ここからそこまで心臓ふたつ

 距離にして、約7000マイル。
 世界地図を見ればすっぽり視界に収まるほど近いのに、実際はどれほど遠いのだろうか。
 時差もない、距離だって行こうと思えば行けるような隣り合った他県と遠距離が大変だなんて友人たちと言い合っていた学生時代を思い出す。
 文明の機器によって、どんなに遠く離れている距離でも電波に乗って一瞬で届く言葉も声もあるのに、やっぱりそれだけじゃ物足りないと思ってしまうのはただのわがままなんだろうか。


「赤井さんに会いたい!」
 コーヒーの香りの漂う店内で、テーブルに顔を伏せて溜まりきった心の叫びを口にしていると、新一くんに声がでかい!と慌てて窘められた。ついでにその衝撃で揺れたカップからコーヒーが溢れそうになってやんわりと怒られた。ごめんなさい。
「どうしよう、新一くん。ついに禁断症状が出てきたみたい……!」
「なんですか、それ」
 天才高校生探偵の新一くんは、以前から赤井さんと仲が良い。二人だけにしかわからないような空気を醸し出しては、難しい話をしていたりする。ずるい。
「ようやく長期の任務も終わって本部にいるっつってたから、もうすぐ連絡来るんじゃないですか?」
「……何で新一くんがそれ知ってるの?」
「何でって、この間ちょっと連絡したときに」
「うっ……! 私には連絡ないのに!」
「あー、あー。きっと赤井さんもなにか事情があるんだって!」
 大丈夫ですよ!と新一くんが慌てて宥める。
 赤井さんからの繋がりで工藤家の皆様とも交流をさせてもらっているのだけど、こういった私の吐き出すどうしようもない惚気だったり不満を聞くのは、いつのまにか新一くんの役目になってしまったらしい。
 赤井さんと連絡は定期的に取っているものの、彼の仕事柄、頻繁にメールや電話ができるわけでもない。時差もある。最後に会ったのはいつだろうか。次に会える時には連絡すると言っていたのに、全くその気配がない。お互い、会える時に会えて、会えないからといって会いたい会いたいだのわがままをいう年齢でもない。
 でも、それもついに我慢の限界を超えていた。
「遠距離無理つらい死んじゃう……」
「仕事なんだから仕方ないでしょう」
「わかってるけど!」
「連絡がくるまで大人しく待つことですよ」
 そういって、新一くんはアイスコーヒーに口をつけた。
 私よりもいくつも歳下だと言うのに、彼は落ち着いたようすで私を宥めている。
 ――まったく、他人事だと思って!
 新一くんはわからないんだ。いつもすぐそばに好きな人がいて、いつでも会える当たり前の環境にいるんだから。幼馴染が恋人でいる彼が羨ましくて仕方がない。
 そりゃあ、仕事があることも、日本とアメリカで時差や距離があることをわかっていて赤井さんとの関係を続けているけど、それにしても、こんなに会えないなんてことがありますか。
「あー不安。とても不安!」
「不安って、何がです?」
「だって! アメリカなんてブロンド美女やナイスバディがごろごろいるんだよ! 赤井さんがとって食われちゃう!」
「……赤井さんは食われる方なのか」
 大丈夫だって。そう軽く笑って流すように言う新一くんは呑気すぎる。君は海外のありがちな恋愛ドラマや映画における強かな外国人女性たちを知らないのか。飲んでいるアイスコーヒーが水のように薄まる呪いをかけてやる。
 新一くんが手に持つグラスにぐるぐると指を向けていると、何やってんだと呆れる彼の次の言葉に私はピタと動きを止めた。
「そんなに心配なら会いに行ってきたらいいんじゃないですか?」
「……!」
 ガタン、と大きく椅子が揺れる。
「なーんて……って、オイ! さん!?」
「新一くん天才! さすが名探偵! なんでそれ気がつかなかったんだろ!」
 立ち上がってスマホを手にした私を、新一くんが落ち着けと手を伸ばす。
「いや、赤井さんにも都合ってもんが――」
「もうチケット取った!」
「早!」
 さすが日本が誇る若き名探偵。ナイスアイデアだ。
 慌てて窘める様子の新一くんをよそに、私はこうしてはいられないと目の前のアイスカフェオレを一気飲みすると、彼にお礼をいって店を飛び出した。
 いつか使った大きなスーツケースを部屋の奥から引っ張り出して、パスポート、お財布、スマホ、と最低限必要なものを詰め込んだ。
 赤井さんに送ったメールには返信はないまま、私はほとんど着の身着のまま飛行機に飛び乗った。こちらが昼であれば、向こうは夜。時差のせいできっと連絡もまだ見ていないんだろう、会いに行って驚かせちゃおう。そんなことを考えながら、私は呑気にアメリカまでの空の旅を楽しんでいた。
 いざ! 赤井さんを魔の手から救う旅へ!



「…………疲れた」
 飛行時間約13時間。
 庶民の私が何十万もするようなビジネス、さらにはファーストクラスを確保できるような金銭的余裕があるわけもなく、窮屈なエコノミーシートでその時間を過ごした。
 アメリカという国に来るだけで、こんなに大変なのかとこの時初めて知った。一時は日本とここを何度か行き来していたFBIの捜査官たちは、お尻が鉄でできているのかもしれない。座ってただ運ばれてきただけなのに、疲労感どっと押し寄せた。
 けれど、お尻や首を痛めながら眠って過ごす空の旅は悪いことばかりではない。まだ日本では上映されていない映画を見たり、飛行機に乗っている間に買っていた英会話の本を読んでみたり、隣に座るアメリカ人と思われるナイスミドルと拙い英語で四苦八苦しながら会話してみたり。あとになって、この人は赤井さんと同じく、英語だけではなく日本語も話せる人だったと気づいたのだけれど。
 日本から乗り込んだ飛行機内は日本人だって多くいたのに、到着して荷物のレーンに着くと、さっさと自分の荷物をピックアップしてみんな散り散りにそれぞれの目的地へ向かって行った。
 レーンの上を流れるようにして運ばれる荷物を一つ一つ確認しながら、だんだんと不安が押し寄せる。
 いきおいあまって外国まで来てしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。
 降り立ったそこは、当たり前だけどほとんどが外国人。普段当たり前に目にしている日本語なんてどこにもなくて、案内もアナウンスも全て英語だった。仕事で英語を使う機会がなければ、だいたいの人が中高生レベルの英語力で止まっている。日本人の英語力なんて、そんなレベルだ。多分。
 見ず知らずの地に、突然ぽつんと一人取り残されたような感覚。
 ぼさっとしていると、警備服を着た屈強そうな男性に怪しげな視線を向けている、ように見えた。しっかりと審査と許可を得て入国したはずなのに、なんだか来てはいけないところに来てしまったみたいだ。
 スーツケースをなかなか見つけられずにいると、もしかして空の上で自分の荷物だけ落っことされてしまったのでは、そんな不安も湧いてきた。
 しばらく待って、流れてきた荷物の中にようやく自分のものを見つけ出すと、私は慌ててそれを転がして出口に向かって足を進めた。
 出発までの間、しきりに「赤井さんに連絡ついたのか?」と不安げに言っていた新一くんに大丈夫だと言い聞かせてきたけれど、空港内のネットに繋げても、赤井さんからの連絡はないままだった。
 日本にいる心配性な彼に、到着したことを伝えるメールを送っておく。
 出口を出てすぐにあるタクシーに乗り込んで、市内まで。そう告げると、車は街に向かって走り出す。
 市街地に近づくたびに住宅やビルなど背の高い建物が増えて行く。
 いよいよ来てしまったんだなという緊張感と高揚感が胸に湧いた。
 車内では、タクシーのドライバーと噛み合っているのかいないのかよくわからない会話を繰り広げていた。
 FBIのいそうなところに連れて行ってくれと伝えると、市内のとあるところで降ろされる。私は、愛想よく笑顔で手を振って走り去って行くタクシーを見送った。
 アメリカのタクシーは自動ドアではない。これはアメリカに着いてから学んだことのひとつだ。自動でドアが開くタクシーは、どうやら日本だけらしい。ドアが開くのをじっと待つ私をおかしそうに笑ったドライバーの顔を思い出す。
 さて、目の前には見覚えのある建物。
 ドライバーはしきりに「FBI, FBI」と言っていたので、きっとここがFBIに関係がある施設なんだろう。
 大きな荷物を転がして、建物の前をうろうろとする私は、側から見たらきっと不審者だろう。通行人や、その建物から出てきた人から、不審な目で見られている気がする。それとも、有名なところだから、ただの観光客と思われているだけだろうか。
 せめて後者であってくれ、そう願った。
 その施設を見上げながら、待つこと数十分。
 都合よく顔見知りの捜査官とバッタリ、なんてことがあるわけもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
 大きな荷物を持って道端のベンチに座り込む私は、もう観光客でもなんでもない。
 勢い余ってアメリカに降り立ったはいいものの、赤井さんに会えないまま、見知らぬ土地でこのまま一人で過ごすのだろうかと思うと心細くて目頭が熱くなる。
 赤井さんに会いたい。
 ぐすん、と鼻を鳴らした私を、同じベンチに間を空けて腰掛けていた年配の男性がちらりと一瞥した。
 とりあえず、この大荷物を置いてひとまず作戦会議だ、と立ち上がる。スマホで地図を開き、あらかじめ予約していたホテルの経路を確認する。
 右行って、一つ目の信号を左。
 スマホをポケットに突っ込んで、再びスーツケースを転がして歩き出す。
 大通りに出て、また左折。
 ショップの並ぶ通りに、そのホテルはある。
 英語表記である、ということと街行く人たちが日本人ではないという以外、日本とあまり変わらない風景だった。見慣れたファーストフード店を見かければ安心したし、少しおかしな日本語を掲げた看板にはクスリと笑いがこみ上げた。
 しばらく歩いて、街並みを堪能しきる頃にはタクシーに乗ればよかったと後悔した。人の多い中を大きなスーツケースを転がして歩くのは存外体力のいることだった。
 スマホ上の地図では、ホテルはさほど遠くない。今さらタクシーに乗るのはもったいないと考えて、歩き疲れた私はひとまず近くのカフェで休憩をとることにした。
 そこで、すぐに日本にいる新一くんに電話をかける。
 数コールの後、彼は眠たげな声で電話に出た。
「で、さん。赤井さんに会えましたか?」
「会えない助けて」
「……赤井さんに連絡は?」
「メールは送ってるんだけど……」
 日本とは違う不安定な電波のせいか、耳に届く新一くんの声は途切れ途切れだった。
 あまり長電話をしては申し訳ないと、現状報告をして、新一くんとの電話を終わらせた。
 スマホをバッグにしまっていると、若い女性に声をかけられた。早口の英語で、何を話しているのか聞き取れない。
 何度も聞き返しているのにも関わらず、彼女は私のことなど御構い無しに話しかける。
 おろおろと困惑していると、最後に彼女は私の肩を叩いて「Good Luck」と笑顔で去って行った。
 なんだったんだ……。
 不審に思いながら、今度は別の男性が注文を聞きにくる。すぐにやってきたアイスカフェオレをがぶ飲みして、渇いたのどを潤した。
 ふう、と一息ついて、赤井さんからメールの返事が来ているかもしれない。そう思って、バッグを探すも、手元に置いておいたはずのそれが見つからない。
 ガタン。
 テーブルと椅子の音を立てて、勢いよく立ち上がる。
 ――と、盗られた!?
 慌てて周りを見渡しても、全く犯人の検討はつかない。大きなスーツケースだけがテーブルの下に納まっている。しかし、そのスーツケースの鍵だって手持ちのバッグの中にしまっている。
 頭を抱えて、先ほどのウエイターを呼ぶ。
 ちゃんと見ておかなきゃダメじゃないか、とお叱りを受けた。頼んだものの料金は、先ほどのタクシーのお釣りをポケットに入れておいたお陰で支払うことができた。
 しかし残ったのはたった数枚のコイン。
 土地勘のないこんな場所でスマホがなければ、ホテルの場所もわからない。ウエイターに道を聞きながら早口の英語であっちに曲がれこっちに曲がれと言われて涙が出そうだった。

 少しずつ日が沈んでいく。
 街は昼間と変わらず賑やかだったが、暗くなるのに伴ってポツポツと灯るネオンが外国の雰囲気を強くした。
 心なしか視線が刺さる気がする。移民の国とは言うけれど、アジア人がこんな大荷物を抱えて歩いていればきっと目立つのだろう。心細くて仕方がない。
 たまに声をかけてくる胡散臭いおじさんにノー、ノーと繰り返す。
 陽が沈んで広がる藍色に比例して、不安もどんどん大きくなる。
 人通りの多いところを選んで歩くけれど、この道がホテルまでの正しい道なのかわからない。
 とぼとぼと歩いて、ネオン街を抜けたところ、小さな道の脇で、ふとぽつんと佇む石造りの教会を見つけた。
 吸い寄せられるように足が向いた。看板を見ると、誰でも入れるようだ。
 ガラガラとスーツケースを転がして入ると、響いたその音に幾人かが振り返ったけれど、すぐにその視線は外れた。
 窓を飾ったステンドグラスから差し込む外光が幻想的で、外の雑音など届かないように、しん、と静まり返ったその雰囲気に、なぜかほっと安心した。
 宗教に詳しいわけではないけれど、この時だけは信じる者は救われるという一節を思い出した。失くしたスマホや財布がどうなってしまったのかとか、赤井さんに会えるのかとか、ホテルに辿り着けるのかとか。ぐるぐると胸の奥に留まっていた思い悩んでいたものがすべて、押し出されるように目頭が熱くなる。
 この先どうしたらいいのか、助けて神さま。
 都合のいい時だけ神さまに頼る私に、施しなんて与えられないのかもしれない。それでも祈らずにはいられない。
 横に長く並んだ椅子の一つに腰掛けて、じっと窓を飾るステンドグラスを見つめていた。
 ぼうっと過ごして、あれからどれほど時間が経ったのかわからない。もしかしたら数分かもしれないし、一時間以上経っているかもしれない。
 私が入ってきた時と同じようにずっとお祈りしている人もいれば、観光客だろうか、教会内の写真を撮って過ごす人の姿もある。
 息をついて目を閉じる。
 スマホも財布も戻ってこなくてもいいから、赤井さんに会えますように。
 もう一度だけ、神さまにお願いしてみる。
 これからは絶対にいい子にします。なんて、子どもみたいな言いわけも付け加えて。
 ふと、教会内にパイプオルガンの音が響き渡った。
 夕方の礼拝の時間らしい。扉の開く音がして、ミサの時間に合わせて椅子に座っていく人もちらほらいた。
 全く何を説いているのかわからないけれど、落ち着いたその声を聞いて、目を瞑る。
 隣にも人の気配を感じた。ふわり、と煙草の臭いが漂う。
 それにまた赤井さんを思い出して、私はぎゅっと自分の手を握った。
 少しずつオルガンの音がフェードアウトして、礼拝も終わりの時間を迎えようとしていた。
 この先への不安と、厳粛な音色と雰囲気に自然に瞳に涙が滲む。
 ぐすっと鼻をすすって、ハンカチを取り出そうとバッグを探して、そういえば盗られていたことを思い出してまた泣けた。
 ばらばらと人が帰っていく中で、これからどうしようかと考える。
 人目も気にせずうんうんと唸っていると、隣から流暢な英語で話しかけられた。

「何かお困り事かな? お嬢さん」
 その声に、私ははっと顔を上げる。
 隣を見上げると、見慣れた顔。今回の一番の目的であり、今一番会いたかった人だ。
「あ、赤井さん……!!」
 教会中に響く私の声に集まる視線を気にせず、私は赤井さんに飛びついた。
「うっ、えっ……あ、会いたかった……!」
「ああ……」
 赤井さんのジャケットに顔を埋めて大きく息を吸うと、嗅ぎ慣れた煙草の大好きな匂いだった。全然気づかなかった。あの礼拝の時間からいたなら、どうしてすぐに声をかけてくれなかったのか。
「こ、怖かったし、本当寂しかったんですからね……!」
「悪かったと思ってるよ」
「う……」
 全然連絡のないこととか、新一くんに先に連絡していたこととか、会えないかもしれないと思って不安だったこととか全部伝えたかったのに、私を見つめる赤井さんの表情があまりにも柔らかくて、言いたいことが全部ごくりと飲み込まれてしまった。
「……でも、どうしてここにいるとわかったんですか?」
「新一くんから君が来ていることは聞いていてね。連絡が取れなくなったというから、君の好きそうなところを探したんだ」
「……赤井さん、エスパーなの?」
 こんな広い国で連絡手段が何もない状況で私の居場所を探し当てるなんて、奇跡だと思った。
 神さまにお願いしたと言えば、そうかと可笑しそうに笑みをこぼす。
 安心感から大人気なくボロボロと涙を流す私の目を、赤井さんの指が優しく撫でる。
「君に泣かれると困るんだが……」
「うそ、困ってる赤井さん見たことない」
「君には見せないようにしてるだけだ」
「うそだぁ……」
 いつも、冷静で余裕そうにしか見えないから赤井さんのいうことが信じられなかった。
「今日も、必死で君を探したよ」
「必死? 赤井さんが?」
「必死にもなるさ」
「想像つかない……。いつも余裕そうなのに」
「そんなこともない」
 赤井さんはそういうけれど、やっぱり必死な赤井さんが想像できなくて首を傾げた。
 外はすっかり暗くなっていたようでステンドグラスの色を通した光は、今度はキャンドルの火に合わせて揺れていた。
 そこではっと思い出す。私は赤井さんに抱きついたまま、彼に乗り上げるような格好でいた。
 こんな神聖な場所で、男女が抱き合っていていいものなのか。
「あ、赤井さん……! あの、降ります!」
「ん? なぜだ」
「は、恥ずかしい……」
「誰も見ていないが……?」
 外国では男女が公の場で身を寄せ合っていてもそれほど珍しいことではないらしい。
「そうじゃなくて……! こんな神聖なところで……」
「ああ」
 赤井さんは私の言わんとすることに気がついたようだった。たじたじとする私を他所に、赤井さんはフッ笑うと、そんなことは気にするなとばかりになんと[D:38960]に唇を寄せた。
「あ、赤井さん……!」
「気にするな。結婚するときには神の前で誓うだろう」
「けっ、けっこん……」
 赤井さんの口から出た想定外の言葉に、じんわりと顔に熱が広がった。
 赤井さんの翠色に見つめられて、ごくりと喉が鳴る。
 ゆっくりと近づいて重なった唇が、ひどく懐かしく感じた。こんなところで、と言っていた自分がもっとと強請ってしまいそうで、耐性のない自分が恥ずかしい。
 名残惜しげにゆっくりと離れた隙に、なんとか留めた理性で赤井さんから距離をとる。そういう私の稚拙な考えも、きっと赤井さんにはお見通しなんだろう。
 赤井さんはゆっくりと立ち上がり、軽々と私のスーツケースを手に取った。
「ホテルまで送ろう」
「ありがとう……、あっ! 私、荷物を盗られちゃったんです……。スマホもなくて」
「……それなら、大方検討はついている」
「えっ」
「じきに戻ってくるさ」


 新一くんからの連絡を受けて、赤井さんは私を探しにいろんなところを駆け回ってくれていたらしい。ホテルの場所は伝えていなかったし、この場所で出会えたのは本当に運が良かった。

 二人並んで教会を出た後、赤井さんの車に乗り込んでホテルに向かった。
 赤井さんがフロントでチェックインを済ませてくれ、私はついていくがままだ。安い割に小綺麗な部屋だった。シャワーもある、洗面台もある。広いとは言えないが、荷物を広げられるスペースもあるし、一人で泊まるには十分な広さだ。
 赤井さんは、ベランダの窓を開けて煙草に火をつけていた。彼ははアメリカに住んでいるから、もちろん自分の家がある。
 せっかく会えたのに、このまま別れてしまうなんて寂しい。
 しかし、仕事を抜け出して来てくれたであろう赤井さんをこれ以上引き止めるのも申し訳ない。一瞬でも、ひと目でも会えたことに感謝しなければ。
 見納めになるかもしれないと赤井さんをじっと観察していると、その視線に気づいた赤井さんが「そんなに見られると穴が開きそうだ」なんて冗談を言う。
「見られ慣れてるじゃないですか」
「そんなことはない」
「本当に? ブロンド美女が言いよってきたりしてない?」
「…………」
 私の一番の不安を口にすると、赤井さんは意外そうに目を丸めた。じっとこちらを見る赤井さんに、幼稚な考えの自分が恥ずかしくてふいと視線を外した。
「そんなことを心配していたのか」
「そんなことって、」
 赤井さんはまだ残った煙草を気にせず火を消すと、ゆっくりと部屋へと戻った。
 ベッドの端に座る私の横に赤井さんも腰を下ろすと、ベッドが音を立てて軋んだ。
「日本に置いてきたお姫様が心配でな。それどころじゃなかったさ……」
「本当に?」
「ああ」
 こちらは真剣なのに、冗談めかして言う赤井さんは、喉の奥でくつくつと可笑しそうに笑っている。それにむっとすると、赤井さんは悪かったと宥めるように頭に手を置いた。
 赤井さんの長い指が、さらりと髪を通る。
……。会いたかった……」
「わ、私も……」
 瞳の奥に欲の篭った光が見えた。ごくり、と唾を飲み込んだ私もきっと赤井さんを欲しがっている。
 ホテルなんて取らないで来たらよかった。そんな大博打を考えていると、赤井さんが唇を寄せた。
 額に、[D:38960]に、瞼に、鼻先に。一つ一つ触れたところから熱がこもる。
 煙草の匂いを強く感じて、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるようだった。
「赤井さん……」
 応えるようにキスが落とされる。
 呼んだ名が本人に届くことがこんなに嬉しいだなんて。
「……行かないで」
 思わず本音が漏れた。
 赤井さんがぴたりと動きを止める。私ははっとして自分の口を押さえた。
「……君を連れて帰る以外の考えはなかったが……」
「え?」
 ぐるりと視界が回る。気づけば、私は宙に浮いていた。
 不安定に揺れる身体を支えるために、慌てて赤井さんの首に腕を回す。抱えられているのと反対の手でスーツケースを持ち上げると、そのまま部屋を後にした。
 ホテルのフロントでチェックアウトすることを伝え、カードで支払いを済ませる。
 そしてそのまま乗ってきた車にまた乗り込んだ。
 乗り込んで、赤井さんは新しく咥えた煙草に火を点けた。
「帰りの飛行機は?」
「か、買ってない」
 だっていつ会えるかわからなかったし。
 口ごもってそう言えば、赤井さんは珍しく声を上げて笑った。
「……ああ。いや、悪い。さすがだと思ってな」
「あの、もし邪魔ならすぐ帰りますけど……」
「まさか」
 助手席のシートベルトを着けると、それと同時に車は発進する。
「来てくれて嬉しいよ。この国にがいるなんて、なんだか不思議だな」
「もとはといえば赤井さんが……!」
「ああ、そうだった。すまない。今後は気を付けるよ」
 そう柔らかく目を細めて赤井さんが髪をくしゃりと撫でつける。自分がとても小さなことでむくれている子どものようで、恥ずかしくて俯いた。
 時差もある。距離もある。仕事もある。しかも赤井さんの仕事はスーパーエリートじゃなければできない大変な任務もある。
 今回、急にアメリカに来たのだって、数週間連絡が取れないくらいで寂しがっている私のわがままだ。しかも赤井さんに内緒で。
 そんなわがままに付き合ってくれるだけでもありがたいのに、赤井さんときたら迷子を救ってくれるわ、会えてからずっと優しいわ、相変わらずかっこいいわで、胸から熱いものがじんわりと込み上げる。
「……頼むからそんな顏で見ないでくれ」
 車を走らせながら、ため息交じりに吐き出した赤井さんの言葉にどきっとする。
 へらへらとニヤニヤとした気味の悪い顏が出てしまったのだろうか。慌てて両頬を手のひらで包むように隠して謝ると、違うそうじゃないと苦笑される。
「俺の家までまだしばらくかかる」
「……つまり?」
「煽るなと言ってるんだ……」
 ちらりと視線を向けた先の赤井さんが眉根を寄せて困ったように笑うので、それがまたなんとも言えない色気を醸し出していて、胸の奥がきゅんと疼いた。車内に充満する煙草と、赤井さんの香りでめまいまで起きそうだ。
 私の手だけでは赤く染まった顏のほとんどを隠せていない。
 早く赤井さんに触れたい。その思いがシンクロするように、アクセルを踏み込んだ車がぐんと速度を上げた。

20190421 修正