cuddly girl

 目が覚めると、シーツに染み込んだ煙草の匂いが仄かに香る。ぼんやりとした視界の中で、ゆっくりと胸を上下させて眠るのは恋人の赤井さんだ。
 何度も繰り返し見る景色なのにいつまでも慣れなくて、こんな朝が本当に私の現実なのかと毎回自問自答する。
 赤井さんの寝顔を見るのはとても貴重なので、そわそわしながらこっそりと赤井さんの長いまつ毛を羨ましげに見つめていると、不意にその瞼が瞬いて、鼻先にキスが落とされる。
 寝起きの少し掠れた声でおはよう、と言われれば、シーツから覗く肌色も相まって、なんだか恥ずかしいのと照れくさいのとで尻すぼみな返事をしながらシーツに顔を埋めた。

 カップに淹れたてのコーヒーを注ぐ。赤井さんのはブラック、私は砂糖を一杯とミルクが多め。まろやかな甘さとカフェインが起き抜けの身体に沁みていく。
 家を出る赤井さんを「いってらっしゃい」と見送るのがくすぐったくて、なんだかおかしな笑顔を向けてしまった気がする。
 赤井さんを追いかけてアメリカに来てから、しばらくは彼の住まいにおいてもらっている。
 外国らしいシンプルな作りの部屋に、必要最低限の家具と家電しか置かれていない。任務の時にはほとんど家を空けると言っていたけれど、キッチンに食材がほとんどなく酒瓶ばかりだったのにはさすがに心配した。必要な時にはちゃんと栄養補給はしている、というのが彼の言い分だった。
 赤井さんが仕事のうちは近所を歩いてみたり、ちょっとした観光地へ足を運んでみたりと気ままに自由に過ごしていた。簡単な英語しか聞き取れないし話せないので、必要以上のコミュニケーションを取るときには苦労する。


 それはある日、近くのカフェでお茶をしながら赤井さんを待っていた時のことだった。
 空はすっきりと青く晴れていて、オープンテラスには人が多く賑わっている。ここにいる多くの人にとっては、この風景は日常なんだろうけれど、私にとっては何もかもが新鮮だった。ただの看板だったり壁に描かれた文字だったり、スーパーや薬局、こじゃれたレストランやカフェだったり、見慣れないものが其処かしこに並び、目移りしてしまう。ただのシャツにデニムを合わせたスタイルでも様になっている女性を見かけて、心底羨んだりもした。
 カフェラテを飲みながら、いろんなものに目を奪われながらぼうっとして過ごしていると、向かいのテーブルの椅子が引かれた。仕事が終わったら合流すると言っていた赤井さんだろうと思って、顔を上げた。しかし、そこには想像していた人物ではなく、見慣れない外国人男性がニコニコと笑顔で座っていた。
「……あ、えーと」
 なんと言えば通じるのかわからず言い淀む。
 ひとまずお決まりの挨拶をして、困り果ててへらりと笑ってみる。相変わらず彼は笑顔を浮かべていた。こちらの国ではこういった混んだところでの相席はよくあることのようだけれど、彼の様子からただの相席という雰囲気ではないのを感じ取る。アジア人は見分けがつかないと言うし、もしかしたら人違いかもしれない。
 自分が彼のことを覚えていないという可能性も考えたけれど、ここに来てまだ日が浅い。赤井さん以外、友達という友達もいない。よく顔を合わせるとしたら、近所のスーパーでレジ打ちをしている恰幅のいい顎髭のおじさんくらいだ。
 頭の中でぐるぐると記憶を辿っていると、目の前の彼は可笑しそうに吹き出して笑った。私がそれに眉を顰めると、彼は「Sorry……」と緩んだ口元を手で隠しながら口を開いた。
『……なるほど。話に聞いていた通りだね』
「……?」
 彼は流暢な英語を話しながら、柔らかなブルーの瞳をこちらに向ける。見慣れない異国の美形から見つめられて思わず身構える。
 もしかしてこれはナンパなのかと考えたけれど、街のそこらをナイスバディな美女たちが歩いているのにわざわざ私に声をかけるメリットがない。やっぱりどうも怪しかった。
『あの、あなたは……?』
 拙い英語で彼に問う。
『さあ、誰だと思う?』
 質問を質問で返されて戸惑ってしまう。
 私が答えに困っていると、彼は通りがかったウェイターにコーヒーを注文する。どう頭を捻っても唸っても、目の前で頬杖をついてこちらを見つめる彼が誰なのかわからない。
『僕はニコラス。ニックって呼んで』
「ニック……?」
 教えられた名前を反芻してみるけれど、やっぱり知らない名前だった。
『あの、どなたかと間違えていませんか?』
『いいや』
 断言されてしまった。私も彼に覚えがなく、彼も私を誰かと間違えているというわけでもなさそうだ。
『あんまり君が可愛いから、声をかけたくなっちゃった』
 ……軽口を言われた気がする。もしかしたら、日本語で言う“チャラい”人なのかもしれない。
『私、人を待ってて』
『うん』
『えーと、だからですね……』
『それまで一緒にお話ししよう』
 外国の人には、遠回しな言い方は通じないのかもしれない。
 にこにこと屈託のない笑顔を浮かべる彼に拍子抜けする。日本と違って危ないから外出には気をつけろと散々言われてきたのだけど、目の前の彼には不思議と警戒心を払拭させる何かがあった。
『君は、日本人?』
『はい』
『どうしてここへ来たの? 観光』
『観光、そうですね……観光です』
『ふーん。恋人はいるの?』
『います!』
 前のめりに肯定すると、彼はその気迫に押されたようだった。だけど、すぐに笑いを堪えるようにしながら、それでも堪えきれていない笑い声が漏れた。
『へえ、どんな人?』
『どんな……』
 慣れない言葉で伝えるのは難しかった。
『ええと、かっこよくて、頭が良くて……』
 母国語である日本語でも赤井さんのかっこいいところなんて言い切れないのに、それが外国の言葉となれば殊更だった。柔らかく目を細めて私の絞り出す単語を頷きながら聞いてくれていた彼は、ふと街の方へ視線を向けると私の言葉を止めた。
『――残念。時間切れだ』
 海外のドラマでよく見るような肩を竦ませる仕草をして、彼は私から距離を取った。

「あ、赤井さん!」
 待ち望んでいた人の到着に、私はホッと息を吐く。ついでにこの状況をどうにかしてくれと、身知らぬ彼に視線を向けると彼は至極笑顔で赤井さんに手を振っていた。
「あ、あれ。お知り合いだったんですか?」
『……おい、ニック』
『やあ、シュウ。そんな恐い顔してちゃ、彼女に嫌われちゃうよ』
『何をしてた』
『何って、雑談だよ。ね?』
 聞き取れない二人の会話に混乱していたら、突然ニックさんが小首を傾げて尋ねてくる。
「え! ええと……」
『余計なことは言ってない』
『余計なこと“は”?』
『……話し相手になってあげただけさ。せっかく我が国にいるんだから、こちらの言葉を覚えても損はないだろ?』
『お前に教えてもらわなくて結構だ』
『そうか? ナンパの上手い断り文句ぐらいは知っておいた方がいいんじゃないか』
『お前が言うな』
 隠さない舌打ちにぎょっとして赤井さんを見やる。ぽんぽんと軽快なラリーのように続けられる会話を聞いていたけれど、三割程度しか聴き取れていなかった。理解ができたのは一割くらい。ほとんど何を話していたかわからない私は二人を交互に見た。
『ほらほら、彼女が困ってる』
『…………』
『君のこと、彼からよく聞いてたんだ。可愛い恋人がいるってね』
 耳元で、教材のお手本のようにゆっくりとはっきり話してくれたおかげで彼のその英語は聴き取ることができた。けれど、それを理解するよりも早く、赤井さんによって彼からすぐ引き離されてしまった。
『おいおい、怖いなあ』
「え?」
『シュウは妬いてるのさ』
 ジェラシー。ニックさんの言葉には、よく知る単語が含まれていて、それは私でも聞き取ることができた。その言葉があまりパッとしなくて、私は首を傾げた。赤井さんがジェラシー?
 私がやきもちを妬くことは多々あれど、赤井さんはそんなこともないだろう。やきもちを妬いた赤井さんなんて見たことない。妬いてくれたらそりゃあ嬉しいけれど。
 そうして考え込んでいると、ニックさんはわざとらしく肩を竦めた。
『なんだ、彼女自覚ないのか。君のは意外とわかりやすいと思うんだけど……』
 ニックさんが憐れんだような視線を向けるので、私は困って赤井さんを見やった。赤井さんは彼の言葉には返さず、胸ポケットから煙草を一本取り出した。
 二人の会話についていけず、交互に見つめる。ニックさんはニコニコと笑顔でいるし、赤井さんは読めない表情だ。
『じゃあ、邪魔者は退散するよ』
『さっさとな』
『ひどい言い草だ。――またね、可愛い恋人さん』
「あ、はい。えーと、『また』」
 チッと小さな舌打ちが聞こえたのは気のせいだろうか。にこやかに手を振るニックさんに手を振りかえして、ほっと肩の力が抜けた。いつもはほとんど決まったフレーズしか話さないから慣れた気になっていたけれど、今回のように怒涛の会話が繰り広げられるとやっぱり難しくて、少しばかり緊張していたらしい。一息ついて、へらりと赤井さんを見上げた。
「全然聞き取れなかった……」
「そのうち慣れるさ」
 赤井さんは笑って私の頭を撫でた。
 はじめから二つの言葉を扱える赤井さんが改めてすごいと思った。あまり聞いたことがなかったけれど、英語を話すときの赤井さんは少しだけ声のトーンが低くなることに気がついて、それに胸をときめかせていたのは内緒だ。
 カフェを出て、二人でぶらぶらと街を歩いているとショーウィンドウに並ぶあるものを見つけた。私が足を止めると、赤井さんもそれに気づいて歩みを止めた。
「……気になるのか?」
「あの、ちょっとだけ覗いてきてもいいですか?」
「もちろん」
 店内の一角に並べられたのは数々のテディベアだった。毛色もさまざまで、よく見ると表情も僅かだが少しずつ違っていた。ひとつ手に取ると、思った通りふんわりと良く手に馴染んだ。これは癒し効果が高い。
 今回のアメリカにやってきた第一目的は赤井さんに会うこと。それは達成できたので、のんびりして少しばかり長めの観光旅行気分でいた。せっかくなら自分のお土産も買いたいと思って何がいいかと探していたのだけれど、旅先で出会うぬいぐるみもなかなか愛らしい。小さなものから大きなものまで、たくさんあって目移りしてしまう。
「欲しいのか?」
「はい。でもどれも可愛くて迷っちゃいますね」
 表情も異なれば毛色も違う、どの子も可愛くて選ぶのが難しい。
 赤井さんがテディベアをひとつ手に取る。両手でぬいぐるみを抱えた赤井さんがなんだかテディベアと見つめ合っているように見える。それが妙に可愛くて、今すぐカメラを取り出して撮り納めたい衝動に駆られた。できるなら今すぐテディベアになりたい。
「そういえば、イギリスもテディベアが有名ですよね?」
 並べられたテディベアを見ながら、服を着たしゃべるクマを思い出した。
「あの絵本、大好きだったんです。何度読んだかわからないくらい。小さなぬいぐるみも買ってもらったりして」
「ホー、懐かしいな」
「え、赤井さんも?」
 幼い頃であっても絵本を読む赤井さんが想像できなくて思わず聞き返す。
「……ごく一般家庭に育ったつもりだが」
「一見そうは見えないですけど……。赤井さんも絵本を読むことがあったんですね」
「昔な。母親に読まされた」
 絵本を読む赤井さん(幼少期)を想像する。そんなの絶対可愛いに決まってる!
 それに、別々の国に産まれたのに、同じものを見ていたのが嬉しかった。
「赤井さんもぬいぐるみとか持ってたりしたんですか? こういう、テディベアとか」
「今はわからんが、昔はいつも部屋にいたな」
 ジーザス! そんな赤井さん(幼少期)を見てみたかった……。
「赤井さんも、ぬいぐるみに名前をつけて、毎晩同じベッドで眠ったり、おやすみのキスをしたりしてたんですか?」
 じっと見上げて聞くと、赤井さんはわずかに目を開いて言った。
はそのクマにそうしてたのか」
「あっ! えーと、一緒に眠っていたくらいですよ!? ていうか、子どもの頃の話で……!」
「ホォー……」
 幼い頃の可愛いお遊びと言えど、なんだか気恥ずかしくて、慌ててテディベアに視線を戻す。自分好みの可愛い子を選ぶために空中で指を泳がせた。
「俺が選ぼう」
「え?」
 赤井さんは少しだけ考え込むと、チョコレート色をしたテディベアを手に取った。柔らかくモコモコとした手触りで、思わず抱きしめたくなるものだった。足の裏に押された肉球の刺繍が一層愛らしい。
 こちらを向くように差し出されたテディベアを受け取る。
「気に入らないか?」
「全然! 大好きです!」
 思わずぎゅっと抱きしめる。やっぱり思った通り、抱き心地も最高だった。顔を見てみると、可愛らしさの中に、少しだけ生意気そうな表情も伺える。赤井さんの選んでくれた子が、その瞬間からお気に入りになった。
「嬉しい! ありがとうございます!」
 とても素敵なアメリカ土産ができたな、とほうっとテディベアを見つめていると赤井さんははそれを私から取り上げて店員さんに声をかけた。
「え!? 自分で買いますよ!」
「そんなに高いものじゃない」
「でも……」
 それ以上は言わせてもらえなくて、赤井さんはいつの間か支払いを済ませていた。店員さんと何やら話をしていると思ったら、赤井さんが手招きをする。駆け寄ると、好きなリボンを選ぶように言われた。
 赤井さんの選んでくれたテディベアと並べられたリボンとを見比べる。
「えーと、じゃあ、これで」
 私が選んだ赤いリボンを、店員さんが手際よく綺麗に結んでくれた。リボンがつけられると、より一層可愛らしく見える。
「リボンを結んだ日が、テディベアの誕生日になるらしい」
「そうなんですか! じゃあ、今日がこの子の誕生日ですね」
 きっと、この子を見るたびに今日のことを思い出すだろう。
「名前もつけてやってくれ、だと」
 赤井さんの通訳で店員さんを見ると、笑顔で私たちを見つめていた。我が子を送り出すように、抱えたテディベアに手を振る店員さんにお礼を言って店を出る。
 両腕に収まるテディベアと家までの帰り道を歩いていく。どんな名前をつけてあげようか。ぼんやりと、いつだかの情報番組で観た人気の名前ランキングを思い出してみる。テディベアをじっと見つめていると、艶やかな瞳が期待を向けているようにも思えた。
 じっとその子を眺めていると、やっぱりどこか挑発的な表情をしているように見える。赤井さんが選んでくれた子だから、こっそり赤井さんの名前をつけて家で愛でたいところだけど、こんなこと絶対本人には言えない。もしバレてしまったら、恥ずかしすぎる。
「いい名前は思いついたのか?」
「なまえ……」
 頭をめぐらせて、パッと思いついた名前を挙げる。つい先日、赤井さんとも彼のドラマを見たばかりだった。
「あ、ホームズとか!」
 ほら、赤井さんも好きだし。思えばぴったりな気がする。シャーロック・ホームズと言えば、世界的に有名でこうしてテディベアに名付けたとしても謙遜ない人物だ。妙案だ、と赤井さんを見上げると、彼は思ったほど肯定的ではなかった。
「……ホームズはいい男だが、」
「う、うん」
「他の男の名前をつけるのか?」
「え?」
「君と眠るこのクマに?」
「ええと……」
 赤井さんの責めるような視線に、赤井さんの言わんとしていることを理解してじわじわと肌が熱を持つ。
「この可愛いテディベアシュウに毎日おやすみのキスをして同じベッドで一緒に眠ってくれ」
「こ、子どもの頃の話!」
 耳元で囁かれた言葉に、まだ名もなきテディベアに顏を埋めて恥ずかしさを誤魔化した。
 本人公認なら大丈夫か、と結局私は赤井さんにプレゼントしてもらったテディベアをシュウと命名した。恥ずかしがっていたのもはじめだけで、帰国まで過ごした赤井さんの部屋でもテディベアの名前を呼んでいたのだけど、赤井さんに「俺のことは名前で呼んでくれないのか」と追い打ちをかけられることになってしまった。
「シュウって呼んだらどっちのことかわからなくなっちゃうじゃないですか」
「……こっちのシュウは森に送り返してくるか」
「ひどい!」
「冗談だ」
 冗談に聞こえないようなトーンで冗談を言わないでほしい。ベッドに鎮座したテディベアのシュウを赤井さんは軽くぽいとソファへと移動させた。
「あっ」
「アメリカにいる間はの隣は俺の特権だろう?」
 勝ち誇ったような顏でそんなことをいう赤井さんに心臓がぎゅっと掴まれてしまった。
「テディベアと取り合わなくても……」
「そういう男なんでな」
 ニックさんの言っていたジェラシーってこういうことだろうか。なんだか可愛いやきもちに嬉しくなって、赤井さんの背中に両手を回す。
 帰国まであと少し。テディベアのシュウには悪いけれど、しばらくは赤井さんとの時間を楽しむことにしよう。

20220706