岩泉と進展したい 04
――ちゃんと話がしたい。
岩泉の言葉に、はじとりと嫌な汗を流す。速まった鼓動に息苦しさを感じ、ぎゅっと口を引き結んだ。
岩泉に促されて、廊下側の窓から見えないようにしゃがみこむ。頻繁に使われていなさそうな教室だが、定期的に清掃はされているらしい。きれいに磨かれた床に腰を下ろした。
「」
岩泉は出来る限りの落ち着いた声での名を呼ぶ。
見るからに身体を強張らせて緊張した様子の彼女に、岩泉は心中でため息を吐く。なぜか自分に萎縮し逃げるようにする彼女と、彼女にそんな態度をとらせてしまっている自分に対してだ。
岩泉が何か口を開くたびに、その言葉を拒絶するかのようにわずかに身体を揺らして目を瞑る。そんなの態度が岩泉をなんとも歯痒い気持ちにさせた。
「とりあえず、逃げんな。さすがに傷つく」
「え、あ……ごめん」
「おう」
頷いたを信じないわけではないが、また何かの拍子で突然逃げられては叶わないと岩泉はの腕を掴む。それにまたがビクリと身体を揺らした。
「何でビビってんだよ」
「だ、だって」
「怒ってねえから」
「……じゃなくて、」
「?」
はキョロキョロと居心地が悪そうに視線をさまよわせて、そしてゆっくりと岩泉の元へと戻す。 震えた唇を小さく動かすの言葉を聞き逃すまいと岩泉は聴覚に全神経を集中させた。
「……私のこと、イヤになった?」
「は?」
彼女から出てきたのはまったくの予想外の言葉で、岩泉は呆気にとられる。
イヤになる、とはどういうことだ。反対に逃げられていたこちらの方が「イヤになったか」と心配したいほどだった。
「つか、どうしたらそうなるんだよ?」
「え、だって、」
呆れたように問う岩泉に、はもごもごと言いにくそうに口を動かす。その声は相変わらず小さくて、岩泉はぐっと顔を近づけた。
「き、」
「き?」
「キスしたから……」
絞り出した声でそう言ったに、岩泉は昨日の行為を思い出してかっ顔が熱くなるのを感じる。そして、よく聞こうと近づいたための顔がすぐそばにあることを思い出す。彼女のそれを嫌でも意識してしまって、岩泉は慌てて顔を背けた。全身の体温まで上がった気がして、それを悟られないように彼女の腕を掴んでいた手を離す。
「いきなりしてごめん」
ぽつり、と呟いたの声が二人の間に静かに落ちる。
「イヤじゃなかった?」
俯いたままで尋ねるの表情は、髪に隠れてしまいよく見ることができない。しかし、微かに覗いた耳から普段の彼女の肌色よりも赤みが差していることが見てとれた。
「イヤっつーか、ちょっと驚いただけだ」
いや、かなり。心の中で付け足して岩泉は頷く。は「ですよね…」とさらに耳を赤くさせた。
「でも、岩泉にキスしたいからしたし、岩泉のことが好きだから、その……それ以上のこともしたいと思ってるよ」
震える声は変わらず、しかし、はっきりとした口調では言った。俯いていた顔を上げて、岩泉と視線を合わせる。その言葉と、瞳を震わせて真っ直ぐに向かう視線に、岩泉はごくりと息を呑んだ。
が自分から行動を起こすなど、思ってもみなかったというのが岩泉の正直なところだった。の周りにいる友人たちは社交的で恋愛に積極的な性格な方であるが、彼女たちに比べればは目立たない方である。
だからこそ、彼女の友人たちが口を揃えて「あり得ない」というほど、岩泉とは健全な付き合いができていた。
少しの間、二人の間に沈黙が流れ、は再び岩泉かは視線を外し、さっと俯いた。
「――って、私が勝手に思ってるだけです」
ごめん、と続いたの言葉を岩泉が制す。
「謝んな。俺も同じだわ」
「え?」
「だから、俺も同じだっつったんだよ」
「……え、うん? つまり、岩泉も、その、キスしたいと思ってくれてるってこと……?」
「そりゃ、好きなんだから思うだろ」
滅多にない岩泉からの直接的な言葉に、は呆けた顔で固まる。そしてそれはすぐに緩み、気が抜ければしまりのなくなってしまいそうな顔を必死で耐えた。
「い、岩泉はそういうの興味ないのかと思ってた……」
「なんでだよ」
「あるんだ」
「……あるだろ。人並みには」
ばつの悪そうな顔を浮かべて岩泉は言った。その様がなんだかおかしくて、は思わずフフと笑いが漏れた。
「あって悪いか」
「全然!」
先ほどと打って変わってにこにこと嬉しそうなに、岩泉は内心息をつく。
「でも、この前みたいなのはやめろ」
「あ、うん。ごめんね……もうしないから」
「……ったく、そうじゃねえわ」
眉を下げて笑ったの胸ぐらを掴むようにして、岩泉は彼女を引き寄せたが驚いて、感嘆の声が喉から出るより先に唇が塞がれる。
は目を見開いて、岩泉のシャツを握りしめる。それはすぐに離れたものの、鼻先が触れるほどの距離は維持したままで、うるさいほどに鳴り響く心臓の音が岩泉にも聞こえてしまうのではないかとは心配した。
至近距離で目が合って逸らそうとしてみても、どこへ向けても岩泉しか映らない。距離をとるために離れようと頭を動かすと、後頭部に回っていた岩泉の手がそれを許さない。
「い、いわ――」
「こういうときは目閉じるんじゃねえのかよ」
その言葉にがぎゅうっと目を瞑ると、再び熱が触れ合った。
昨日の自らがしたものや、先ほどのものとは違って、今度のは長く、角度を変えられるたびに鼻から息が漏れる。息継ぎの仕方などわからないが息苦しさにシャツを握る手に力を込める。
名残惜しそうにゆっくりと離れた岩泉の顔をまともに見ることができない。シャツから手を離すと、細かく皺が寄ってしまっていた。
下ろした手に、岩泉の手が覆うように被さり、そのまま指を絡められた。は岩泉が意外と手慣れているように感じてしまって、思わず顔を上げる。
しかし、意外にも岩泉も同じように耳を赤く染めており、触れた手が緊張と気恥ずかしさで震えているのに気づいてしまったは胸の奥の方がぎゅっと絞まるのを感じた。
「岩泉」
「………なんだよ」
「好き」
皺の寄ったシャツにおでこをつけるように寄りかかる。ぎこちなく回された腕に引き寄せられて、は目蓋を熱くさせた。かすかに滲んだ涙は、岩泉のシャツに吸い込まれていった。
「私、はじめて授業サボっちゃったよ」
「あー、俺もだわ」
「怒られるかな」
「どうだろうな」
チャイムが鳴り、賑やかになったところに紛れて教室に向かう。
二人で教室に戻ってきたところで、の友人たちは察したのだろう。ニヤリと口を緩め「後で話聞かせなさいよ〜」と肘をつついた。友人たちのその様子に、到着するまでに治まっていたはずの火照りが再びぶり返す。「お前らな」と呆れたような声を出す岩泉の耳元がわかりやすく赤くなっているのが見えて、思わず表情筋が緩んでしまう。
冷やかしの言葉をかけてくるクラスメイトたちの相手は岩泉に任せて、は自身の緩む口元を隠すことに専念することにした。
20160605