが引いている。まず彼をお風呂に入れなければと思い、洗面所に向かおうとするが下から伸びてきた手に腕を掴まれてバランスを崩す。
「わ、あぶな」
「行かないでください」
ソファーに沈んでいた身体を起こした赤葦くんに真っすぐ見つめられる。「お風呂を入れに行くだけだよ」と説明するが反応しない赤葦くんに「シャワーだけにしとく?」と続けて声をかける。少し時間をおいて「どっちでもいいですけど」と口を開いた赤葦くんはそのあと言いにくそうに口を噤む。お風呂のことは一度おいて、彼の言葉を待った。引かれていた腕は、するりと肌を滑った先で繋がれる。やはりまだ少し体温の高い手にアルコールが抜けきっていないのを感じた。
「さんが出てけなんて言ってないです」
「え?」
「仕事はしてほしいですけど」
「え、うん」
「……黒尾さんのところへ行くんですか」
赤葦くんの言葉が上手く頭に入らなくて何度も聞き返す。最後の言葉でようやく合点がいった。「まさか」と顔の前で手を振り否定する。
「初めて会ったのに一緒には住めないよ」
「オレの時もそうでしたよね」
「……そうだっけ?」
木兎の紹介で赤葦くんに出会って、そんなに時間が経たないうちに一緒に住むことになった。だらけきった私の素性を知ってもお世話をやいてくれる面倒見の良い年下の男の子に感心したのを覚えている。
もしかして、と先ほどの居酒屋で黒尾くんと言い合っていた彼の様子を思い浮かべた。
「拗ねてる?」
「……拗ねてません」
「あはは、なんか子どもみたい」
いつもと違う赤葦くんが初めて年下ということ感じて、少しおかしくて笑うとわかりやすくムッとされる。年下といってもひとつしか違わないのだけど、今日の赤葦くんはどうも可愛い。
「じゃあ、もう少しお世話になろうかな」
「はい」
「うん、ありがとう」
「家事はしてくださいね」
「……がんばります」
酔いは醒めてきているはずなのに、また少し赤みの差した目元にじんわりと心が温まるのを感じたと同時に少し早くなった胸の音。
どうやら私もまだ酔いが醒めるにはもう少しかかるらしい。
20151016