わたしのための
いつものジャケットを羽織り、車のキーを引っ掛けた赤井さんはドアノブに伸ばしかけた手を止めた。
【外出禁止!】
そう書かれた紙が、扉の中央に貼り付けられていたからだ。
じっとそれを見つめたままの赤井さんは「おい」と私を呼びつける。稀に見る俊敏な動きで彼の元へ現れた私にちらりと視線を向けると、彼は黙ってそれを指差した。
「見た通りです」
「…………これは俺にも有効なのか?」
「はい!」
にこにこと笑顔を向けると、赤井さんはため息とも取れる小さな息を吐き出して、ポケットから残り少ない煙草を取り出した。
「また君の奇妙な思いつきか。煙草を買いに行くだけだと言っても?」
「私が買いに行きます」
「君はいいのか……」
赤井さんは面食らったように私とその紙を交互に見る。外出禁止の張り紙は、赤井さんを家から出さないためのものである。
ことの発端は昨日の夜。同僚たちと飲んで帰ると赤井さんから連絡が入った。私とは比較にならないほどお酒をしこたま飲む人なので、帰りは遅いと見込んで先にベッドに入っていた。
予測通り、日付をまたいでさらに時計が回ってから帰宅したらしい。テーブルに置かれたスマホとヨレついたレシート。その裏に、明らかに女性の名前と電話番号が書かれていた。口紅で書かれたそれは、露わな下心を隠しもしない。赤井さんは渡されたものをそのまま受け取っただけなのかもしれないけれど、こうして赤井さんをつけ狙い、我がものにしようとするハイエナはこの女性だけではない。
街を歩けばサングラスの上からでも周りの人の視線を集めているし、入ったカフェやバーのスタッフがオーダーやお会計の時に熱視線を送っていることなんてよくある話だ。
このまま彼を外で野放しにしては、いつ何時そのハイエナ連中の餌食になってしまうのかわからないのだ!
「……つまり、そのハイエナどもの目に晒されないために家にいろと」
「ざっつらい!」
「…………」
赤井さんは何も言わず、代わりに紫煙が吐き出された。細く空をいくそれを目で追うと、ゆらゆらと時間をかけて空気に溶けていった。
「……そうか…。じゃあ、出かけてくる」
「はい…、あっ!」
隙をついて何事もなかったかのようにドアノブに手を伸ばした赤井さんの手を捕まえる。間一髪、油断も隙もありゃしない。
懇願の意を込めてじっと見つめると、赤井さんは観念したようにやれやれと首を振った。そうして頷いた赤井さんに、私はよしと拳を握る。赤井さんは羽織っていたジャケットを脱ぎ、ソファーの背にかける。
そんな彼とは対照的に、私は気分良く向かいの一人がけのソファーに腰掛ける。赤井さんをハイエナから守り、数少ない二人で過ごせる時間を無事確保したのだ。万歳三唱をしたいくらい。
長い足を投げ出してソファーに寝転がりながら、赤井さんは目を瞑る。眠りながらぷかぷかと煙草を吹かす赤井さんを眺めて、器用だななんて呑気に考えていた。
仕事で忙しく、夜通し帰らないことも何度もある。デートの途中で呼び出しがかかることも、当日の朝に行けなくなったと連絡があることもしばしば。
そんな赤井さんを独り占めしたいなんて、子どもみたいなわがままだということも自覚している。私のくだらない監禁ごっこに付き合ってくれる赤井さんの優しさに、また好きの気持ちが高まるばかりだった。
「…………」
「…………」
穏やかな時間だけがゆっくりと進んでいく。咥えられた煙草はいつの間にかほとんどが灰に変わり、赤井さんは横になったままそれを灰皿に押し付けた。
赤井さんはむくりと起き上がると、こちらに向けて手招きをする。私はすぐに立ち上がり、いそいそと彼の側に寄る。
「…………」
「?」
何も言わないことに首を傾げると、赤井さんはいつもの薄い表情をふっと和らげた。それにドキッとしたのもつかの間、不意に、赤井さんに手を引かれてバランスを崩したままソファーの上に乗り上げた。
「あ、赤井さん?」
どこか漂う甘い雰囲気に、とくとくと心臓が早鐘を打つ。深い緑に射止められて、私は金縛りにあったみたいに赤井さんから視線を逸らせない。掴まれたところが熱を持ったみたいにじわじわと熱くなる。
「……煙草がなくなってしまってな」
「うん?」
そう言った赤井さんの意図を汲み取れず戸惑う私に、赤井さんはふっと笑みを溢した。
とん、と私の口元に指を置くと、「口寂しいんだが」と赤井さんは言う。私はハッとして、酸欠の金魚みたいに口をパクパクと開閉させた。「君からしてくれないか」という赤井さんからのお願いを私は素直に聞くことができなかった。
「……う、あの…」
「なんだ、別にいつもしてることだろう?」
「いや、でも……」
顔色までまるで金魚みたいに赤くなった私を、赤井さんはからかうように追い打ちをかける。
何度している行為でも恥ずかしいものは恥ずかしい。ましてや自分からなんて。
少し動けば触れる距離。赤井さんから香る草の焼けた苦い香りすら甘く感じて、頭がくらくらした。
あーだのうーだのと言葉にならない声を出して渋る私の頭に赤井さんの手が伸びる。ふわりと髪を撫でられて、きゅんと胸の奥が鳴る。
「目、瞑ってください……!」
絞り出した声の通りに赤井さんは目を閉じる。
赤井さんの顔を、こんな間近で見られるなんて贅沢はまさしく恋人の特権である。すらりとした長身に鍛えられた身体、切れ長の目に端正な顔立ち、長い海外生活で身についたスマートな動作などに気を惹かない相手はいないだろうと思う。そんな赤井さんに付き合ってもらっている自分は幸せ者だ。
そんなバカみたいなことを考えている隙に、赤井さんがぱっちりと目を開く。
「あ……!」
ぐっと引き寄せられた後頭部と、唇に触れた熱にキスをされているのだと気づく。割って入られた舌に苦味を感じて思わず眉を顰めた。
おそらくたった数秒のことだったのだけど、それはずっと長くに感じられた。
やっと離されたと思えば、息も絶え絶えで目を開けると、いつの間に逆転していたのか、視界には赤井さんと見慣れた天井が見えた。
「からのキスはまた次回、楽しみにしていよう」
赤井さんはそう言うと、素早い動きでジャケットを手にして立ち上がる。私があっと思った時にはすでに遅く、赤井さんは部屋の外へと投げ出していた。扉の閉まる音だけが、私だけ残された部屋に響く。
「や、やられた……!」
真っ赤に染まった頬を鎮めるために、両手を当ててみるけれど、指先まで熱くてそれはほとんど意味がなかった。
「ただいま」と帰ってきた赤井さんは全く何事もなかったかのような態度で、私の頬にキスを一つ寄越した。帰ってきたら文句の一つでも言ってやろうと思ったのに、それは喉の奥に飲み込まれた。
無事に買えた煙草と、むくれた私へのお詫びの品らしいケーキと小さな花束を手にした赤井さんは「すまなかった」と笑う。
「の好きなカフェで買ったケーキなんだが」
「食べます!」
「脱獄のお詫びにコーヒーでも淹れよう」
「刑務所じゃないんですから、その言い方やめてください…」
赤井さんから受け取った花束を花瓶に移し替えると、部屋の中がぱっと明るくなった気がした。
赤井さんの淹れたコーヒーとお気に入りのケーキにほっぺを緩ませていると、こちらをじっと見る彼の視線に気がついた。
「何ですか」
「美味そうに食べるなと思ってな」
「食べます?」
「いや、遠慮しておく」
甘いものはあまり好まないらしい赤井さんは、いつもと同じようにブラックコーヒーだ。
赤井さんのような人が花屋とカフェだなんて、ミスマッチだとなんだか可笑しかった。
「……あっ!!」
「今度はなんだ」
「……花屋とカフェの店員さんが赤井さんに惚れちゃったじゃないですか!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
またライバルが増えたと悔しがる私を見て、赤井さんは笑いながらコーヒーに口をつけた。
20180426