受験の話

 高校三年生の秋も過ぎた頃。
 推薦入試で進学先が決定した生徒もいる中、大半はセンター入試や各大学の二次試験を控えた受験生である。部活を引退した者も多く、放課後の教室や図書館は残って勉強している生徒の姿を多く見かけた。岩泉もその一人で、スポーツ推薦ですでに大学進学が決まっているが「経験できるときにする」と言ってセンター試験も受けるらしい。そのため、放課後はだいたいいつも一緒に受験勉強に励んでいた。
 この日も放課後空き教室で一緒に勉強しようと言って二人で教室を出た。あまり好きではない勉強も、好きな人と一緒だとどうしてか楽しみのひとつになってしまう。我ながら単純だと思いながら、小さな幸せを噛み締めていた。
――廊下で、できれば会いたくなかった三銃士とばったり出くわすまでは。
「げっ」
「あ、ちゃんと岩ちゃんじゃーん。『げっ』てひどくない?」
「お、及川……」
「なになに、二人でお勉強?」
 部活でもないのに三人が揃っているところを見るのは久々だった。
 そうです、さようなら。そう適当に挨拶をして、その場を離れようと岩泉の手を取る。目的地へと足を向けたが、誰かに先を遮られてその場で立ち止まった。
「へえ、俺らも勉強するとこ」
「お前らどこでやんの?」
「特室」
 前に立ちはだかる花巻と松川の質問に、岩泉はあっさりと目的地を教えてしまった。特別教室とは通常の教室のように机や椅子が設置されているが、授業ではほとんど使われていない穴場である。それを聞いた花巻たちは「いいじゃん」「じゃあ行こうぜ」と何食わぬ顔で後をついてくる。まさか、と彼らに視線を向けると及川がにこりと爽やかな笑顔で「お邪魔してごめんね」と囁いた。なんだこれは、悪夢か? そう思って岩泉の手を掴む手に力を込めた。本当にお邪魔すぎる。
「俺もわかんねーとこあるから助かるわ」
「理系ならいけんべ」
「……三銃士の得意科目とか保健体育でしょ?」
「ちょっとちゃん失礼なこと言わないの!」
 せっかく二人で勉強という名の校内デートができると思ったのに、この小さな幸せにはエロ三銃士もといセクハラ三銃士がオプションでついてきた。おまけが強すぎて、幸せが霞んでいる。
 わいわいと騒がしく五人で目的の教室へとやって来て、みんなで円になるように机を動かす。もちろん岩泉の隣に座るつもりでいたのに、なぜか彼の両隣は及川と花巻に陣取られていた。
「俺岩ちゃんの隣ー」
「俺もー」
「えっ、おかしくない?」
「……じゃあ俺は仕方なくの隣座るか」
「こっちの台詞! 私だって松川の隣なんて仕方なくだよ!」
 そんな抗議も虚しく、及川と花巻は岩泉の両脇を固めすでに筆記用具や参考書を広げていた。飄々とする彼らに嫉妬の炎を燃やしつつ、渋々と松川と並んで席についた。向かい合って座れているのがせめてもの救いだと思う。
「まっつん数学得意じゃん。ちゃんに教えてあげてよ」
数学苦手なの?」
「……そんなことないもん」
「うそ言うな。この前数学赤点常習犯だったろ」
「あっ、岩泉何で言っちゃうの!」
 三銃士がひとり松川に借りを作るなどと悔しさを噛み締めつつ、自分で考えても理解不能な数列を前に私は白旗をあげた。
 「公式に当てはめるだから簡単だろ」そう言っていくつかの数式をノートに書き並べていく松川が何を言っているのか全くわからない。xとyがなんだって? すらすらと書かれる数式をただじっと見つめていると「まあ、わかってないよな」と松川が苦笑をもらした。
「ていうか、みんな推薦じゃないの? なんで勉強してんの?」
「俺らは推薦だけど、センターは受けるよ」
 及川と花巻も岩泉と同じく、すでに推薦で進学が決まっているがセンター試験は受けるつもりらしい。同じ受験生のはずなのに少しばかり余裕の見られるみんなに、私も何か部活動にでも取り組んでいたらよかったと後悔した。学力も平均、内申も平均。これといった功績もなく、ただの帰宅部である。この三年間、わたしは素早くかつ安全に家に帰ることに全力を注いできた。そんな私が推薦入試なんて受けられるはずもなく、行きたい大学へ行くにはひたすら試験勉強に励むしかない。
 そんな中「俺は一般」と呟いた松川に目を丸くした。松川だって十分推薦で通るのに何で。
 不思議に思って視線を向ければ「行きたい大学あるんだよな」と返ってきた。
「どこ?」
「国立理系」
「えっ、すごい」
 理系科目はまるでちんぷんかんぷんな私にとっては、大学に行ってさらにそれを勉強するなんて信じ難い話だった。よく見れば、松川の机に並べられた参考書には『数?・C』と書かれている。
「え、なにその顔」
「松川って実はすごかったんだなって……」
「実はって何だよ」
「ただのむっつりって思っててごめんね」
「ぶはっ!」
 わたしの言葉に花巻が吹き出して、げらげらとお腹を抱えて笑っていた。席についてすぐにノートを取り出していたはずの花巻は未だにシャーペンすら持っていない。本当に何しに来た。
 「は得意なもんあんの?」
 花巻を一瞥した松川からの質問に、古典と日本史だと得意気に答えると意外といったような顔を向けられた。理系科目はからっきしだが、国語や日本史はなかなか良い点をキープしているのだ。
は文系なんだな」
「理系はほんと無理だー……」
「俺は英語なら自信あるわ」
 ひいひい言いながら笑っていた花巻が、シャーペンを回しながら松川との話に口を挟んできた。聞いてないと一瞥するが、まるで気にせずにやりと口元を歪める。
「教えてやってもいいけど?」
「わかった。じゃあ花巻はこれから英語でしゃべって」
「出たー! いるいる、すぐそういうこと言う奴! じゃあもこれから古文でしゃべって」
「は?意味わかんない」
が言ったんだろ!」
 ぎゃいぎゃいと騒ぐわたしたちに「頭の悪い喧嘩してんじゃねぇ」と顔をあげて言った岩泉に思わず背筋が伸びる。頭が良くないのは元からなのだが、こんなアホみたいな口論をしたのは久しぶりかもしれない。元凶である花巻をじっと睨み付けて、べっと舌を出した。黙々とペンを進めている岩泉の集中力を彼らに分けてやってほしい。ついでに私にも。
 その隣の及川は時々岩泉に質問しては、岩泉もそれに素直に応えている。そこは私のポジションだったはずなのに。ぎりぎりと歯を噛んで、もうそろそろ摩り切れそうだ。
「……及川になりたい」
「何、突然どうしたのちゃん」
「今すぐに及川になって岩泉と一緒に勉強する〜!」
 机に突っ伏して、おんおんと泣き真似をした。せっかく二人で勉強する予定だったのに、花巻や松川としか話してない。広げたノートには松川が書いたどこに使うのかもわからない公式だけで、勉強もほとんど進んでいない。何のためにここに来たんだ私は。
「ちょっと彼氏何とかしてー」
「可愛い彼女が泣いてますよー」
「何してんだお前は……」
 心底呆れたように聞こえた岩泉の声に、本当に涙が出そうになった。もちろん、二人で勉強したかったというのもあるのだが、みんなはもう進学先も決まって春からは大学生になる。松川が簡単だという問題さえもわからないで、私は高校生という肩書きを終えたらどうなってしまうのだろうかと無性に不安になってしまったのだ。
「えっ、ガチ泣き?」
「おーい、ちゃーん?」
 私の鼻を啜る音に反応して、机から身を乗り出して様子を伺う花巻と及川の声にブンブンと首を振った。泣きそうにはなっているが、涙は出ていない。これは本当だ。
「受験生は情緒不安定なの、放っておいて」
「泣いてるちゃんを放ってなんておけないよ」
「……声が笑ってるんですけど」
「顏も笑ってるから安心して」
 花巻の言葉にばっと顏をあげると、本当に含み笑いをしていた及川にイラついて消しゴムを投げつけた。額にクリーンヒットしたそれはころころと埃っぽい床に転がる。「痛い!」と痛いと額を抑えていた。
「ヒドイ!」
「ごめん当たるとは」
「確実に当てに来てたよ!」
「うん」
「もう! ねえ、まっつん赤くなってない?」
 及川は向かいに座る松川に額を見せて、松川もそれにノッてその額をよしよしと撫でる。花巻はそれを笑いながら写真に収めているし、この中で真面目に勉強を続けられる岩泉の集中力を心底羨ましく思う。
「岩泉になりたい……」
「わかったからお前ら早く勉強しろ」
「三銃士のせいで岩泉に怒られたんですけど!」
「いやだよ」
 口々に私のせいだと笑う三銃士を睨み付けたが、これはもう効果がないことは大分前から気づいている。それでも同じことをしてしまうのは、少しでも抵抗の意思を見せたいからだ。
「……センター失敗したら三銃士のこと一生怨むからね」
「それは逆怨みもいいとこだろ」
「そして親の脛をかじって生きていきます」
「ニートじゃん」
 次々に三銃士に言い負かされて、どんどん頭が下がっていく。そのまま机に額をついて、うるさいと悪態をついた。そんな時、ハァと岩泉の盛大なため息が聞こえて、また呆れられてしまうのだろうかと肩がびくついた。
「さすがにニートを養う自信はない」
「……えっ!」
 「岩泉かっけーな」なんて感嘆の声を漏らす三銃士の声をBGMに、思わず口端が上がるのを止められない。そんな私の緩みきった顔を見て岩泉がまたため息をついた。
「聞いたか三銃士よ……!」
「聞いた聞いた」
「良かったね」
「私、今なら東大も夢じゃないよ」
「……わかったから早く夢から覚めて現実見てくれ」
 うきうき気分で改めて参考書と顔を合わせるとやはり意味のわからない数式ばかり並んでいて、結局少しも経たないうちにまたギャンギャンと騒がしく三銃士との小競り合いが始まるのだった。
20160204