岩泉と進展したい 03
何が起きたのかわけがわからなくて呆然としている岩泉の背後から、ガタッと聞こえた物音に勢いよく振り向いた。「押すなよ!」「ヤベッ」と聞きなれた野次馬の声が耳に入り、眉を顰めるとその中から押し出されるようにして及川が顔を出した 。
「アッ! あ〜、岩ちゃん! 練習再開するのに戻ってこないから心配しちゃった!」
わざとらしく、語尾に星マークでもつけたような言い方が癪に障り岩泉は蹴り上げるように足を出す。及川はすんでのところでそれを避けて「危ないなあ!」と喚いた。
あの現場を見られていたのだろうか。明らかに不機嫌そうな顔を浮かべて岩泉はずんずんと体育館内を突き進んだ。すると、自然な動作で両脇に並んだ松川と花巻がニヤニヤと口元を緩めているので、嫌な予感を察して岩泉は足を速めた。
「おいおい、岩泉よ」
「…………」
「青春だねえ」
「……見てたんかよ」
チッと大きく舌打ちを溢した岩泉は、表情は不機嫌が露になっているとはいえ、どこか恥ずかしさを払うようにも思えて松川と花巻は顔を見合わせて小さく笑った。
「って案外積極的だったんだな」
「やるよなぁ、。最近の女の子はすごいねぇ」
二人に肩を組まれて、からかうように言葉を浴びせられる。岩泉は、花巻と松川の細められた視線を振りきって先を歩いた。
付き合い始めたのは数ヵ月前。クラスメイトだったから、告白を受けた岩泉は困惑しつつも了承した。そして、突然の男女交際がスタートしたわけだが、女子との付き合いなどまるでわからない岩泉はとの接し方もわからず内心しどろもどろしていた。
「そんなんじゃ、すーぐちゃんにフラれちゃうんだからね!」
岩泉の幼馴染みでもある及川のその言葉にイラつきを感じたのはつい最近の話だ。ではどうすればよいのか。なんとなく及川に聞く気にはなれず、岩泉は直接にそれを告げた。
「岩泉のそばに置いてもらえるだけで楽しいよ」
頬を染めて恥ずかし気にそう言うを、可愛らしいと思った。同時にふわっとしたよくわからない感情が胸の奥に渦巻いて、岩泉はむず痒いような感覚に襲われたのを覚えている。上手い言葉が出てこずに「おう」と発するのがやっとであった。それを見てははにかんだ笑顔を見せた。
手の甲で口元を覆うように添えてみると、未だに残る感触は自身の骨ばったものとはまるで違う。先程の行為を思い出して、岩泉は一人赤面した。
それを微笑ましいとチームメイトは笑うのだが、今の岩泉には起爆剤にしかならないようだった。
*
翌日、登校したはこそこそと落ち着かない様子を見せていた。不審に思ったの友人であるクラスメイトの一人が声をかけると、あからさまに驚いたように肩を跳ねさせた。
「ヒョッ!?」
「……あんた今日おかしいよ。昨日何かあったの?」
友人がそう声をかけると、は昨日のことを思い出してボンっと顔を赤らめた。それを見ていた周りの別の友人たちが「ちょっと面貸しな」とニンマリとよくない笑顔を浮かべながらを教室の外へ連れ出した。
「――で?」
「で、とは……」
「岩泉のことに決まってるじゃん」
確信をつくように発せられたその名前を聞いて、たちまち頬の熱を上げたに、やっぱりなと友人たちは頷いた。複数の女子に囲まれている様は傍から見たらいじめ現場にも見られるかもしれないとは余計な心配をしたが、通りすぎる生徒たちはちらっと横目をやるだけでそそくさと足早去ってしまうばかりだった。
「で!? 岩泉は何て!?」
「何も……」
「は?」
「だって、逃げてきちゃったもん」
声を揃えて「はあ?」と眉を寄せる友人たちに、は肩を縮こまらせる。ため息をついた友人のひとりが「予想はしてた」と肩を竦めた。「ええ〜」と声を漏らす友人たちが、自分と岩泉の行く末を面白がっているように感じては口を尖らせた。内ひとりがそれを宥めるように肩を叩く。
部活動の朝練を終えたクラスメイトたちがばたばたと教室に駆け込んでくる。時計を確認すると、あと数分後には朝のHRが始まる時間だった。
「あ、」
誰かの上げた声に顔を上げると、の視界に入ったのは彼女の様子をおかしくさせる原因の岩泉だった。
岩泉はクラスメイトに囲まれた中心にいるのがだと気づき声をかけようとすると、それを察したが一歩下がる。そんなの態度に岩泉は眉を寄せる。そして、それを見たはさっと顔色を青くして、わなわなと口を震わせた。
「ご、ごめんなさい!」
「アッ!」
これから授業が始まるというのに、それなことはすっかり頭から抜け落ちているは、陸上選手ばりの走りで廊下を全力疾走で駆け抜けた。
苦笑するの友人たちと残された岩泉の間に微妙な空気が流れる。 きっと彼女たちは、昨日の事情をから聞いているのであろうと岩泉は察した。何も言わない岩泉に、残された彼女たちは空笑いを溢すしかない。
彼女であるに昨日と今日と逃げられて、岩泉がよく思わないはずがない。小さく舌を打って岩泉が足を進めると、伸びてきた腕にバッグを取られる。「のことよろしく〜」とへらりと笑ったクラスメイトに「悪い」と一言残し、その彼女は小さくなる岩泉の後ろ姿に手を振った。
「コラ! 廊下は走るな!」
すれ違い様に声を荒げる教師に、はすみませんと適当に謝罪を残して走り続けた。すぐに後ろから「お前ら、走るなって言ってるだろ!」という声が耳に入る。
お前ら?
が不思議に思って、ちらりと視線だけで後ろを振り返ると、すぐ後ろまで迫っていたのは凄まじい形相をした岩泉だった。
「ひっ」
「オイ待て!」
あんな様子で追いかけてこられては、捕まったらどうなってしまうのかわからない。は必死に足を動かしたが、バリバリの体育会系で現役の岩泉に足で勝とうなど烏滸がましい考えであった。
「クッソ…!」
ぐっと岩泉が伸ばした腕に、の腕は簡単に捕まえられてしまう。後ろに引かれてバランスを崩したを岩泉が支える。ぜえぜえハアハアと肩で息をするに対して、かすかに息を切らしただけの岩泉はさすがである。は逃げ切れるなどとは思っていなかったが、あっさりと捕まってしまったことに唇を噛んだ。
「……」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! もうしません! 許して!」
「!」
捕まれていない方の手で顔を隠してひたすら謝り倒すに、岩泉はまた舌打ちを漏らす。それにビクッと反応したを見て、落ち着くように深呼吸をひとつした。
「怒ってねえから」
「えっ……」
は岩泉の声に恐る恐る顔を上げる。しかし、岩泉の眉間には明らかに皺が寄っていて、は再び岩泉から視線を外した。
「お、怒って、」
「ねえ」
「ハイ……」
あまりにしつこく聞くのも余計に怒らせてしまう気がして、はそれ以上何も言わなかった。落ち着いてきた呼吸を整えるのと同じように、ほっと息をついた。
チャイムはいつだかすっかり鳴り終わっていて、教室から離れたこの廊下では人気はほとんどない。それでも授業にこんなところで男女が二人で目立つと思い、岩泉はの手を引いて近いところにある空いた教室へと入り込んだ。
「ちゃんと話がしたい」
真剣な岩泉の声に、は背筋が冷えるような心地がした。「幻滅した」「気持ち悪い」「別れたい」どう言われてもには大打撃を受ける言葉ばかりだ。ぎゅっと歯を食い縛り、握り込んだ手にじとっと汗をかいているはずなのにそれがひどく冷たく感じる。
一息おいて口を開いた岩泉に、は瞼の奥がじわりと熱を持つのを感じた。
20160604