岩泉と進展したい 02
春も過ぎ、日が長くなってきた頃のある放課後。
体育館内に笛の音が響き、休憩のかけ声と共に部員たちがばっと散らばった。用意されたドリンクで水分補給し、館内のこもった熱気から逃れようと岩泉が体育館出ると、太陽がちょうど沈み始める時間帯だった。最近はすっかり日が伸びて時計を見なければ早い時間と勘違いしてしまいそうになる。
ちらほらと下校する生徒たちの中に、ちょうど目の前を通りがかったの姿を見つけて岩泉は声をかけた
「」
「あ、岩泉だ。おつかれ」
「おう」
は岩泉の声に気づき、駆け足でそばによった。岩泉がこんな中途半端な時間に何かあったのかと不思議に思って聞けば、友達と話していたらこの時間になってしまったとは笑って言った。
岩泉は練習着であるTシャツを捲り上げて、輪郭を伝って流れる汗を拭いた。風通しの悪い体育館内とは違って、涼しい風が肌を撫でて心地よさを感じる。サウナと言い換えてもいいほど、これからの時期の体育館の気温的なコンディションはあまり良いとは言えない。は、気だるげに息を吐いた岩泉を見上げた。一段高いところに立つ彼の晒された素肌が目に入って、恥ずかしさにすぐにそこから視線を逸らした。
「休憩中?」
「おう」
「そっか」
沈黙。
すると、一歩横に位置をずらして段差に腰を下ろした岩泉がちょいちょいと手招きをする。それに引かれるようにが近寄っていくと、岩泉は空いたスペースを指した。
は思わず口元が緩みそうになるのを必死で耐えた。きっと端から見たらもぞもぞとした口元が余計に気味が悪かったかもしれない。幸いなことに岩泉はそれに気づいていないのか、何も言わずに前を向いている。
が岩泉とこうして二人になるのは、久しぶりのことだった。岩泉の家に遊びに行って以来なかなか二人の予定が合わず、ほとんど学校で顔を合わすだけだ。声をかければ二人の時間を取ることもできたのだろうが、お互いに同性の友人と話している相手を連れ出す勇気など持ち合わせていなかった。
「岩泉と話すの久しぶりな気がする」
「そうか? 昨日話しただろ」
「あのくらい、他の子ともするし……」
少し嫌な言い方をしてしまったかとは岩泉の様子を伺ったが、岩泉は特に気にしていない様子だったのでほっと息をついた。嫉妬をするほどのことではないのだが、彼女である自分がほとんど交流できていないのに、ただのクラスメイトである女子と変わらない調子だというのはなかなか寂しいものがある。
しかし、そこが人に優劣をつけずに接することができる岩泉のいいところだとは思っており、そういうところが彼に惹かれた理由のひとつでもある。
隣からじんわりと漂う熱気や汗の香りに、は岩泉の存在を強く感じた。なんとなく気恥ずかしくては俯いて、自身のローファーの先を見つめる。二年生の途中に買い換えたローファーも、毎日履いているせいでゴム底は削れ、皮の部分は至るところに汚れがついている。毎日使用するくせにまじまじと見ることは少なかったので、よく見るとそれがあまり綺麗ではないではないことに初めて気づく。次の休みにでも綺麗に磨いてやろうとは思った。
そうして、がぱっと顔を上げると岩泉と視線が合う。意識していないところを見られていたと思うと恥ずかしくて自分から視線を逸らしてしまう。
「ど、どうしたの」
「……いや」
恋人同士になったはずなのに、なかなか落ち着いてゆっくりと会うこともできない。それなのにの、岩泉に対する気持ちはどんどん大きなものになっていくのをひしひしと感じていた。女友達の間でよく名前のあがる及川やバスケ部や野球部の先輩などと違って、見た目爽やかでもなければ、話が上手いとか社交的であるとかそういったこともない。しかし、にとってははじめから岩泉が男であったし、のヒーローでもあった。
もっと一緒にいたい、触れたい、話したい。
付き合い始めてからも、それよりずっと前からも岩泉が視界に入れば心臓が震えるように脈打ち、時々それを鷲掴みされたような気持ちになる。自分ばかりが好きなのでは、と思うことも度々あるが、岩泉が好きなものや大事なものは彼と同じように大切にしたいと思っているし、そう思うのが自分だけでなければいいとは密かに願っている。
「岩泉」
呼んだ名前に反応して岩泉がの方へ顔を向ける。
コンクリートにつけられた岩泉の手に重ねるように手を伸ばす。先程まで身体を動かしていたせいだろうか。普段の体温よりも熱く、湿っぽい感覚がした。
「……?」
の行動に、岩泉が不思議そうに名前を呼ぶ。
女の方から手を出すなど、はしたないと思われるだろうか。はごくりと唾を飲んで、岩泉に身を寄せた。
全身が心臓にでも変わったように、ドキドキと脈打つ。手のひらや触れ合った部分から、この脈の速さに気づかれてしまっているかもしれない。空いた方の手で練習着のTシャツを引き、岩泉がこちらを向いたときだった。
――ピーッ!
体育館内から聞こえた笛音には心臓が口から飛び出るかと思うほど飛び上がった。身体がびくりと反応したせいで、それに驚いた岩泉の手が同じように震えた。
「あ、ワリィ。戻るわ」
「…….う、うん」
立ち上がる岩泉につられるように立ち上がり、は下を向いた。
恥ずかしすぎる。何をしようとしていたか岩泉には感づかれたかもしれない。及川曰く恋愛事にはからっきしらしい岩泉には、何とも思われていないかもしれない。それはそれで寂しいとは思う。どんどん熱があがる顔を隠すように、髪を梳く。
「」
岩泉に声をかけられて顔を上げる。正直こんなよくわからない顔を見られたくないのだが、こんな風に二人でいられることは稀なのだ。は素直に顔を見せた。
そして、頭に感じた重みにより顔に熱が集まるのをは感じた。撫でるでもなく、ただ置かれただけの岩泉の手。じわっと広がる熱が足元まで一気に駆け巡る。
岩泉を見れば、目を細めてどこか恥ずかしそうに口元を結んでいた。
「気をつけて帰れよ」
ぽん、と優しく触るようにされてから、岩泉の手が離れていく。
扉を隔ててバタバタと足音が大きくなる体育館では、部活動が再開しようとしていた。
はぎゅっと口を引き結んで、溢れんばかりの慕情を胸のうちに押し込む。
ああもう、こんな風にするから好きで好きでどうしようもなくなってしまう。
は、踵を返そうとする岩泉のTシャツを掴み、自身の方へ引き寄せた。
「!」
本人は身長を気にしているようであるが、からすれば岩泉だって十分高身長である。
に下に引っ張られるようにされて、バランス悪く屈めた身体を危ない、と考えるより先に柔らかく触れた唇に岩泉は目を見開いた。その感覚は一瞬で、今度は突っぱねるように胸を押されて後ろによろめいた。
「……ぶ、部活がんばって」
「……………」
夕陽の色がその肌に溶けてしまったのかと思うほど顔を赤くしたの表情は俯いていて岩泉からは見ることができない。
絞り出したように震える小さな声に反応が遅れて、ハッとした時にははもう校門のところまで全速力で駆けていた。
20160604